考察(22)
2010年10月2日(土)
日が短くなりましたね。
考察×22
10月に入り、昼の長さがこれからは一日一日短くなっていくわけですが、朝の日の出の時間もずいぶん遅くなりました。
特に今年は・・・一番暑い時期に20日も入院しましたので、あっというまに日が短くなった気がします。
最近の朝のことですが、パステル色のタオルを探している時に、色の区別がつかないことに気がつきました。
あれ?と思ってみると、部屋全体がグレー一色。
そこにあるオレンジのゴミ箱も、木目の美しい床も、コントラストの違うグレー一色。
たぶん、目に入る光の量が足りなくなり、明るさだけを感知していたのだと思います。一度気がつくと、あきらかに色のない世界だとわかるのです。
しかし、いつも見慣れた風景だから、脳が色を覚えていて、しっかり変換しているようなのです。
ドアを開けて光の量を多くすると、色彩がよみがえり、グレーの世界は、鮮やかな色のある世界に戻ります。
別の話もあります。
あ、ここからは、想像するとかなり痛い話になりますので、それが苦手な人は読まないほうがいいです。
入院していたのは、腰椎の一部が分離し、そのため狭窄がおき神経を圧迫して激しい痛みを起こしたからです。
今まで、手に油がかかったやけど、出産など、結構強い痛みを体験することはありましたが・・・この痛みは激しいですねえ・・・。
特に腰が痛くなったので、痛みをとるためブロック注射をしました。その時、身体を丸くするのですが、その時に足の筋をひねった気がしました。今回のことは、足にも影響したみたいです。
腰の痛みは徐々におさまりましたが、足は激痛に見舞われました。イタイイタイと、そんな名前の病気がありますが、本当にそれしか言葉が出ないくらいに痛いのです。
痛み止めの点滴も、座薬も、飲み薬もぜんぜん効きません。
例えようがないです。
あまりにもすごくて。
それでも強いていえば、虫に刺されて足が腫れて、膿んで、その痛みが太ももから足首まであるのに、ひざ周りを太い紐で強く縛られているような感じかなあ・・・・看護師さんに「腐ってませんか?」とたずねたくらい。
入院中には、痛みをとるために、レントゲンもMRIも撮りました。浅くですが、圧迫されている箇所はありました。
しかし、そこの圧迫は、痛みを訴えている箇所と神経のつながりが薄いのだそうです。そのために、内科も、もしかすると婦人科かも、ということでろくに歩けもしないうちに退院して、別の病院で検査をしました。
そこで婦人科の先生がおっしゃったのは、
「脳は痛みを覚えている」
という言葉。
脳の認識は、シナプスという神経回路の接続で行われますが、強い刺激で起こったことや、何回も繰り返し行われたことは、その神経回路を強めてしまい、それほどの刺激でもないのに、同じ回路を通して強い痛みがあるように誤解を起こすことがある・・・らしいのです。
最初に話した、うす暗い部屋での色の認識も、その働きによるものでしょう。
認識って、実は過去におきたことをなぞっただけの思い込みなのかもしれません。
もし、あなたが、
で本当に痛くなったような気がしたら、それが脳の思い込みを体験した瞬間です。
実際の痛みは、体験したものしか知りえない、非常に共有しにくい感覚です。
でも、その思い込みは、時に共有しにくい感覚を共有しうることも出来るものでもあるようです。
それは、とてもありがたいことだと思います。
もっとも、勘違いという言葉もありますが・・・(笑
さて、私の足は今でもいきなり痛み出すことがあります。
しかし、これがまた面白いことに、ハイソックスや、レギンスや、または包帯を軽く巻いておくと、痛みが少なくなります。
痛覚と一緒に、圧覚を刺激することで、脳が混乱しているようで、実際は痛いのに、痛くないのです。
これもまた勘違い。
脳って不思議ですね。
特に今年は・・・一番暑い時期に20日も入院しましたので、あっというまに日が短くなった気がします。
最近の朝のことですが、パステル色のタオルを探している時に、色の区別がつかないことに気がつきました。
あれ?と思ってみると、部屋全体がグレー一色。
そこにあるオレンジのゴミ箱も、木目の美しい床も、コントラストの違うグレー一色。
たぶん、目に入る光の量が足りなくなり、明るさだけを感知していたのだと思います。一度気がつくと、あきらかに色のない世界だとわかるのです。
しかし、いつも見慣れた風景だから、脳が色を覚えていて、しっかり変換しているようなのです。
ドアを開けて光の量を多くすると、色彩がよみがえり、グレーの世界は、鮮やかな色のある世界に戻ります。
別の話もあります。
あ、ここからは、想像するとかなり痛い話になりますので、それが苦手な人は読まないほうがいいです。
入院していたのは、腰椎の一部が分離し、そのため狭窄がおき神経を圧迫して激しい痛みを起こしたからです。
今まで、手に油がかかったやけど、出産など、結構強い痛みを体験することはありましたが・・・この痛みは激しいですねえ・・・。
特に腰が痛くなったので、痛みをとるためブロック注射をしました。その時、身体を丸くするのですが、その時に足の筋をひねった気がしました。今回のことは、足にも影響したみたいです。
