2009年1月13日(火)
枯(12)
物語×41
(続き)
ハルは社長に気に入られていたと思ったが、それは大きな誤解だったらしい。だがその誤解はハルだけでなく周囲も巻き込む誤解だった。
現実にやめたその日、社長はすでに出かけていた。やめるだろうと察しでも付いていたのだろうか。
気管支炎で休み、復帰した後、社長はハルにこう言った。
「ハルちゃん、君は不倫とかしないのかい?いつでもおいで相手になるよ。」
「ここで一番の美人なんだから、負けないで頑張りなさい」
と。
それは一体なんだったのか。社長の真意は未だにわからない。
みんなの前でわざと不倫しようと言ったのは、
「何かあったら相談に来なさい」
という意味を含んだものかもしれない。
でもそれは、注目の的になり、ハルの一挙手一投足はさらに監視に晒されてしまう。
いわれてもハルはただ困るだけだ。それとも、その発せられた言葉は、
「そうなる危険があるから、絶対に相談にくるな」
という警告なのか。むしろそれを言いたかったのではないか。
リーダーは、今まで社長に嫌味を言われても、一番若いということで可愛がってもらってもいたらしい。
それが、ハルがいると、社長は綺麗なハルになびくように見える。ひとつ年上の女に。
新人だから目に付きやすいだけなのに、リーダーはそれを妬む。妬んで、酷いひどい目でじろりとハルをにらみ続けた。
ハルヨは、ハルがハルちゃんと呼ばれていたことを妬む。
ハルヨは社長は嫌いだといって憚らなかった。だけど、ハルのように「ハルちゃん」と言われたい気持ちは大いにあった。言われたくてたまらなかった。
一度、
「ハルちゃん」
と社長が遠くから声をかけたとき、ハルヨが間髪いれず
「はい」
と返事をした。社長は驚いていたが、
「私もハルがつくんですよ」
と細い目を一層細めて笑った。
それらをハルは思い出す。
仕事をやめて、初めての日曜日、ハルは夫と子どもと一緒にオモチャ屋さんに来ていた。
自分で思うより、私は尻が軽そうに見えたのだろうか、と悔いた。その意味はそのままのとおり。化粧っ気もなく、地味にしていたつもりだったのに、何故?と思った。
ただ、わかったのは、酷い目にあったことだけ。
助けようとして、火に水を注がず、油をそそぐ軽率な男に気に入られ、そのとばっちりを受けてハルは生殺しにあった。
頭の中が白くなってきた。
太い黒い線が、ぎしっと音を立てて流れ、上と下の風景がずれた。マジックショーの人体切断のように。箱の中の美しい女性は微笑を称えているが、ハルはひきつり凍っている。
勤めていたときの風景が思い出されるたびに、ぎしぎしと頭の中で大きな音が鳴って、ハルの心の中はパズルのようにずれて行った。
辞めた後の一週間が、ハルにとって一番の困難な時期だった。いきなり苦痛から解放された禁断症状なのだろうか。不安でたまらない。自分の存在すら危い。
オモチャ売り場で、幼い自分の子が、好みのオモチャを探している。
その可愛さ、愛らしさ。
それが恐ろしい。
可愛いこと、綺麗なことは、素直なことは排除されるからだ。
オモチャにされて生贄にされるからだ。
自分の身に起きた全ての黒い影が、可愛いわが子に覆いかぶさって見えた。
錯覚。これは錯覚以外なにものでもない。
でも、その錯覚が現実と入れ替わっている気さえする。錯角だと思っていたことはすべて現実で、今まで生きてきた現実こそは錯覚なのかもしれなかった。
ハルの人生は価値観は全て錯覚の世界のことなのか?
いやハルそのものが錯覚の産物なのか?
誰かの妄想のなかで生きているだけの存在なのか?
