2009118(日)

枯(18)

物語×41

終焉に向かって収束しつつあります。
従いまして、この章はいままでより長くなっております。

(続き)

 大きな水滴の中に閉じこめられている男。そこから出ようともがいている。手を出している。なにか困った顔をしながら、声を出しているようだ。でもそれは聞こえてこない。たまたま通りかかったハルがそれに気づいた。手を伸ばして掴もうとしたとき、男はいきなり手を引っ込めて、大きく高笑いしながら底にもぐっていった。
 手は握りたかったのか、握りたくなかったのか。ただ、捕まえたいなら入って来いといわんばかりだった。

 男が、離婚の責任はハルにあるといってきたとき、ハルにはその風景が見えた。
 そのときのハルの悔しさと言ったらなかった。いや悔しいという例えは違う。
 虚しい、かもしれない。でもハルは自分の中で何かをむりやりむしられたようにも感じたから、やはり悔しいのかもしれない。

 結局、彼は助けなど求めていなかったのだ。
 最初から、誰かを己の世界に引き込み、引き込んだ己の世界で、引っ張り込んだ人間を馬鹿にし、蔑み、相手が困るように仕向け、それを楽しみたかったのだ。

 だれでもいいから、思い通りになってほしいと期待していたのだと思う。
 だから、あえて、他人が読めば後味の悪い、胸がむかむかするようなことを書いていたのだ。相手自らが絡んでくるように仕向け、その嘘をつき、自分の有利を導き、そのうえでの勝利の美酒を飲みたいがために。

 もちろん、それはハルの想像の範囲でしかない。
 だが間違っても居ないだろう。胸がむかむかすることを書くのは事実なのだから。

 最初は、ハル自身も男に迷惑を書けたのだと、心苦しく思った。
 だから償いたい気持ちもあった。
 だけど、男の中では、それすら悪いことだといわんばかりに変わるのだ。

 あの酷い職場でハルに降りかかったことと同じだ。

 関われば関わるほど馬鹿にされ、引きずり回されているように思う。何度も悲しい気持ちに、自分が惨めな、非道い人間で何もできない、役立たずのような気持ちにさせられる。
そして相手は、ハルの気持ちを踏みにじりながら、好き勝手な事をいう。その好き勝手をハルが無視すれば、無視させないように絡み続ける。
 心を尽くしても満足しない貪欲さにハルは悲鳴をあげた。


 男だってそうだ。
 したいようにさせたのに、望むままに付き合ったのに、なぜこんなに責められなければならないのか。
 今まで、ハルは相手に対して向き合い、相手の望みをかなえながら、その中で自分の望みをかなえてきた。そうやって来たつもりでもあり、そうであると信じていた。

 だが、いま男が主導権を握っているこの流れは、ハルの生き方と違う。
 男は己の欲求を通すため、しつこくせがむ。望みさえ叶えばいいのだ。
 そのためには誰かの価値観を、生き方を、存在をひっくり返すことなど気にもかけない。

 住んでいる世界、見ている風景、聞こえる音、話す言葉、考える方向はハルのそれとは違う。男の仕打ちはハルにとっては、愛という名前の暴力、思いやりという名前の枷でしかない。いくら望まれても、互いに殺しあいたいと願う関係は、それを断っても求めようとするそういう関係は、要らない。

 彼の構築する世界はハルのそれとは違うとはっきりした。

 だから自分の身を守るために、ハルは男を切った。
 そっと切ったのではなく、ぶった切った。
 離れるしかないと判断してからは、余裕などなかった。
 そっと切ろうとする間でさえ、容赦ない男の仕打ちは続くのだ。それをかわしながら、何とかするのは無理だった。

 ネットというどこまでもオープンな世界で、ハルは引きこもった。自分が密かに続けてきたブログも止めた。その自分の作った小さな世界で生まれた関係も捨てた。

信じたことが仇になるのなら、もう要らない。


 男が、奥さんと離婚したかどうかハルは結局知らない。知る必要もないし、まさかそんなことを知らせてくる人もいない。それに知りたくも無い。

 ただはっきりしているのは、離婚に至るのは、それまでの彼らの積み重ねが原因だ。
 それ以外に何があるというのか。
 少なくともハルがやりとりを切ったときでさえ、男はまだ成婚中だった。自称「枯れた人」はあの様子で、今でも奥さんから離れてはいないだろうとハルは苦笑いする。

 いや、離婚していたって構うものか。
 あの日、ハルと会うことを、男は奥さんに内緒にできず、自分から申告したのだ。

「嘘はつきたくないから」

 奥さんに誠実を誓っているのなら、ハルに会う理由などないだろうに。
 その肝腎なことを失念して、全てをハルの責任にする男なのだから。

 ハルの方だって、何もなかったわけではない。夫に対する裏切りなのはわかっていた。だから、一生隠し通すつもりでいたし、実際隠してもいた。
 しかし、メールのやりとりが、あまりにも酷かったから、ハルはかなり取り乱してしまったのだ。朝から晩まで怯えているハルを見て、夫は顛末を問いただした。
 かなり参っていたハルは、ありのままを話した。

 夫は、激しく気分を害した。

 だけれど、ハルは許された。
 ハルと男の間には、本当に、何も起らなかった。
 ゼロの掛け算はどんなに大きな数をかけてもゼロのまま。


 手助けをしようとしたことが過ちなのか。
 そうかもしれない、だからハルは愚か者と言われても、しかたない。

 助けを願っていると勘違いしたことがバカの証拠か。
 ああ、そうだ、だったらハルは大バカだ。

 けれど、全ては彼の願いどおりではないか。

 タネをまいて、目を出したところをまず踏みにじった。しかしなにかの気まぐれでそれを成長させようとやっきになった。
 奇跡を起こしたかったのか。崇められたかったのか。
 だけど、奇跡は起こらない。

 奇跡とか何か。それは憎んでいるもの蔑んでいるものから得る、憎んでいない、蔑んでいない愛情。
 
 崇めるとはなにか。そんな男に永遠の忠誠を誓わされること。

・・・起るわけなどない。すくなくともハルとの間では。


 まるで、満開のサクラの枝を折る愚かな花見客のようだ。
もちうる限りの全ての力を使って咲いている木の枝を折る。 力を使った木は弱くなって、抵抗力が落ちている。折れた枝は空気の中で傷口をむき出しにしているから、菌類が入り込み繁殖しやすい。
 菌類は、枝を、幹を腐らせ、いずれその腐れは、根に到達し、立っていられなくなる。

 花見客が折るほどに愛でた木は、次の年には花を咲かせない。

「すべからく悪いことの原因はハルにあるから、ハルが全て責任を負うべき」

 全てにおいて無責任の、その男に強く入れられた、死に至るもととなる毒。
 その毒は、ハルを根底から揺るがした。

 だからあれほどに職場で虐げられ、嫌がらせを受けてしまったのだ。怒ることもせず、ただ耐えてしまったのは、「自分が悪い」と思ったからだ。
 投げられた責任を償おうとしてしまったからだ。償ってもつぐなっても要求を強めてくるだけのものに。

(続く)






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