腰の痛みは徐々におさまりましたが、足は激痛に見舞われました。イタイイタイと、そんな名前の病気がありますが、本当にそれしか言葉が出ないくらいに痛いのです。
痛み止めの点滴も、座薬も、飲み薬もぜんぜん効きません。
例えようがないです。
あまりにもすごくて。
それでも強いていえば、虫に刺されて足が腫れて、膿んで、その痛みが太ももから足首まであるのに、ひざ周りを太い紐で強く縛られているような感じかなあ・・・・看護師さんに「腐ってませんか?」とたずねたくらい。
入院中には、痛みをとるために、レントゲンもMRIも撮りました。浅くですが、圧迫されている箇所はありました。
しかし、そこの圧迫は、痛みを訴えている箇所と神経のつながりが薄いのだそうです。そのために、内科も、もしかすると婦人科かも、ということでろくに歩けもしないうちに退院して、別の病院で検査をしました。
そこで婦人科の先生がおっしゃったのは、
「脳は痛みを覚えている」
という言葉。
脳の認識は、シナプスという神経回路の接続で行われますが、強い刺激で起こったことや、何回も繰り返し行われたことは、その神経回路を強めてしまい、それほどの刺激でもないのに、同じ回路を通して強い痛みがあるように誤解を起こすことがある・・・らしいのです。
最初に話した、うす暗い部屋での色の認識も、その働きによるものでしょう。
認識って、実は過去におきたことをなぞっただけの思い込みなのかもしれません。
もし、あなたが、
それでも強いていえば、虫に刺されて足が腫れて、膿んで、その痛みが太ももから足首まであるのに、ひざ周りを太い紐で強く縛られているような感じかなあ・・・・
で本当に痛くなったような気がしたら、それが脳の思い込みを体験した瞬間です。
実際の痛みは、体験したものしか知りえない、非常に共有しにくい感覚です。
でも、その思い込みは、時に共有しにくい感覚を共有しうることも出来るものでもあるようです。
それは、とてもありがたいことだと思います。
もっとも、勘違いという言葉もありますが・・・(笑
さて、私の足は今でもいきなり痛み出すことがあります。
しかし、これがまた面白いことに、ハイソックスや、レギンスや、または包帯を軽く巻いておくと、痛みが少なくなります。
痛覚と一緒に、圧覚を刺激することで、脳が混乱しているようで、実際は痛いのに、痛くないのです。
これもまた勘違い。
脳って不思議ですね。
2010年6月12日(土)
文字の入力と変換
考察×22
“ | パソコンでの文字入力に関するちっちゃな薀蓄です。 もう知ってるよ!という方はスルーしちゃってくださいね。 それから携帯ユーザーさんにはごめんなさい、です。 |
突然ですが、みなさんはPCで文字を打つとき、かな入力ですか?
それともローマ字入力?
こないだ別件で入力の話でちょっと盛り上がったので記事にして見ました。
私は昔は、かな入力でしたが、最近はローマ字入力です。
MICROSOFT WORDというものが出てきて広がったとき、「ローマ字」から「かな」に強制的に変換するキーがわからなくて、直しました。
今ではローマ字のほうが早いです
さて、F(ファンクション)キーを押すことがあったので、ちょっと触れて見ましょうか。
根気よく変換キー(たいていはスペースですよね)を押していくと最後には変換できますが、入力を短縮したいなら、Fキーを押すのがお勧めです。
時間はかなり短縮されます。
そしてこれらの変換そのものを戻す時にはESCキー。
ESCキーを押しすぎると、文章がそっくり消えてしまうことがあるかもしれません。
(とりあえず、今試した感じではなかったのですが)
それを元に戻すにはCTRL+Zキーです。
CTRLキーを押しながらZを押すとできます。
今私はローマ字でのかな入力をしていますが、上のように突然「CTRL」と打ちたい場合はShiftキーを押しながら文字を打つとすぐに出きます。
これはOFFICEシリーズならたいてい同じです。
というかウインドウズなら同じだと予想されます。
マイとかちのブログの作成画面でも可能です。
MACは使ったことないのでわかりません、すみません(爆
慣れると、ものごっつ早いです。
もちろんいくつか違いもあります。
実はwindowsならみな同じー?とたかをくくって最初機種依存のメモ機能ででこれを打ちました。
しかし、CTRL+zを確かめるために、一度削除してCTRL+zしてその後間違って打った後、魔法はかかりませんでした。
いくらやっても打ち間違えたデータが出たり消えたり・・・。
おそらく直前のデータ(つまり、あっ!と気づいて直後)なら大丈夫だったのでしょうが、いくつか文字を打ち込んでしまったのでダメだったみたいです。
文字入力は、保存し終わるまで気を抜けないということを再認識しましたです。
ちなみに私は短い記事はいきなりブログ作成画面で文字を打ちますが、長い長い記事はワードで作成して、拡張子(そのファイルがどのような属性でできているかを知らせるものです、画像には顕著なので皆さんご存知だと思いますが)をHTMLにして保管し、後にファイルのダウンロードで記事を乗せます。
面倒ですが、打ち直しよりラクです!
皆さんも頑張ってくださいね!
それともローマ字入力?
