物語(41)


2009227(金)

結ぶ(前編)

物語×41

お母さんが着物を着付けています。

わたしは、それを見るのが、好きです。
引きずりそうな長い裾をたくし上げ、紐で押さえ、胸のあたりであまった部分を畳み込む手つきはなんだか魔法のようです。
着物は、洋服のように、体に添うよう形が出来てシルエットが作られるのではなくて、おかあさんの体の線を、ある部分は強調し、ある部分はうまく隠すように出来ていると思います。

いつも家で家事をこなしたり、夜休む姿は、見慣れたジーンズ姿や、パジャマだったりするのに着物に着替えるおかあさんは、いつもより嬉しそうで、綺麗に見えます。

「そんなにじろじろ見ないでよ、間違っちゃうでしょ」
「だって魔法みたいなんだもん」
「着たいと思ったらいつでも教えてあげるわよ」
「うん、いつかね」

わたしは笑ってこたえました。

おかあさんは、帯の上で帯締めを結ぼうとしています。
帯締めを結び終わったら、ふわふわした帯揚げという名前の布を綺麗にまとめて終わりです。
着替えはもうすぐ終わるのだと、わたしはそこで見るのを一旦やめました。

今日はいとこのお兄さんの結婚式です。3年くらいお付き合いをして、お嫁さんになる人にプロポーズをして、受けてくれたのだそうです。
以前挨拶に来てくださったときは、うれしそうな明るい笑顔をしていました。
きっと素敵な夫婦になると思います。

私はふと思いついて、おかあさんが帯揚げを丁寧に直しているそばにいき、帯締めを一本とりました。
おかあさんの帯の上にあるような、きれいな二重の、のしめを作ってみたくて、見よう見まねで結んでみました。
あれ?
帯締めの結び目が綺麗にならない。

助けを求めておかあさんのほうに顔を向けると、おかあさんは、いままでの楽しそうな顔を吹き飛ばしてそこに立っていました。

「なんか変になっちゃった」

わたしは、おかあさんのその、不吉そうな顔をみなかったことにして、慌てて声をかけました。おかあさんの顔はまたさっきのにこやかな顔に戻りました。

「それはね縦結びっていうのよ。こうやって結ぶのはふじ結びっていうの。」

おかあさんは一旦結んだ結び目を解いて、わたしの目の前でもう一度結びました。

「これが本結び。本当はこれだけで十分なんだけど、おめでたい席にでるから、ちょっと華やかにしてみたのよ。振袖なんかにはよく見る形よね」

おかあさんは、へへへ、という顔をしてまた結びを解いてふじ結びにし、支度が済んだかと呼びに来たおとうさんと出かけていきました。

わたしは、招待を受けていたのだけれど、なぜか気乗りしなくて行きませんでした。
なんとなく。
なんとなくだけど、あまり行きたいと思わなかったのです。

そして、わたしの予感は当たってしまいました。
あの結婚のあと、一年もしないで、二人は別れてしまったのでした。
理由は、わたしにはよくわかりません。

でも、お兄さんの妹にあたるお姉さんから聞いた話は、悲しいな、と思いました。
「二人で働いてはいたのはわかっていたけど、新婚家庭に似あわないような、日ざしのよくない暗い家だったのよ」
と聞かされたからです。
子どもが生まれたらどうするんだろう、とも言っていました。

でも、二人の間に子供はできませんでした。
「運命の赤い糸はちゃんと結ばれていなかったのね」

わたしは、あの日におかあさんに教えてもらった縦結びのことを思い出して、後ろめたくなりました。もしかしたら、わたしが、お兄さん達の仲を割いたのかもしれない、などと考えて。

縦結びは、ほどけやすい結び方です。
つながると思われた縁は、切れて無くなってしまった。

まだまだ結婚する相手も見つからないのに、わたしはそれにどこか納得するものがあり、それが腑におちたように思いました。


あれから、わたしは成長して高校生になりました。
「・・・行き急行、3番線に参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください。」
このアナウンスを聞くと、いつも不思議な気持ちになります。

黄色い線とは、視覚障害者のための、「とまれ」を意味する黄色いタイルのことです。
今は、どこにいっても、このタイルが、電車を待つときの安全地帯をわける目安になっているようです。
ええ、今は。
それまでは黄色い線ではなくてその先にある細い、白い線でした。
今でも黄色いタイルの向こうに白い線は見ることができます。

