20091110(火)

崩す。

考察×22

ネットサーフィン(と今でもいうのか??)をしていると、たまに、コメント欄が炎上に近くなって、その挙句「記事に反論するようなコメントを入れた人に対して、記事主「見るな」というコメントを返すことがある。

どうもそれって、あちこちであるらしい。

確かに正論なのだけど、言われたほうは戸惑う。

そこにある看板と同じで、たまたま目にしたら、自分にとって違和感があったのでつい、一言漏らしたということはどこでもあるからだ。

そんなことは一度もない、と断言する人がいたら、その人は間違いなくうそつきなので、いつかは酷い目にあわされることを覚悟していたほうがいい。

もうひとつ、違和感に思うのは、「見るな」という発言がどこから来たかということだ。

確かに不快に思うものを見なきゃいい、というのは簡単なのだし、対策としては、一番手っ取り早い。
この、手っ取り早いという効率を重視した点が、現代に向いているのだろう。

それに、見るなといわれれば、実際に見なくなる人もいるので、事象は沈静化する。
また、見るなということは、メタ思考、俯瞰にたって考えるといった視点から見ることもできるので、察しのいい賢い人はそうしてしまう。

メタ思考、俯瞰にたって考えるというのは、両方とも簡単にいうと上から目線だ。


しかし、何か事象を見て、コメントを出して、そのコメントを出した人に「見るな」というのは、本来なら次元が違う。

同じ次元でいうならば、本来は「言うな」である。

しかし「言うな」というのは、自分の意見が、反論に耐えうるものではなく、脆弱な独りよがりのものであると認めたということに他ならず、とどのつまりは帰納的根拠がないということと等しいと考えられる。

けれど、自分の発した意見が、ただの独り言であるとは自分でも認めたくない。
なので、開き直って、見るなというのである。

「行動が気に入らないから、さらに行動を規制してやる」といった応酬でしかないといえる・・・。

しかしここにも欠点はあって、開き直らないで、ちゃんと耳を傾けようとすると、それこそ、なんでもありかと思う人たちから、いろいろなものが飛び込んできて、事態は泥沼に入っていく。

それに「見るな」というのも自由なので、それを否定しようとは思っていない。
私は、ただ単にその下に沈んでいる(と思われる)ことを考えているだけなので。


見ざる・言わざる・聞かざるという三猿の教えがある。

それは、余計なものを見たり、言ったり、聞いたりしないということで、日本に広く浸透している。

しかし、そこにあるものが、余計なものだとしたらどうだろう。余計なものは、片付けるなり、捨てるなり、始末を考えなければならない。
もちろん豊かになった日本、昔ほどにストイックに始末を考えることもないけれど。

身奇麗にすることは、ある程度好ましいとされているのは変わらない。自分一人だけなら、別に身奇麗にする必要などないのだ。
そこには必ず、自分以外の他者がいると無意識でも自覚しているということがいえる。


ブログをはじめ、意見の交換は、自分ひとりで成り立っているのではなく、相手がいて初めて成立するのだと、殊更に思う。
なので、わかりやすい文章ですり合わせていくことが必要なのかと思う。時間はかかるが、解決に近道はない、ように。













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