こないだ別件で入力の話でちょっと盛り上がったので記事にして見ました。
私は昔は、かな入力でしたが、最近はローマ字入力です。
MICROSOFT WORDというものが出てきて広がったとき、「ローマ字」から「かな」に強制的に変換するキーがわからなくて、直しました。
今ではローマ字のほうが早いです
まず、ローマ字では小さい文字はとても面倒です。
「さっき」という言葉をうつためにsakkiとkを二回打ったりします。
でもこれ「saltuki」という打ち方でも可能です。
また「saxtuki」でもいけます。
つまり小さくなる文字は、「X」や「L」を先に打つことで小さくすることができるんです。
これは単独で小さい文字を打つときに非常に便利です。
っゃゅょぁぃぅぇぉ・・・ああ便利←実際打ちながら下書きを書いています。
また拗音(ねじる音)はこのようになります。
きゃきぃきゅきょはkya kyi kyu kyo。
真ん中のYがひねりを入れてくれているわけです。
ジャージャー麺はjya-jya-mennn
ラヴィアンローズはravyiannro-zuのF7キー押下。
違うパターンもあります。
でぃ でぇは、dhi dhe。
こっちは真ん中のHがひねってくれているわけですね。
「うぃ、まだーむ。」のうぃは、whiてなふうに。
さて、F(ファンクション)キーを押すことがあったので、ちょっと触れて見ましょうか。
根気よく変換キー(たいていはスペースですよね)を押していくと最後には変換できますが、入力を短縮したいなら、Fキーを押すのがお勧めです。
ちなみにMICROSOFT WORDの場合、文字入力を何もしない状態でFキーを押すと、
F5→検索と置換
F6→直前に入力したものを再変換できるようにする。
F7→F6と同じ
F8→F6と同じだが半角文字に変えてしまってから変換をするようにする。
F9→F6と同じ
F10→F8と同じ。
今度は文字を入れてみます。
くさ+F5→検索と置換(部首選択もできるものがあります)
くさ+F6→くさ(無変換)
くさ+F7→クサ(カナ変換)
くさ+F8→クサ(半角カナ変換)
くさ+F9→kusa(全角のローマ字変換)
くさ+F10→kusa(半角のローマ字変換)
キーを繰り返すと、頭と頭以外の文字違うようにもできます。
F10の場合、1回めkusa 2回目KUSA 3回目Kusa 4回目kusa・・・。
F7の場合は 1回目くさ 2回目クさ 3回目 くさ・・・・といったように。
時間はかなり短縮されます。
そしてこれらの変換そのものを戻す時にはESCキー。
ESCキーを押しすぎると、文章がそっくり消えてしまうことがあるかもしれません。
(とりあえず、今試した感じではなかったのですが)
それを元に戻すにはCTRL+Zキーです。
CTRLキーを押しながらZを押すとできます。
今私はローマ字でのかな入力をしていますが、上のように突然「CTRL」と打ちたい場合はShiftキーを押しながら文字を打つとすぐに出きます。
これはOFFICEシリーズならたいてい同じです。
というかウインドウズなら同じだと予想されます。
マイとかちのブログの作成画面でも可能です。
MACは使ったことないのでわかりません、すみません(爆
慣れると、ものごっつ早いです。
もちろんいくつか違いもあります。
実はwindowsならみな同じー?とたかをくくって最初機種依存のメモ機能ででこれを打ちました。
しかし、CTRL+zを確かめるために、一度削除してCTRL+zしてその後間違って打った後、魔法はかかりませんでした。
いくらやっても打ち間違えたデータが出たり消えたり・・・。
おそらく直前のデータ(つまり、あっ!と気づいて直後)なら大丈夫だったのでしょうが、いくつか文字を打ち込んでしまったのでダメだったみたいです。
文字入力は、保存し終わるまで気を抜けないということを再認識しましたです。
ちなみに私は短い記事はいきなりブログ作成画面で文字を打ちますが、長い長い記事はワードで作成して、拡張子(そのファイルがどのような属性でできているかを知らせるものです、画像には顕著なので皆さんご存知だと思いますが)をHTMLにして保管し、後にファイルのダウンロードで記事を乗せます。
面倒ですが、打ち直しよりラクです!
皆さんも頑張ってくださいね!
2009年12月14日(月)
ヘビーユーザー
考察×22
“ | 今日はできるだけ批判精神で記事に挑みたいと思います。 【批判】情報を分析・吟味して取り入れることを指し、客観的把握をベースとして問題の解決に使われる注意深い思考 (careful and precise thinking) |
前回書いた記事にいただいたコメントに、ヘビーユーザーという言葉がでました。
しかし、その言葉の意味は、お互い、定義がかなりずれていると知りました。
なので、いろいろ調べてみました。
まず、普通に検索をかけて引っかかるとウィキペディアを閲覧するかと思いますが、それにはこのように書いてありました。
日本ではこのくらいの意味でとどまりますが、英米では、
この言葉と対になるのは、日本ではライトユーザーという言葉になり、英米ではcasual user(一般ユーザーと訳していいのでしょうか)となります。
ちなみにライトユーザーの意味は次のようになります。
となります。転じて、初心者・素人とも言われます。
このヘビーユーザーとライトユーザーという言葉は、本来ならトラフィック(情報の流入・流出)の量の違いによってのみ区別されるのですが、マーケティングなどにこの言葉が入ると、メディアの利用頻度を示すための便宜上の分類で使用されることがあります。
そうなると何が起こるかというと、議論や会議など何らかの成果が必要な場においては、あいまいなままの定義では、まずその定義をめぐって紛糾・・・揉める事になります。
さて、前回私は、ヘビーユーザーを、
CSSを駆使して使い勝手の向上を図り、自らシステム開発に代価を支払って参加している人と定義しましたが、これらは、今はパワーユーザーといわれるそうです。
システムをいじるのだから、トラフィックには長時間関わることになるわけで、その点はヘビーユーザーと重なる部分があるでしょう。
パワーユーザーはヘビーユーザーであるといえるかと思います。
