2009117(土)

枯(17)

物語×41

(続き)

 地球の歴史のなかで生物が、絶滅と進化の淘汰の中で様々な仕組みの生物群を形成してきたように、ヒトは思索することで種の進化を進めてきた。
 ハルの思いは、そこから出た行動は、それ以上育つことはなく滅びたが、思惑と事態は全く思いも寄らないような反対の方向に向かって行った。

 ひとつの出来事の終わりは、また別の出来事のはじまりである。


 男に駅まで送ってもらったり、お昼をご馳走になったりしたので、ハルは男にお礼のメールを送った。
 いろいろお世話いただきまして、ありがとうございました、という単なる礼状のはずだった。
 その日の夜に送り、次の日の夜に男から返事が来た。

 ハルが宿泊していたホテルから、駅までにいく間の、短い時間でほとんど駅ですごしてしまったが、それでも楽しかったその日の事を思い出しながら、ハルは届いたメールを読んだ。

 しかし一体何が起きたのかと何回も何回も読み直すことになった。
 背中にじわりと汗が出て、目に何かが溜まっていくのがわかった。
 読み直さないではいられなかった。

 ハルが直前に送ったメールから、全く考えもつかないような返事で、何度も読み直し目の錯覚ではないと、悟ったときに、つと涙を落とした。

 「会いたくなかったけど、あなたに卑怯者呼ばわりされるのは嫌だった」
というハルに対する文句があり、私は妻とわかれるつもりはないと言ってきた。離婚することになったら、ハルのせいだと男は、言ってきた。

 会いたくないなら、会いたくないといえばいいだけなのに。会ってもいいような悪いような曖昧さを持っていたのは彼のほうではないか。
 いつか他所でみた、追及ばかりの、嫌らしい内容になっていた。
 しかもハルが、男を卑怯者だとののしると決め付けて先に自己弁護までしている。

 確かに行き詰ったなら、それもひとつの方法だとは言った。だけど、最後まで、それはさせたくなかったし、そうならないようにしたいと思っていたのに。それもきちんと伝えたのに、なぜこんなにひねくってしまったのか不思議でならなかった。

 ハルが男と一緒になりたいと願っているとでも思ったのだろうか。

 いや、ハルにだって夫はいる。夫とその男とどちらかを選べといわれたら、当たり前のように夫を選ぶ。倦怠していたとしても、いままで一緒にいたようにこれからも居続ける。
夫との間には、安心がある。気安さがある。気遣いを適切に受け止める包容力がある。
 だが男との間には、それはない。緊張、新しい関係の中で生じてしまう摩擦を回避する気遣い、そういったものに占められてしまっている。今後、もしかしたら、夫との間でできたことは、できるかもしれない。
 けれど、それには夫にかけた以上に莫大なエネルギーを遣う。そうなれば、一度に二人の男に同じようにすることは出来ない。例えしたとしても十分な心づくしは出来ない。そんなことで満足を得られるのか?
 結局は破綻するだけではないか。

 男は、延々と自分自身の事だけを話したから、ハルからそういったこと全てを聞きはぐった。

 それに男は、ハルの気持ちは要らないと受け取らなかった。
 会話している間、男はハルに
「思ったより魅力的でときめいた」と言った。
 ハルはあははと軽く笑った。

だからハルはメールにそれも書いた。
「奥さんの時だってそうだったでしょう、思い出せるんじゃない?」

それに対しては、思い出すにはまだまだ足りないと責めてきた。

 男は、ハルを要らないと望まないと言った。
 受け取らなかったのに、足りないといって返してきた。

 誤解が生まれたと思ったとハルは思った。
 でも男がそれを望んでいるなら、それでもいいかとも思った。誰かを憎むことで誰かが幸せになるなら、それでもいい。ハルを憎むことで奥さんと仲良くなれるなら、それで自信を取り戻せるならそれでもいい。
 
 だって二人の住んでいる距離は物理的に離れすぎて、会う事は無いのだから。

 そう思って返事を返した。それに、それ以上はどうにもできないのだから。

 ところが、今度は
「あなたが何を言っているのか、さっぱりわからないのです。失礼ですが酔っていますか?」と帰ってきた。

 ハルは滅多に酒は飲まない。たしかに男の住むところに行った時、お酒は飲んだ。
 飲んだが、それは全てじゃない。
 夫が下戸だから、買い置きすらハルの家にはない。

「酔っていますか」はショックだった。酒によっているのか、それともハルが自分の言葉によっていると思ったのか。それとも両方?

 男のまいた種は思わぬところに目を出したかもしれない。でも、それに気がついて、ちゃんとそれを踏み潰したはずだろうに。

 丁寧に言葉を選び、涙をひた隠しにして真面目に書いたものを、酔っていると一言で片付けられて、ハルはどうしたらいいか判らなくなった。
自分が、踏み潰されて、体液を広げている毛虫のような気がした。

 それ以来、男は、なにか一言でも理解できないと、全てひねくって戻してきた。ハルは送信済みの自分で書いたメールを何度も読み直し、また戻ってきた返事も読み直し、ブレが無いよう、丁寧に、丁寧に言葉を選んで何ども返事を送った。
 全ての思いを言葉にするのは不可能だが、それでも伝えようと試みた。

 それでも誤解ばかりが増え続けていく。その誤解は、お互いが減らしていく誤解ではなく、男が己の要求をハルに認めさせるための誤解なのだ。
 ハルを認めないのに、己を認めろというのだ。
 穏やかな口調の、追求だらけの内容の、どう答えていいのか判らないものばかり送られてきた。それに神経をすり減らすハルは、まるでわがままな男主人の奴隷になったようだった。

 男が満足する答えを得るまで、執拗な追求がなされ、ハルにとってはただ拷問を受けているに等しい時間になった。
 それでもハルはいつか誤解は解けると信じて、やりとりを続けた。

(続く)






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