駅で電車を待つときに、黄色い線の上にたつ人もいなければ、当然その先を越えて電車に近い側で待つ人もいない。
黄色いタイルから、ホームの縁までは、いつも真空のように開いている場所なのです。

わたしは学校最寄駅の改札の関係で、いつも先頭車両にのります。
先頭車両に乗る位置まで行くのに、結構な距離があるものです。なにしろ各駅停車でも10両はあり、1両の長さも、10メートルくらいはあると思いますから。丁度真ん中からホームに入ったとしても、5掛ける10メートルは歩くことになるのです。

でも調べたら、電車の長さはいろいろあって、私がいつものるのは、18メートルくらい、となっていたので、18掛ける5で、90メートルは歩いているのだと言う事になります。
思ったより歩いているものですね。

あっ話がずれました。

(続く)



2009118(日)

枯(19)

物語×41

長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。

終章です。
(続き)

 ハルは今本当に枯れようとしていた。

 月をおうごとに出血が少なくなり、このままなくなるのだろうなと漠然と思う。
 その月は生理すら来なくて、ハルはまた病院に行った。

 その日、とうとう言われてしまった。

「あなた排卵が止まってしまっているんだったね」

 こないだまでは気をつかってくれていたのだろう。やっぱりそうだったのかと思った。胸がぐっとつまり、ハルは思わず手を握り締めた。

「あなたは女性ではあるけれどね、まず戻すには君を女にしなきゃならん」

 その言い方にはどこか隠微な響を隠していた。先生の表情からそう感じたのかもしれない。
 それで、なぜか、ハルは警戒した。
 散々酷い目に会わされて来た原因の容姿をみて、先生はからかい半分で言うのだろうか。

 だから、その気持ち悪さから逃げるために、

「すでに私は女以外なんですね」

と言ってしまった。
先生も看護師さんも、笑った。ハル自身も、笑ってしまった。

「ハルさんは、まだ若いから、もうすこし治療を続けよう。まずは生理の周期を整えよう。」

ハルは、はいと返事をし、支度をして、診察室を出た。

「枯れたと騒いでいる人を助けようとして、それが余計な事で・・・それで自分が枯れるなんて・・・洒落にならない」

 心の中でそう思って、診察室から出たハルは、思わず我慢していた涙を落としたが、それでも笑った。
笑うよりなかった。

「私は、ただ、力になりたかっただけだ。だけれど、それが余計なことで、しかも居ないほうがいいと小突かれて、私はどうしたらよかったの?」

 ネットの世界から引き上げようとして勤めた、あの職場も、ハルがやめてリーダーは喜んだはずだ。ハルが受け持った面倒くさい仕事を出来ない面々で請け負っても、社長の関心をとることには成功したのだから。

 男ももし、この状況を知ったなら、さぞ満足だろう。
 毒を入れることが目的だったのだろうから。そして目的は見事に達成され、ハルは枯れつつある。

「おめでとう、あなたの願いは成就したね」

 伝えたくても、今となっては伝える術すらない。もし伝えようとしたら、ストーカーなどと罵られてしまうだろう。
 なにしろ、心を尽くしても、それが伝わらなかったのだから。

 まさに悲劇と喜劇は紙一重だ。
 笑うなら笑えばいい。
 笑ってもらえるなら笑ってもらえばいい。

 ハル自身だって、涙を流しながらでも口元は微笑を湛えているのだ。その異様さは傍目にどう見えるのかわからないが、滑稽なものと映るだろう。
 その程度でしかないのだ、他人には。


 ハルに入れられた毒は、ハルの心の滓と一緒に沈みながら、ときおり現れては、ハルを蝕む。ハルの女性としての機能が回復するかどうかを思うたびに、いや実際には、医者がそういうのを聞くとともに、その毒はよみがえり、強さを増してハルを腐らせ、心を、体を侵す。
 精神のよりどころとなっているものを壊し、また肉体も壊されつつある。

 最初の頃は腐った枝だけを落とした。身を軽くしようとした。けれど、落としても、落としても、腐れはどんどんすすんでいく。

 もはや、ハルというサクラの木は、枯れるのを待っているだけだ。


 染井吉野の寿命が短いのは台木になった木の衰えが原因といわれている。また成長が速い分寿命が短いのだとも言われている。



 ひときわ美しいといわれたそのサクラは、たびたび枝を折られるほどに愛でられすぎた。
 そして、枝は折られ過ぎ、毒が入ってからは、落とされ過ぎた。

 そのサクラは、もう。





 二度と咲かない。

(終)