パワーユーザーは、ネットを構築する上では、ポイントを守りかつ他所のポイントとつなぐので、とても重要な位置になります。ネットを構築する上では、最大限重要な人員です。
しかし、これらはあくまでも情報処理のためのこと。
先に述べた、マーケティングでの意味、メディアの利用頻度を示すための便宜上の分類となると、ヘビーユーザーは、最初に述べた定義に限られます。
これらのことを踏まえて、マイとかちのユーザーについて考えてみました。
12月12日の時点での、ブログ開設者は838人。そしてこのときの全ユーザー数は5663名。
838割ることの5663は、約0.15となります。つまり登録ユーザーの15%がブログを書いています。
ところが記事を書いているからといって、ヘビーユーザーであるとは限らないのです。
そして、記事を書いていないからといって、ライトユーザーでもないのです。
なぜなら、その定義は、想定の平均利用時間を越えるかそれ以下の違いだからです。
目に見える部分では15%のユーザーが活躍していますが、コメントを書き込むだけのユーザー、見て情報を得るユーザーなど、いろいろな場面での使うユーザーの想定時間は定まっていないし、だから、平均利用時間はわかりません。
ええと、知っている方がいたら教えてください。
よろしくお願いします。
話は戻りますが、たくさん記事を書いているからヘビーユーザー、それは間違ってはいませんが、正しいともいえません。
それは長い記事を書くために時間のかかる人とかからない人がいるからです。
短くても、ゆっくり作る人もいれば、長くても一気に作る人もいる。
私は平均して0.5時間程度です。
ワードで下原稿を書いて、それが2時間かかることもありますが、接続は短い。回数は多いかもしれませんが、一回あたりの時間は非常に短いです。
それに普段はアクセスも多くないし画像も動画も少ない。
それに英米でヘビーユーザーが否定的なのは、システムを独り占めすることがあるからです。それをしてしまうと、日本の通信会社は制限をかけ、システムダウンを起こさせないようにします。
画像や動画をたくさん乗せている人は、トラフィックが多くなりますから、必然的に、このような扱いを受けることもあります。
つながるのに時間がかかる。それはヘビーユーザーのせいともいえます。
海外では速度を落とさないために、課金制にしているようですが、日本では先に述べたようにそれはしていません。
その代わり定額制にしています。
定額制においては、ライトユーザーがヘビーユーザーを支えている図式がまずあります。
そして、
この小さなサイトでは毎日新しいユーザーが参入していると思いますが、それらがいつまでもライトユーザーであるはずはなく、一時的にヘビーユーザーに成長することもあります。
そしてその時には、システムを追いつめてシステム変更を余儀なくされることになります。
しかし、それらが、そのままでいることもなく、さまざまな事情でライトユーザーにもなりえます。
使い勝手を知っている、ここまで来たライトユーザーは、もっとも洗練された姿であり、あるいは正体をあらわにしたユーザーです。
目的がきっちり決まって、それを超えることもなく、それを下回るわけでもない。システムを必要以上に使うこともなく、訳がわからないで使えないわけでもない。
とはいいましても、あくまでこれは使うことに重点を置いた定義です。
前回、一番の相違点は、【他者から求められるユーザーか否か】、ということであったと私は感じています。
しかし、他者からのアクセス数が多いからヘビーユーザーというのは何か違います。
そのアクセスは自分の起こしたものではなく、他人が起こしたもので、一時的にアクセスが増大することは誰の記事でもありえるからです。
・・・なにか違う。
なので探しました。
そして見つけたのは、アルファブロガーという存在。
これは世論に影響を与えているブロガーのリーダー格です。多くの人のアクセスを集め、影響力を持っています。しかし、その影響力は意外と少なく(?)5人に影響を与えればいいだけです。
海外ではa-listブロガーという存在があり、政治に影響を与えるなど実際に目に見えるような力を持っていますが、日本のアルファユーザーがそれらと同一という客観的データは存在しないので、このような数字になっているのでしょうか。
これをマイとかちに当てはめますと、影響にはいい影響と悪い影響がありますから、たとえば、好きな記事を書くユーザー、嫌いなことを書くユーザー、5人づつをユーザー全員に投票してもらえれば、アルファユーザーは決まりそうです。
なんでかっていうと、基準がないので、「印象に残るであろう」ということを影響というものにイコールとしたのですが。
しかし、それが決まったところで何か意味があるのでしょうか?
新規参入があれば、その度ごとに票を集めることになる。絶えずそんなことをしていることに大きな意味があるとは思えません。年に一回くらいのイベントなら面白いかもしれませんが・・・。
アルファブロガーは確かに、すごいと思います。アクセス数を集め影響力がある。
でも、別にアルファでなくても、こないだコメント欄でいただいたような、「支持します!」といってくださる方もいるわけですから(実はあまり意味がわかっていませんが、ありがとうございました)、アルファブロガーのすべての記事がアルファであるはずはなく、英雄の愚作というか、愚者の名作というか、そんなものもあるわけです。
いつまでもただのユーザーであるならば、どんなに記事を書いても、いつまでも横並びのユーザー。
むしろ、ヘビーユーザーになってしまうことは、システムを独り占めすることになるわけですから、使用料を払わなければならなくなるかもしれません。
記事をたくさん書けば書くほど、課金。
書くだけでなく読見続けるだけでも課金。
なんかそれも悲しいです。
回避策はいくつか考えても見ましたが・・・。
ずいぶん長くなりましたし、根拠も少ないので次回にします。
ですから結論としては、システムを構築する言語、オンラインの知識、インフラなど、そういった通信事業に関わる方面のことをいっぱい勉強して、パワーユーザーになればいいのではないかと思います。
そして自分だけのネット世界を構築する。
そうすれば、「自分の思うとおりのことが実現可能」、という優遇が受けられるのではないでしょうか?
