2009113(火)

枯(12)

物語×41

(続き)


 ハルは社長に気に入られていたと思ったが、それは大きな誤解だったらしい。だがその誤解はハルだけでなく周囲も巻き込む誤解だった。
 現実にやめたその日、社長はすでに出かけていた。やめるだろうと察しでも付いていたのだろうか。

 気管支炎で休み、復帰した後、社長はハルにこう言った。
「ハルちゃん、君は不倫とかしないのかい?いつでもおいで相手になるよ。」
「ここで一番の美人なんだから、負けないで頑張りなさい」
と。

 それは一体なんだったのか。社長の真意は未だにわからない。
 みんなの前でわざと不倫しようと言ったのは、

「何かあったら相談に来なさい」
という意味を含んだものかもしれない。

 でもそれは、注目の的になり、ハルの一挙手一投足はさらに監視に晒されてしまう。
いわれてもハルはただ困るだけだ。それとも、その発せられた言葉は、

「そうなる危険があるから、絶対に相談にくるな」
という警告なのか。むしろそれを言いたかったのではないか。

 リーダーは、今まで社長に嫌味を言われても、一番若いということで可愛がってもらってもいたらしい。
 それが、ハルがいると、社長は綺麗なハルになびくように見える。ひとつ年上の女に。
 新人だから目に付きやすいだけなのに、リーダーはそれを妬む。妬んで、酷いひどい目でじろりとハルをにらみ続けた。

 ハルヨは、ハルがハルちゃんと呼ばれていたことを妬む。
ハルヨは社長は嫌いだといって憚らなかった。だけど、ハルのように「ハルちゃん」と言われたい気持ちは大いにあった。言われたくてたまらなかった。

一度、
「ハルちゃん」
と社長が遠くから声をかけたとき、ハルヨが間髪いれず
「はい」
と返事をした。社長は驚いていたが、
「私もハルがつくんですよ」
と細い目を一層細めて笑った。

それらをハルは思い出す。


 仕事をやめて、初めての日曜日、ハルは夫と子どもと一緒にオモチャ屋さんに来ていた。
 自分で思うより、私は尻が軽そうに見えたのだろうか、と悔いた。その意味はそのままのとおり。化粧っ気もなく、地味にしていたつもりだったのに、何故?と思った。

 ただ、わかったのは、酷い目にあったことだけ。
 助けようとして、火に水を注がず、油をそそぐ軽率な男に気に入られ、そのとばっちりを受けてハルは生殺しにあった。

 頭の中が白くなってきた。
 太い黒い線が、ぎしっと音を立てて流れ、上と下の風景がずれた。マジックショーの人体切断のように。箱の中の美しい女性は微笑を称えているが、ハルはひきつり凍っている。
勤めていたときの風景が思い出されるたびに、ぎしぎしと頭の中で大きな音が鳴って、ハルの心の中はパズルのようにずれて行った。

 辞めた後の一週間が、ハルにとって一番の困難な時期だった。いきなり苦痛から解放された禁断症状なのだろうか。不安でたまらない。自分の存在すら危い。

 オモチャ売り場で、幼い自分の子が、好みのオモチャを探している。
 その可愛さ、愛らしさ。
 それが恐ろしい。
 可愛いこと、綺麗なことは、素直なことは排除されるからだ。
 オモチャにされて生贄にされるからだ。
 自分の身に起きた全ての黒い影が、可愛いわが子に覆いかぶさって見えた。

 錯覚。これは錯覚以外なにものでもない。
でも、その錯覚が現実と入れ替わっている気さえする。錯角だと思っていたことはすべて現実で、今まで生きてきた現実こそは錯覚なのかもしれなかった。

 ハルの人生は価値観は全て錯覚の世界のことなのか?
いやハルそのものが錯覚の産物なのか?
誰かの妄想のなかで生きているだけの存在なのか?

 もし自分の子供があんな目にあったら、ハルはきっと怒鳴り込むと思う。でも、ハルのために怒鳴り込む人はいなかった。自分自身でさえも怒鳴らなかった。

 その場にハルはいられなくなった。外の空気を吸いに出た。
・・・それが引き金だった。

 外には人がたくさんいた。その人たちが全てハルの方向を向いていた。
 当たり前だ。ハルはスーパーの入り口から出たのだから。 こっちに向かって人が歩いてくるのは当たり前だ。
 だが、全てに監視されている錯覚に陥った。
 そう、前の職場のリーダーとハルヨのような監視。

 他より愛されやすいだろう容姿を持ちながら、愛されたことはなく、くらい表情で惨めな姿を晒しているのを、何事かと凝視され、酷い目にあわせようと待ち構えているのではないかと思った。

 ハルはそこから離れ始めた。人の多いところには居られなかった。
 はじめはゆっくり、ゆっくり。そして、だんだん早く、歩くスピードはどんどん速くなった。汗が出てき始めた。

 その日は、暖かい日で、少し歩いただけで汗ばんだ。なのに、ハルの心は恐怖で寒々しく一層凍りついていく。歩くことが止められなかった。

 気が付いたら、ハルは隣の市のダンボール工場近くのサクラ並木のところで、夫に後ろから抱きしめられていた。
 突然居なくなった妻を探して携帯をかけたりしているうちにGPSに気がついた。慌ててクルマに乗り込んで、携帯電話のGPSを追ってきたらしかった。

 ハルのために怒鳴り込むことはできないが、その代わり支えようとしたことは判った。

(続く)






 コメント(0件)コメント欄はユーザー登録者のみに公開されます 
コメント欄はユーザー登録者のみに公開されています

ユーザー登録すると?
  • ユーザーさんをお気に入りに登録してマイページからチェックしたり、ブログが投稿された時にメールで通知を受けられます。
  • 自分のコメントの次に追加でコメントが入った際に、メールで通知を受けることも出来ます。






 ABOUT
ankh
気になったことを調べたり、何かを作ってみたり、趣味を発表する場に使おうと思います。

属性個人
 カウンター
2008-04-09から
136,970hit
今日:21
昨日:83


戻る