2009118(日)

枯(18)

物語×41

終焉に向かって収束しつつあります。
従いまして、この章はいままでより長くなっております。

(続き)

 大きな水滴の中に閉じこめられている男。そこから出ようともがいている。手を出している。なにか困った顔をしながら、声を出しているようだ。でもそれは聞こえてこない。たまたま通りかかったハルがそれに気づいた。手を伸ばして掴もうとしたとき、男はいきなり手を引っ込めて、大きく高笑いしながら底にもぐっていった。
 手は握りたかったのか、握りたくなかったのか。ただ、捕まえたいなら入って来いといわんばかりだった。

 男が、離婚の責任はハルにあるといってきたとき、ハルにはその風景が見えた。
 そのときのハルの悔しさと言ったらなかった。いや悔しいという例えは違う。
 虚しい、かもしれない。でもハルは自分の中で何かをむりやりむしられたようにも感じたから、やはり悔しいのかもしれない。

 結局、彼は助けなど求めていなかったのだ。
 最初から、誰かを己の世界に引き込み、引き込んだ己の世界で、引っ張り込んだ人間を馬鹿にし、蔑み、相手が困るように仕向け、それを楽しみたかったのだ。

 だれでもいいから、思い通りになってほしいと期待していたのだと思う。
 だから、あえて、他人が読めば後味の悪い、胸がむかむかするようなことを書いていたのだ。相手自らが絡んでくるように仕向け、その嘘をつき、自分の有利を導き、そのうえでの勝利の美酒を飲みたいがために。

 もちろん、それはハルの想像の範囲でしかない。
 だが間違っても居ないだろう。胸がむかむかすることを書くのは事実なのだから。

 最初は、ハル自身も男に迷惑を書けたのだと、心苦しく思った。
 だから償いたい気持ちもあった。
 だけど、男の中では、それすら悪いことだといわんばかりに変わるのだ。

 あの酷い職場でハルに降りかかったことと同じだ。

 関われば関わるほど馬鹿にされ、引きずり回されているように思う。何度も悲しい気持ちに、自分が惨めな、非道い人間で何もできない、役立たずのような気持ちにさせられる。
そして相手は、ハルの気持ちを踏みにじりながら、好き勝手な事をいう。その好き勝手をハルが無視すれば、無視させないように絡み続ける。
 心を尽くしても満足しない貪欲さにハルは悲鳴をあげた。


 男だってそうだ。
 したいようにさせたのに、望むままに付き合ったのに、なぜこんなに責められなければならないのか。
 今まで、ハルは相手に対して向き合い、相手の望みをかなえながら、その中で自分の望みをかなえてきた。そうやって来たつもりでもあり、そうであると信じていた。

 だが、いま男が主導権を握っているこの流れは、ハルの生き方と違う。
 男は己の欲求を通すため、しつこくせがむ。望みさえ叶えばいいのだ。
 そのためには誰かの価値観を、生き方を、存在をひっくり返すことなど気にもかけない。

 住んでいる世界、見ている風景、聞こえる音、話す言葉、考える方向はハルのそれとは違う。男の仕打ちはハルにとっては、愛という名前の暴力、思いやりという名前の枷でしかない。いくら望まれても、互いに殺しあいたいと願う関係は、それを断っても求めようとするそういう関係は、要らない。

 彼の構築する世界はハルのそれとは違うとはっきりした。

 だから自分の身を守るために、ハルは男を切った。
 そっと切ったのではなく、ぶった切った。
 離れるしかないと判断してからは、余裕などなかった。
 そっと切ろうとする間でさえ、容赦ない男の仕打ちは続くのだ。それをかわしながら、何とかするのは無理だった。

 ネットというどこまでもオープンな世界で、ハルは引きこもった。自分が密かに続けてきたブログも止めた。その自分の作った小さな世界で生まれた関係も捨てた。

信じたことが仇になるのなら、もう要らない。


 男が、奥さんと離婚したかどうかハルは結局知らない。知る必要もないし、まさかそんなことを知らせてくる人もいない。それに知りたくも無い。

 ただはっきりしているのは、離婚に至るのは、それまでの彼らの積み重ねが原因だ。
 それ以外に何があるというのか。
 少なくともハルがやりとりを切ったときでさえ、男はまだ成婚中だった。自称「枯れた人」はあの様子で、今でも奥さんから離れてはいないだろうとハルは苦笑いする。