これは私の主観に過ぎません。
ですが、そこにあるものに対してただ要求を強めるより、得策ではないか?と思います。
追記2009.12.22
しかし、他者からのアクセス数が多いからヘビーユーザーというのは何か違います。
そのアクセスは自分の起こしたものではなく、他人が起こしたもので、一時的にアクセスが増大することは誰の記事でもありえるからです
再読して、自分で気がついたのですが、
アクセスをトラフィックと考えたとき、情報量の多い記事をシステムを独占して読み込ませると考えれば、長い記事を持っている人は、ヘビーユーザーといえるかもしれません。
ただ、他者の【トラフィック移動命令による、データのダウンロードメモリの占有】という、全体的な視野から見ればあまり好ましい状態ではないという意味になってしまいます。
このあたりの感覚は、たとえば世界が100人の村だったらの【富】に似ています。
全世界の90%の富を5人のアメリカ人が持ち、残りの10%をそのほかの人々でまわしているとか。
ただ、このお話も20世紀末のお話ですので、情報としては古いことを念頭においてください。
というわけで、拡大解釈をすれば、たくさん記事を書いていて訪問者も多ければ(ページプレビューは情報の更新がされないこともあるのでとりあえず、除く)ヘビーユーザーといえる可能性も出てきました。
しかし、その言葉の意味は、お互い、定義がかなりずれていると知りました。
なので、いろいろ調べてみました。
まず、普通に検索をかけて引っかかるとウィキペディアを閲覧するかと思いますが、それにはこのように書いてありました。
ヘビーユーザー
コンピュータゲームや携帯電話などのメディアの利用時間が想定される平均的な利用時間よりも多い利用者
日本ではこのくらいの意味でとどまりますが、英米では、
製作者の想定を超えて、システムに支障が出るくらい、煩雑で長時間にわたって激しく(heavy)利用する者(user)なので、英米では、ヘビーユーザーにはあまりいい意味はなく、むしろ否定的に使われます。
この言葉と対になるのは、日本ではライトユーザーという言葉になり、英米ではcasual user(一般ユーザーと訳していいのでしょうか)となります。
ちなみにライトユーザーの意味は次のようになります。
ライトユーザー
コンピュータゲームや携帯電話などのメディアの利用時間が、その利用者間において、想定される平均的な利用時間、ないし、それ以下の利用者
となります。転じて、初心者・素人とも言われます。
このヘビーユーザーとライトユーザーという言葉は、本来ならトラフィック(情報の流入・流出)の量の違いによってのみ区別されるのですが、マーケティングなどにこの言葉が入ると、メディアの利用頻度を示すための便宜上の分類で使用されることがあります。
そうなると何が起こるかというと、議論や会議など何らかの成果が必要な場においては、あいまいなままの定義では、まずその定義をめぐって紛糾・・・揉める事になります。
さて、前回私は、ヘビーユーザーを、
CSSを駆使して使い勝手の向上を図り、自らシステム開発に代価を支払って参加している人と定義しましたが、これらは、今はパワーユーザーといわれるそうです。
システムをいじるのだから、トラフィックには長時間関わることになるわけで、その点はヘビーユーザーと重なる部分があるでしょう。
パワーユーザーはヘビーユーザーであるといえるかと思います。
パワーユーザーは、ネットを構築する上では、ポイントを守りかつ他所のポイントとつなぐので、とても重要な位置になります。ネットを構築する上では、最大限重要な人員です。
しかし、これらはあくまでも情報処理のためのこと。
先に述べた、マーケティングでの意味、メディアの利用頻度を示すための便宜上の分類となると、ヘビーユーザーは、最初に述べた定義に限られます。
これらのことを踏まえて、マイとかちのユーザーについて考えてみました。
12月12日の時点での、ブログ開設者は838人。そしてこのときの全ユーザー数は5663名。
838割ることの5663は、約0.15となります。つまり登録ユーザーの15%がブログを書いています。
ところが記事を書いているからといって、ヘビーユーザーであるとは限らないのです。
そして、記事を書いていないからといって、ライトユーザーでもないのです。
なぜなら、その定義は、想定の平均利用時間を越えるかそれ以下の違いだからです。
目に見える部分では15%のユーザーが活躍していますが、コメントを書き込むだけのユーザー、見て情報を得るユーザーなど、いろいろな場面での使うユーザーの想定時間は定まっていないし、だから、平均利用時間はわかりません。
ええと、知っている方がいたら教えてください。
よろしくお願いします。
話は戻りますが、たくさん記事を書いているからヘビーユーザー、それは間違ってはいませんが、正しいともいえません。
それは長い記事を書くために時間のかかる人とかからない人がいるからです。
短くても、ゆっくり作る人もいれば、長くても一気に作る人もいる。
私は平均して0.5時間程度です。
ワードで下原稿を書いて、それが2時間かかることもありますが、接続は短い。回数は多いかもしれませんが、一回あたりの時間は非常に短いです。
それに普段はアクセスも多くないし画像も動画も少ない。
それに英米でヘビーユーザーが否定的なのは、システムを独り占めすることがあるからです。それをしてしまうと、日本の通信会社は制限をかけ、システムダウンを起こさせないようにします。
画像や動画をたくさん乗せている人は、トラフィックが多くなりますから、必然的に、このような扱いを受けることもあります。
つながるのに時間がかかる。それはヘビーユーザーのせいともいえます。
海外では速度を落とさないために、課金制にしているようですが、日本では先に述べたようにそれはしていません。
その代わり定額制にしています。
定額制においては、ライトユーザーがヘビーユーザーを支えている図式がまずあります。
