2008年11月11日(火)
べっぴんぢごく
ゆとり×33
“ | べっぴんぢごく(岩井志麻子著) 新潮文庫 新潮社刊 岩井志麻子さんってこういうの書く人だったのね、私ずっとますい志保さんと間違っていたかもしれません。(爆) 今日の記事はけして「べっぴんぢごく」の感想文ではありません。 そこのところ気をつけてお読みください。(笑) |
職場まで自転車で20分、電車で1時間、徒歩で10分。
この自転車に乗っている時間以外を読書など、にあてている。
たまに、わんこやにゃんこに出会うけど、大通りから中に入った裏道は、静かすぎて風景を見てるだけでは飽きる。
最寄の駅近くに古本屋があって、そこでちょっと以前の文庫や新書をかったりすることもあるのだけど、図書館で読み漁った経験があるので、古い本を入手するのは、よっぽどお気に入りでなければ、ちょっともったいないなーと思うようになった。
おまけに、小説もマンガもこの年になってくると、物語のベースというものが見えてしまう。
物語の展開も読めるようになってしまう。
なので、勢い、買うことも少なくなってきた。
ケチ(吝嗇)ですいません。
でもたまになんでもいいから読みたくなる。
経済本でも宗教本でもエロスでもペットでも芸術でも歴史でも地理でも科学でも。
手当たり次第に本を渇望するときがある。
本屋に入って、うろつきまわって、今回は珍しく表紙に引かれた。
帯に、
「美醜という地獄から女は永遠に逃れられない」呪われた女系家族、暗黒の物語
と書かれていたことが、また私を引っ張った。
いくらか立ち読みして面白いと思った。
買った。
昨日一晩で読んだ。
私の読む速度は速くはないがけして遅くも無い。(笑)
お話の内容はおいといて、舞台は岡山なのだけど、この地方にはなにか、人智を超えたものが渦巻いているのだろうかと思わざるを得ない。
小説、八つ墓村のベースになった津山事件、幕末の人切り以蔵の輩出、日本でもっとも有名なおとぎ話、桃太郎。
桃太郎のお話は子供向けに明るく明るくされているけど、いろいろなところに書かれている、原書を読めばおそらくはあまり明るくもなくむしろ悲しいような気さえしてくる。
人という字は二人で成り立っていると、一人じゃ生きられないからだというが、そうではなく、肉体と精神のふたつの別なものが重なり合って人は出来ている、または生と死は常にとなりあっているかということを暗喩しているかのようだ。
生きているものと死んでいるものと二つを分かつものはいったい何か。
事実、この小説には運命に翻弄される女というより、運命という漠然としたものではない何かにはっきりと影響を受けている。
岡山とはそういうものが色濃く残った地域なのだろうか。
忍者を使い、情報をかく乱して戦い始めたのは、毛利元就といわれている。
主君の尼子氏はその情報にかく乱されて、身もだえんばかりに苦しんだろう。結局は毛利氏に滅ぼされもした。
下克上の時代とはいえ・・・・。
そんな尼子氏の想念が岡山には色濃く、広く今でも残っているのだろうか思った。
今こうして書いているのも、私の、「書く」という気持ちを強く刺激されたような、そんな気がする。
この自転車に乗っている時間以外を読書など、にあてている。
たまに、わんこやにゃんこに出会うけど、大通りから中に入った裏道は、静かすぎて風景を見てるだけでは飽きる。
最寄の駅近くに古本屋があって、そこでちょっと以前の文庫や新書をかったりすることもあるのだけど、図書館で読み漁った経験があるので、古い本を入手するのは、よっぽどお気に入りでなければ、ちょっともったいないなーと思うようになった。
おまけに、小説もマンガもこの年になってくると、物語のベースというものが見えてしまう。
物語の展開も読めるようになってしまう。
なので、勢い、買うことも少なくなってきた。
ケチ(吝嗇)ですいません。
でもたまになんでもいいから読みたくなる。
経済本でも宗教本でもエロスでもペットでも芸術でも歴史でも地理でも科学でも。
手当たり次第に本を渇望するときがある。
本屋に入って、うろつきまわって、今回は珍しく表紙に引かれた。
帯に、
「美醜という地獄から女は永遠に逃れられない」呪われた女系家族、暗黒の物語
と書かれていたことが、また私を引っ張った。
いくらか立ち読みして面白いと思った。
買った。
昨日一晩で読んだ。
私の読む速度は速くはないがけして遅くも無い。(笑)
お話の内容はおいといて、舞台は岡山なのだけど、この地方にはなにか、人智を超えたものが渦巻いているのだろうかと思わざるを得ない。
小説、八つ墓村のベースになった津山事件、幕末の人切り以蔵の輩出、日本でもっとも有名なおとぎ話、桃太郎。
桃太郎のお話は子供向けに明るく明るくされているけど、いろいろなところに書かれている、原書を読めばおそらくはあまり明るくもなくむしろ悲しいような気さえしてくる。
人という字は二人で成り立っていると、一人じゃ生きられないからだというが、そうではなく、肉体と精神のふたつの別なものが重なり合って人は出来ている、または生と死は常にとなりあっているかということを暗喩しているかのようだ。
生きているものと死んでいるものと二つを分かつものはいったい何か。
事実、この小説には運命に翻弄される女というより、運命という漠然としたものではない何かにはっきりと影響を受けている。
岡山とはそういうものが色濃く残った地域なのだろうか。
忍者を使い、情報をかく乱して戦い始めたのは、毛利元就といわれている。
主君の尼子氏はその情報にかく乱されて、身もだえんばかりに苦しんだろう。結局は毛利氏に滅ぼされもした。
下克上の時代とはいえ・・・・。
そんな尼子氏の想念が岡山には色濃く、広く今でも残っているのだろうか思った。
今こうして書いているのも、私の、「書く」という気持ちを強く刺激されたような、そんな気がする。
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