 いや、離婚していたって構うものか。
 あの日、ハルと会うことを、男は奥さんに内緒にできず、自分から申告したのだ。

「嘘はつきたくないから」

 奥さんに誠実を誓っているのなら、ハルに会う理由などないだろうに。
 その肝腎なことを失念して、全てをハルの責任にする男なのだから。

 ハルの方だって、何もなかったわけではない。夫に対する裏切りなのはわかっていた。だから、一生隠し通すつもりでいたし、実際隠してもいた。
 しかし、メールのやりとりが、あまりにも酷かったから、ハルはかなり取り乱してしまったのだ。朝から晩まで怯えているハルを見て、夫は顛末を問いただした。
 かなり参っていたハルは、ありのままを話した。

 夫は、激しく気分を害した。

 だけれど、ハルは許された。
 ハルと男の間には、本当に、何も起らなかった。
 ゼロの掛け算はどんなに大きな数をかけてもゼロのまま。


 手助けをしようとしたことが過ちなのか。
 そうかもしれない、だからハルは愚か者と言われても、しかたない。

 助けを願っていると勘違いしたことがバカの証拠か。
 ああ、そうだ、だったらハルは大バカだ。

 けれど、全ては彼の願いどおりではないか。

 タネをまいて、目を出したところをまず踏みにじった。しかしなにかの気まぐれでそれを成長させようとやっきになった。
 奇跡を起こしたかったのか。崇められたかったのか。
 だけど、奇跡は起こらない。

 奇跡とか何か。それは憎んでいるもの蔑んでいるものから得る、憎んでいない、蔑んでいない愛情。
 
 崇めるとはなにか。そんな男に永遠の忠誠を誓わされること。

・・・起るわけなどない。すくなくともハルとの間では。


 まるで、満開のサクラの枝を折る愚かな花見客のようだ。
もちうる限りの全ての力を使って咲いている木の枝を折る。 力を使った木は弱くなって、抵抗力が落ちている。折れた枝は空気の中で傷口をむき出しにしているから、菌類が入り込み繁殖しやすい。
 菌類は、枝を、幹を腐らせ、いずれその腐れは、根に到達し、立っていられなくなる。

 花見客が折るほどに愛でた木は、次の年には花を咲かせない。

「すべからく悪いことの原因はハルにあるから、ハルが全て責任を負うべき」

 全てにおいて無責任の、その男に強く入れられた、死に至るもととなる毒。
 その毒は、ハルを根底から揺るがした。

 だからあれほどに職場で虐げられ、嫌がらせを受けてしまったのだ。怒ることもせず、ただ耐えてしまったのは、「自分が悪い」と思ったからだ。
 投げられた責任を償おうとしてしまったからだ。償ってもつぐなっても要求を強めてくるだけのものに。

(続く)



2009117(土)

枯(17)

物語×41

(続き)

 地球の歴史のなかで生物が、絶滅と進化の淘汰の中で様々な仕組みの生物群を形成してきたように、ヒトは思索することで種の進化を進めてきた。
 ハルの思いは、そこから出た行動は、それ以上育つことはなく滅びたが、思惑と事態は全く思いも寄らないような反対の方向に向かって行った。

 ひとつの出来事の終わりは、また別の出来事のはじまりである。


 男に駅まで送ってもらったり、お昼をご馳走になったりしたので、ハルは男にお礼のメールを送った。
 いろいろお世話いただきまして、ありがとうございました、という単なる礼状のはずだった。
 その日の夜に送り、次の日の夜に男から返事が来た。

 ハルが宿泊していたホテルから、駅までにいく間の、短い時間でほとんど駅ですごしてしまったが、それでも楽しかったその日の事を思い出しながら、ハルは届いたメールを読んだ。

 しかし一体何が起きたのかと何回も何回も読み直すことになった。
 背中にじわりと汗が出て、目に何かが溜まっていくのがわかった。
 読み直さないではいられなかった。

 ハルが直前に送ったメールから、全く考えもつかないような返事で、何度も読み直し目の錯覚ではないと、悟ったときに、つと涙を落とした。

 「会いたくなかったけど、あなたに卑怯者呼ばわりされるのは嫌だった」
というハルに対する文句があり、私は妻とわかれるつもりはないと言ってきた。離婚することになったら、ハルのせいだと男は、言ってきた。