ライトユーザーが増えると、収入が増えやすく、設備投資を増やしやすくなります。しかし、ライトユーザーが多ければ、設備投資の必要性は相対的に低くなります
そして、
ヘビーユーザーが増えると、収入は増えにくくなります。なので、設備投資をしにくくなります。けれど、ヘビーユーザーが多ければ設備投資の必要性は相対的に高くなるそうなのです。
この小さなサイトでは毎日新しいユーザーが参入していると思いますが、それらがいつまでもライトユーザーであるはずはなく、一時的にヘビーユーザーに成長することもあります。
そしてその時には、システムを追いつめてシステム変更を余儀なくされることになります。
しかし、それらが、そのままでいることもなく、さまざまな事情でライトユーザーにもなりえます。
使い勝手を知っている、ここまで来たライトユーザーは、もっとも洗練された姿であり、あるいは正体をあらわにしたユーザーです。
目的がきっちり決まって、それを超えることもなく、それを下回るわけでもない。システムを必要以上に使うこともなく、訳がわからないで使えないわけでもない。
とはいいましても、あくまでこれは使うことに重点を置いた定義です。
前回、一番の相違点は、【他者から求められるユーザーか否か】、ということであったと私は感じています。
しかし、他者からのアクセス数が多いからヘビーユーザーというのは何か違います。
そのアクセスは自分の起こしたものではなく、他人が起こしたもので、一時的にアクセスが増大することは誰の記事でもありえるからです。
・・・なにか違う。
なので探しました。
そして見つけたのは、アルファブロガーという存在。
これは世論に影響を与えているブロガーのリーダー格です。多くの人のアクセスを集め、影響力を持っています。しかし、その影響力は意外と少なく(?)5人に影響を与えればいいだけです。
海外ではa-listブロガーという存在があり、政治に影響を与えるなど実際に目に見えるような力を持っていますが、日本のアルファユーザーがそれらと同一という客観的データは存在しないので、このような数字になっているのでしょうか。
これをマイとかちに当てはめますと、影響にはいい影響と悪い影響がありますから、たとえば、好きな記事を書くユーザー、嫌いなことを書くユーザー、5人づつをユーザー全員に投票してもらえれば、アルファユーザーは決まりそうです。
なんでかっていうと、基準がないので、「印象に残るであろう」ということを影響というものにイコールとしたのですが。
しかし、それが決まったところで何か意味があるのでしょうか?
新規参入があれば、その度ごとに票を集めることになる。絶えずそんなことをしていることに大きな意味があるとは思えません。年に一回くらいのイベントなら面白いかもしれませんが・・・。
アルファブロガーは確かに、すごいと思います。アクセス数を集め影響力がある。
でも、別にアルファでなくても、こないだコメント欄でいただいたような、「支持します!」といってくださる方もいるわけですから(実はあまり意味がわかっていませんが、ありがとうございました)、アルファブロガーのすべての記事がアルファであるはずはなく、英雄の愚作というか、愚者の名作というか、そんなものもあるわけです。
いつまでもただのユーザーであるならば、どんなに記事を書いても、いつまでも横並びのユーザー。
むしろ、ヘビーユーザーになってしまうことは、システムを独り占めすることになるわけですから、使用料を払わなければならなくなるかもしれません。
記事をたくさん書けば書くほど、課金。
書くだけでなく読見続けるだけでも課金。
なんかそれも悲しいです。
回避策はいくつか考えても見ましたが・・・。
ずいぶん長くなりましたし、根拠も少ないので次回にします。
ですから結論としては、システムを構築する言語、オンラインの知識、インフラなど、そういった通信事業に関わる方面のことをいっぱい勉強して、パワーユーザーになればいいのではないかと思います。
そして自分だけのネット世界を構築する。
そうすれば、「自分の思うとおりのことが実現可能」、という優遇が受けられるのではないでしょうか?
これは私の主観に過ぎません。
ですが、そこにあるものに対してただ要求を強めるより、得策ではないか?と思います。
追記2009.12.22
しかし、他者からのアクセス数が多いからヘビーユーザーというのは何か違います。
そのアクセスは自分の起こしたものではなく、他人が起こしたもので、一時的にアクセスが増大することは誰の記事でもありえるからです
再読して、自分で気がついたのですが、
アクセスをトラフィックと考えたとき、情報量の多い記事をシステムを独占して読み込ませると考えれば、長い記事を持っている人は、ヘビーユーザーといえるかもしれません。
ただ、他者の【トラフィック移動命令による、データのダウンロードメモリの占有】という、全体的な視野から見ればあまり好ましい状態ではないという意味になってしまいます。
このあたりの感覚は、たとえば世界が100人の村だったらの【富】に似ています。
全世界の90%の富を5人のアメリカ人が持ち、残りの10%をそのほかの人々でまわしているとか。
ただ、このお話も20世紀末のお話ですので、情報としては古いことを念頭においてください。
というわけで、拡大解釈をすれば、たくさん記事を書いていて訪問者も多ければ(ページプレビューは情報の更新がされないこともあるのでとりあえず、除く)ヘビーユーザーといえる可能性も出てきました。
2009年11月10日(火)
崩す。
考察×22
ネットサーフィン(と今でもいうのか??)をしていると、たまに、コメント欄が炎上に近くなって、その挙句「記事に反論するようなコメントを入れた人に対して、記事主が「見るな」というコメントを返すことがある。
どうもそれって、あちこちであるらしい。
確かに正論なのだけど、言われたほうは戸惑う。
そこにある看板と同じで、たまたま目にしたら、自分にとって違和感があったのでつい、一言漏らしたということはどこでもあるからだ。