もし自分の子供があんな目にあったら、ハルはきっと怒鳴り込むと思う。でも、ハルのために怒鳴り込む人はいなかった。自分自身でさえも怒鳴らなかった。
その場にハルはいられなくなった。外の空気を吸いに出た。
・・・それが引き金だった。
外には人がたくさんいた。その人たちが全てハルの方向を向いていた。
当たり前だ。ハルはスーパーの入り口から出たのだから。 こっちに向かって人が歩いてくるのは当たり前だ。
だが、全てに監視されている錯覚に陥った。
そう、前の職場のリーダーとハルヨのような監視。
他より愛されやすいだろう容姿を持ちながら、愛されたことはなく、くらい表情で惨めな姿を晒しているのを、何事かと凝視され、酷い目にあわせようと待ち構えているのではないかと思った。
ハルはそこから離れ始めた。人の多いところには居られなかった。
はじめはゆっくり、ゆっくり。そして、だんだん早く、歩くスピードはどんどん速くなった。汗が出てき始めた。
その日は、暖かい日で、少し歩いただけで汗ばんだ。なのに、ハルの心は恐怖で寒々しく一層凍りついていく。歩くことが止められなかった。
気が付いたら、ハルは隣の市のダンボール工場近くのサクラ並木のところで、夫に後ろから抱きしめられていた。
突然居なくなった妻を探して携帯をかけたりしているうちにGPSに気がついた。慌ててクルマに乗り込んで、携帯電話のGPSを追ってきたらしかった。
ハルのために怒鳴り込むことはできないが、その代わり支えようとしたことは判った。
(続く)
ハルは社長に気に入られていたと思ったが、それは大きな誤解だったらしい。だがその誤解はハルだけでなく周囲も巻き込む誤解だった。
現実にやめたその日、社長はすでに出かけていた。やめるだろうと察しでも付いていたのだろうか。
気管支炎で休み、復帰した後、社長はハルにこう言った。
「ハルちゃん、君は不倫とかしないのかい?いつでもおいで相手になるよ。」
「ここで一番の美人なんだから、負けないで頑張りなさい」
と。
それは一体なんだったのか。社長の真意は未だにわからない。
みんなの前でわざと不倫しようと言ったのは、
「何かあったら相談に来なさい」
という意味を含んだものかもしれない。
でもそれは、注目の的になり、ハルの一挙手一投足はさらに監視に晒されてしまう。
いわれてもハルはただ困るだけだ。それとも、その発せられた言葉は、
「そうなる危険があるから、絶対に相談にくるな」
という警告なのか。むしろそれを言いたかったのではないか。
リーダーは、今まで社長に嫌味を言われても、一番若いということで可愛がってもらってもいたらしい。
それが、ハルがいると、社長は綺麗なハルになびくように見える。ひとつ年上の女に。
新人だから目に付きやすいだけなのに、リーダーはそれを妬む。妬んで、酷いひどい目でじろりとハルをにらみ続けた。
ハルヨは、ハルがハルちゃんと呼ばれていたことを妬む。
ハルヨは社長は嫌いだといって憚らなかった。だけど、ハルのように「ハルちゃん」と言われたい気持ちは大いにあった。言われたくてたまらなかった。
一度、
「ハルちゃん」
と社長が遠くから声をかけたとき、ハルヨが間髪いれず
「はい」
と返事をした。社長は驚いていたが、
「私もハルがつくんですよ」
と細い目を一層細めて笑った。
それらをハルは思い出す。
仕事をやめて、初めての日曜日、ハルは夫と子どもと一緒にオモチャ屋さんに来ていた。
自分で思うより、私は尻が軽そうに見えたのだろうか、と悔いた。その意味はそのままのとおり。化粧っ気もなく、地味にしていたつもりだったのに、何故?と思った。
ただ、わかったのは、酷い目にあったことだけ。
助けようとして、火に水を注がず、油をそそぐ軽率な男に気に入られ、そのとばっちりを受けてハルは生殺しにあった。
頭の中が白くなってきた。
太い黒い線が、ぎしっと音を立てて流れ、上と下の風景がずれた。マジックショーの人体切断のように。箱の中の美しい女性は微笑を称えているが、ハルはひきつり凍っている。
勤めていたときの風景が思い出されるたびに、ぎしぎしと頭の中で大きな音が鳴って、ハルの心の中はパズルのようにずれて行った。
辞めた後の一週間が、ハルにとって一番の困難な時期だった。いきなり苦痛から解放された禁断症状なのだろうか。不安でたまらない。自分の存在すら危い。
オモチャ売り場で、幼い自分の子が、好みのオモチャを探している。
その可愛さ、愛らしさ。
それが恐ろしい。
可愛いこと、綺麗なことは、素直なことは排除されるからだ。
オモチャにされて生贄にされるからだ。
自分の身に起きた全ての黒い影が、可愛いわが子に覆いかぶさって見えた。
錯覚。これは錯覚以外なにものでもない。
でも、その錯覚が現実と入れ替わっている気さえする。錯角だと思っていたことはすべて現実で、今まで生きてきた現実こそは錯覚なのかもしれなかった。
ハルの人生は価値観は全て錯覚の世界のことなのか?
いやハルそのものが錯覚の産物なのか?
誰かの妄想のなかで生きているだけの存在なのか?
もし自分の子供があんな目にあったら、ハルはきっと怒鳴り込むと思う。でも、ハルのために怒鳴り込む人はいなかった。自分自身でさえも怒鳴らなかった。
その場にハルはいられなくなった。外の空気を吸いに出た。
・・・それが引き金だった。
外には人がたくさんいた。その人たちが全てハルの方向を向いていた。
当たり前だ。ハルはスーパーの入り口から出たのだから。 こっちに向かって人が歩いてくるのは当たり前だ。
だが、全てに監視されている錯覚に陥った。
そう、前の職場のリーダーとハルヨのような監視。
他より愛されやすいだろう容姿を持ちながら、愛されたことはなく、くらい表情で惨めな姿を晒しているのを、何事かと凝視され、酷い目にあわせようと待ち構えているのではないかと思った。
ハルはそこから離れ始めた。人の多いところには居られなかった。
はじめはゆっくり、ゆっくり。そして、だんだん早く、歩くスピードはどんどん速くなった。汗が出てき始めた。
その日は、暖かい日で、少し歩いただけで汗ばんだ。なのに、ハルの心は恐怖で寒々しく一層凍りついていく。歩くことが止められなかった。
気が付いたら、ハルは隣の市のダンボール工場近くのサクラ並木のところで、夫に後ろから抱きしめられていた。
突然居なくなった妻を探して携帯をかけたりしているうちにGPSに気がついた。慌ててクルマに乗り込んで、携帯電話のGPSを追ってきたらしかった。
ハルのために怒鳴り込むことはできないが、その代わり支えようとしたことは判った。
(続く)
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