 会いたくないなら、会いたくないといえばいいだけなのに。会ってもいいような悪いような曖昧さを持っていたのは彼のほうではないか。
 いつか他所でみた、追及ばかりの、嫌らしい内容になっていた。
 しかもハルが、男を卑怯者だとののしると決め付けて先に自己弁護までしている。

 確かに行き詰ったなら、それもひとつの方法だとは言った。だけど、最後まで、それはさせたくなかったし、そうならないようにしたいと思っていたのに。それもきちんと伝えたのに、なぜこんなにひねくってしまったのか不思議でならなかった。

 ハルが男と一緒になりたいと願っているとでも思ったのだろうか。

 いや、ハルにだって夫はいる。夫とその男とどちらかを選べといわれたら、当たり前のように夫を選ぶ。倦怠していたとしても、いままで一緒にいたようにこれからも居続ける。
夫との間には、安心がある。気安さがある。気遣いを適切に受け止める包容力がある。
 だが男との間には、それはない。緊張、新しい関係の中で生じてしまう摩擦を回避する気遣い、そういったものに占められてしまっている。今後、もしかしたら、夫との間でできたことは、できるかもしれない。
 けれど、それには夫にかけた以上に莫大なエネルギーを遣う。そうなれば、一度に二人の男に同じようにすることは出来ない。例えしたとしても十分な心づくしは出来ない。そんなことで満足を得られるのか?
 結局は破綻するだけではないか。

 男は、延々と自分自身の事だけを話したから、ハルからそういったこと全てを聞きはぐった。

 それに男は、ハルの気持ちは要らないと受け取らなかった。
 会話している間、男はハルに
「思ったより魅力的でときめいた」と言った。
 ハルはあははと軽く笑った。

だからハルはメールにそれも書いた。
「奥さんの時だってそうだったでしょう、思い出せるんじゃない?」

それに対しては、思い出すにはまだまだ足りないと責めてきた。

 男は、ハルを要らないと望まないと言った。
 受け取らなかったのに、足りないといって返してきた。

 誤解が生まれたと思ったとハルは思った。
 でも男がそれを望んでいるなら、それでもいいかとも思った。誰かを憎むことで誰かが幸せになるなら、それでもいい。ハルを憎むことで奥さんと仲良くなれるなら、それで自信を取り戻せるならそれでもいい。
 
 だって二人の住んでいる距離は物理的に離れすぎて、会う事は無いのだから。

 そう思って返事を返した。それに、それ以上はどうにもできないのだから。

 ところが、今度は
「あなたが何を言っているのか、さっぱりわからないのです。失礼ですが酔っていますか?」と帰ってきた。

 ハルは滅多に酒は飲まない。たしかに男の住むところに行った時、お酒は飲んだ。
 飲んだが、それは全てじゃない。
 夫が下戸だから、買い置きすらハルの家にはない。

「酔っていますか」はショックだった。酒によっているのか、それともハルが自分の言葉によっていると思ったのか。それとも両方?

 男のまいた種は思わぬところに目を出したかもしれない。でも、それに気がついて、ちゃんとそれを踏み潰したはずだろうに。

 丁寧に言葉を選び、涙をひた隠しにして真面目に書いたものを、酔っていると一言で片付けられて、ハルはどうしたらいいか判らなくなった。
自分が、踏み潰されて、体液を広げている毛虫のような気がした。

 それ以来、男は、なにか一言でも理解できないと、全てひねくって戻してきた。ハルは送信済みの自分で書いたメールを何度も読み直し、また戻ってきた返事も読み直し、ブレが無いよう、丁寧に、丁寧に言葉を選んで何ども返事を送った。
 全ての思いを言葉にするのは不可能だが、それでも伝えようと試みた。

 それでも誤解ばかりが増え続けていく。その誤解は、お互いが減らしていく誤解ではなく、男が己の要求をハルに認めさせるための誤解なのだ。
 ハルを認めないのに、己を認めろというのだ。
 穏やかな口調の、追求だらけの内容の、どう答えていいのか判らないものばかり送られてきた。それに神経をすり減らすハルは、まるでわがままな男主人の奴隷になったようだった。

 男が満足する答えを得るまで、執拗な追求がなされ、ハルにとってはただ拷問を受けているに等しい時間になった。
 それでもハルはいつか誤解は解けると信じて、やりとりを続けた。

(続く)



2009116(金)