そんなことは一度もない、と断言する人がいたら、その人は間違いなくうそつきなので、いつかは酷い目にあわされることを覚悟していたほうがいい。
もうひとつ、違和感に思うのは、「見るな」という発言がどこから来たかということだ。
確かに不快に思うものを見なきゃいい、というのは簡単なのだし、対策としては、一番手っ取り早い。
この、手っ取り早いという効率を重視した点が、現代に向いているのだろう。
それに、見るなといわれれば、実際に見なくなる人もいるので、事象は沈静化する。
また、見るなということは、メタ思考、俯瞰にたって考えるといった視点から見ることもできるので、察しのいい賢い人はそうしてしまう。
メタ思考、俯瞰にたって考えるというのは、両方とも簡単にいうと上から目線だ。
しかし、何か事象を見て、コメントを出して、そのコメントを出した人に「見るな」というのは、本来なら次元が違う。
同じ次元でいうならば、本来は「言うな」である。
しかし「言うな」というのは、自分の意見が、反論に耐えうるものではなく、脆弱な独りよがりのものであると認めたということに他ならず、とどのつまりは帰納的根拠がないということと等しいと考えられる。
けれど、自分の発した意見が、ただの独り言であるとは自分でも認めたくない。
なので、開き直って、見るなというのである。
「行動が気に入らないから、さらに行動を規制してやる」といった応酬でしかないといえる・・・。
しかしここにも欠点はあって、開き直らないで、ちゃんと耳を傾けようとすると、それこそ、なんでもありかと思う人たちから、いろいろなものが飛び込んできて、事態は泥沼に入っていく。
それに「見るな」というのも自由なので、それを否定しようとは思っていない。
私は、ただ単にその下に沈んでいる(と思われる)ことを考えているだけなので。
見ざる・言わざる・聞かざるという三猿の教えがある。
それは、余計なものを見たり、言ったり、聞いたりしないということで、日本に広く浸透している。
しかし、そこにあるものが、余計なものだとしたらどうだろう。余計なものは、片付けるなり、捨てるなり、始末を考えなければならない。
もちろん豊かになった日本、昔ほどにストイックに始末を考えることもないけれど。
身奇麗にすることは、ある程度好ましいとされているのは変わらない。自分一人だけなら、別に身奇麗にする必要などないのだ。
そこには必ず、自分以外の他者がいると無意識でも自覚しているということがいえる。
ブログをはじめ、意見の交換は、自分ひとりで成り立っているのではなく、相手がいて初めて成立するのだと、殊更に思う。
なので、わかりやすい文章ですり合わせていくことが必要なのかと思う。時間はかかるが、解決に近道はない、ように。
どうもそれって、あちこちであるらしい。
確かに正論なのだけど、言われたほうは戸惑う。
そこにある看板と同じで、たまたま目にしたら、自分にとって違和感があったのでつい、一言漏らしたということはどこでもあるからだ。
そんなことは一度もない、と断言する人がいたら、その人は間違いなくうそつきなので、いつかは酷い目にあわされることを覚悟していたほうがいい。
もうひとつ、違和感に思うのは、「見るな」という発言がどこから来たかということだ。
確かに不快に思うものを見なきゃいい、というのは簡単なのだし、対策としては、一番手っ取り早い。
この、手っ取り早いという効率を重視した点が、現代に向いているのだろう。
それに、見るなといわれれば、実際に見なくなる人もいるので、事象は沈静化する。
また、見るなということは、メタ思考、俯瞰にたって考えるといった視点から見ることもできるので、察しのいい賢い人はそうしてしまう。
メタ思考、俯瞰にたって考えるというのは、両方とも簡単にいうと上から目線だ。
しかし、何か事象を見て、コメントを出して、そのコメントを出した人に「見るな」というのは、本来なら次元が違う。
同じ次元でいうならば、本来は「言うな」である。
しかし「言うな」というのは、自分の意見が、反論に耐えうるものではなく、脆弱な独りよがりのものであると認めたということに他ならず、とどのつまりは帰納的根拠がないということと等しいと考えられる。
けれど、自分の発した意見が、ただの独り言であるとは自分でも認めたくない。
なので、開き直って、見るなというのである。
「行動が気に入らないから、さらに行動を規制してやる」といった応酬でしかないといえる・・・。
しかしここにも欠点はあって、開き直らないで、ちゃんと耳を傾けようとすると、それこそ、なんでもありかと思う人たちから、いろいろなものが飛び込んできて、事態は泥沼に入っていく。
それに「見るな」というのも自由なので、それを否定しようとは思っていない。
私は、ただ単にその下に沈んでいる(と思われる)ことを考えているだけなので。
見ざる・言わざる・聞かざるという三猿の教えがある。
それは、余計なものを見たり、言ったり、聞いたりしないということで、日本に広く浸透している。
しかし、そこにあるものが、余計なものだとしたらどうだろう。余計なものは、片付けるなり、捨てるなり、始末を考えなければならない。
もちろん豊かになった日本、昔ほどにストイックに始末を考えることもないけれど。
身奇麗にすることは、ある程度好ましいとされているのは変わらない。自分一人だけなら、別に身奇麗にする必要などないのだ。
そこには必ず、自分以外の他者がいると無意識でも自覚しているということがいえる。
ブログをはじめ、意見の交換は、自分ひとりで成り立っているのではなく、相手がいて初めて成立するのだと、殊更に思う。
なので、わかりやすい文章ですり合わせていくことが必要なのかと思う。時間はかかるが、解決に近道はない、ように。
2009年11月8日(日)
いらいら。
考察×22
ちょっと前に帰省したときに、お昼にカレーを食べようと両親が言ったので、インデアンカレーに行った。
おいしくいただきましたよ~。
ということで、味について語るわけでなし、値段について褒め称えるでもなし、ただ普通にお昼をいただいたのですが、そこには、私の、内地の家族がいたと思いねえ。
ぐるりと対面式で、一通りの顔が見える仕組み、それはいいのだが、私が、夫や子供たちに、小声で簡単に説明していたら、みんながじろじろこちらを見る。
初めて入ったお店なら、知っている人から知らない人に説明ぐらいするだろう。子供もいたのだから、こぼさないようにとか、大きな声は出さないように、って言い渡しておきたい。
特に文句を言われたわけではないのだけれど、通いなれているだろうと思われる(そういうお店なのだし)人たちから、あっちでじろり、こっちでじろりとされてはたまらない。
でも思い返してみると、自分も住まいのあるこっちでは、じろじろ見ていることがあると気がついた。
何で見ているかというと、本当にびっくりするくらい自分の常識を疑うことが起こるからだ。
もちろんしょっちゅうではないのだけど、お店中のお客さんすべての視線がそこに行くくらいの怒声とか、喧騒とか起きると、何が起こったのか??と思う。
悲しい性(というか、みっともない??)で、ついその原因はなんだったのかと聞き耳を立てると、箸が一膳足りなかったとか、お手拭がなかったとかそういうことだったりする。
お手拭といえば、帯広にいるとき、ある大手の居酒屋で、ひとつ足りなかったので、「すいません、お手拭いただけませんか?」と丁寧に言ったつもりだったのだが、怒った様子で投げてよこされた。
どうも、私の、そのせりふが、気にいらなかったらしい。
バカにしたと思ったらしい・・・。
後から後輩に言われた←後輩から言われる私って・・・(笑
「普通に、『ください』」って言えばよかったんでは?」。
どうも、人というものは、小バカにされることが一番腹に立つらしい。
先ほどのお店でのみんなの視線は、いっせいに注がれていることが私の感情をざらりとなぜたのだが、そこには、初めて来店したという、引け目がある。
後のおしぼりの店員さんは、本当はこんな職場ではたらきたくないのに!(想像)という気持ちが隠れていたのかもしれない。←もう20年近く前ですからね、ここ注意。
思いっきりバカにされるときは、自分もやっちまった!と思えるし、やり直すなり、謝るなりの判断に迷うこともないのだけど、小さくバカにされるときは、自分では、何が起こったのかわかってない。
わかっていないのだから判断して後に起こす行動には戸惑いがおきてしまう。
しかし、私が話した例は、考えようによっては小さいことだ。
結果として、カレーはおいしく食べているし、おしぼりは投げられたものの、手元にやってきた。
現実を見ればいい。
ファストフード店で注文を手間取っていれば、誰だってみんなどうしたことかと思う。
おしぼりが一個たりなかったのは、お店側の(担当者の)不手際だ。それに対して遠慮することはなかったのだ。
その現実を見たときに、今の結果を生んだ原因がわかり、物事は何事もなかったかのごとく流れていく。
イライラとは、現実と自分の思惑の違いに起因するのかもしれない。
おいしくいただきましたよ~。
ということで、味について語るわけでなし、値段について褒め称えるでもなし、ただ普通にお昼をいただいたのですが、そこには、私の、内地の家族がいたと思いねえ。
ぐるりと対面式で、一通りの顔が見える仕組み、それはいいのだが、私が、夫や子供たちに、小声で簡単に説明していたら、みんながじろじろこちらを見る。
初めて入ったお店なら、知っている人から知らない人に説明ぐらいするだろう。子供もいたのだから、こぼさないようにとか、大きな声は出さないように、って言い渡しておきたい。
特に文句を言われたわけではないのだけれど、通いなれているだろうと思われる(そういうお店なのだし)人たちから、あっちでじろり、こっちでじろりとされてはたまらない。
でも思い返してみると、自分も住まいのあるこっちでは、じろじろ見ていることがあると気がついた。
何で見ているかというと、本当にびっくりするくらい自分の常識を疑うことが起こるからだ。
もちろんしょっちゅうではないのだけど、お店中のお客さんすべての視線がそこに行くくらいの怒声とか、喧騒とか起きると、何が起こったのか??と思う。
悲しい性(というか、みっともない??)で、ついその原因はなんだったのかと聞き耳を立てると、箸が一膳足りなかったとか、お手拭がなかったとかそういうことだったりする。
お手拭といえば、帯広にいるとき、ある大手の居酒屋で、ひとつ足りなかったので、「すいません、お手拭いただけませんか?」と丁寧に言ったつもりだったのだが、怒った様子で投げてよこされた。
どうも、私の、そのせりふが、気にいらなかったらしい。
バカにしたと思ったらしい・・・。
後から後輩に言われた←後輩から言われる私って・・・(笑
「普通に、『ください』」って言えばよかったんでは?」。
どうも、人というものは、小バカにされることが一番腹に立つらしい。
先ほどのお店でのみんなの視線は、いっせいに注がれていることが私の感情をざらりとなぜたのだが、そこには、初めて来店したという、引け目がある。
後のおしぼりの店員さんは、本当はこんな職場ではたらきたくないのに!(想像)という気持ちが隠れていたのかもしれない。←もう20年近く前ですからね、ここ注意。
思いっきりバカにされるときは、自分もやっちまった!と思えるし、やり直すなり、謝るなりの判断に迷うこともないのだけど、小さくバカにされるときは、自分では、何が起こったのかわかってない。
わかっていないのだから判断して後に起こす行動には戸惑いがおきてしまう。
しかし、私が話した例は、考えようによっては小さいことだ。
結果として、カレーはおいしく食べているし、おしぼりは投げられたものの、手元にやってきた。
現実を見ればいい。
ファストフード店で注文を手間取っていれば、誰だってみんなどうしたことかと思う。
おしぼりが一個たりなかったのは、お店側の(担当者の)不手際だ。それに対して遠慮することはなかったのだ。
その現実を見たときに、今の結果を生んだ原因がわかり、物事は何事もなかったかのごとく流れていく。
イライラとは、現実と自分の思惑の違いに起因するのかもしれない。