枯(16)

物語×41

(続き)

 一日だけ。

 都合をやりくりして、ハルは男のところに行った。北のほうの遠いところだった。冬だったから雪が積もり、おおよそ真っ白だった。太陽の光が目に刺さるように雪で乱反射して、電車から降りて外を見たハルは、まぶしくて普通に目を開けていられなかった。

 着いたその日、ハルはすぐにメールを送った。返事は来たが、都合があってその日は会えないということだった。
ハルは、昼間は観光のように街を歩き、お店をのぞいたりし、夜はホテルのバーに出かけたりしてやっぱり一人で過ごした。

 来てはみたものの、相手の予定は曖昧だった。だが確約をしていないのに来たのはハルのほうだから、それでもいいと思った。

「会いたくないのは、彼の気持ちなのだから。私が会いたくても彼は会いたくない。それを受け止めなければ、やっぱり彼はずっと落ち込んだままだろう。今ここで自分の利を求めてはいけない」

 そうやって自分に言い聞かせた。会わなくても、それはそれでいいのだ。
 会わないことも選択肢の一つだから。

 次の朝、あまり飲みなれないアルコールを飲んでしまったせいか、起きたときはそこがどこかわからなかった。半分寝ぼけていた。しばらく部屋を見回して、ここはどこかと考えた。そばに置いてあった携帯のメール受信を知らせる光で、ようやく思い出した。

 メールは男からで、内容は午前中に会う時間が出来たと書かれていた。

 うれしかった。例の覚悟を決めなければならないかもしれないが、それよりずっと嬉しかった。自分自身に嬉しさは隠せない。
 着替えを済ませ、いつもより綺麗に見えるよう、でも派手にはならないように化粧をして、ホテルのロビーまで下りて、しばらく待った。

 彼は来た。
思ったより背が高く、大またであるき、当地の人には温かい日だったから、長いコートの前を空けて羽織っていた。風にそよいでいるコートの裾は、まるでハルの心のようだった。

 わかりやすいよう、出入り口のそばにいたので、彼はすぐにハルを見つけて近寄ってきた。
 
 彼は腰を折り曲げて下から、どんな顔をしていいかわからずうつむくハルを、笑顔で覗いた。


 始めて会った彼は、紳士的ではあった。
 だけれど、どこかわざとらしさを、作り物のようでもあると感じさせる人でもあった。
 一泊しないと来られないここへくるために用意した荷物のキャリーバッグを持ってもらっているにも関わらず、ハルは彼を見て、安心感は抱かなかった。まるでひったくるように持って行ったことが気になったのかもしれない。

 やはり、文章にはその人の特性が出るものかもしれない、とハルはぼんやり思った。
 ハルに背を向けて、来たときと同じようにすたすた歩くのを見れば、その不安な思いは一層強くなるような気がした。

 場所をおちつけて実際に話してみれば、彼は文章から見えてくるほど陰険ではなかったが、切れる人でもなかった。読書量はすごそうだが、多分、雑誌のように情報を得るためだけのものとしての価値が大きく、教養という部分では足りないかもしれない、偏った読み方をしているかなと思った。

 奥さんとのややこしい問題を解く手伝いをしようと、これからどんな話をしようかとハルは心配していたのだが、彼は自分にしか興味が無いらしく、ハルとの別れの時間が来るまで、延々と自分のことだけを語り続けた。ハルへの問いかけもなく、奥さんの話が出ても、自分を引き合いに出してちょっと馬鹿にするような話なので、それにハルはずいぶん返事に困った。

 ハルが確信に触れるような話に入っては、彼は答えられなかった。
 答えたくないのか。それとも気が付かないのか。

 悩んでいるとき、悩んでいながらも答えを知っているのは自分自身であり自分自身しか居ない。頭で考えた事を、どうやって表現して結果を得るか。なかなか思ったようには得られないから、人は悩む。
 ハルはそう学んできた。
 だから、どうやれば、相手と互いに好ましい関係を築けるか、続けるか、それは自分しか知らない。だからハルに出来るのは、それに気がつくようにいろいろな話を向けることしかない。
 だが、それに彼は全く答えられなかった。

 結局、彼は、奥さんのことは好きではあるらしい。ハルは心配で駆けつけてしまったけれど、やっぱり後はハルの関わることではないと、感じた。

 それに男も、ハルの覚悟を知っていたはずだが、望みもしなかった。

 ひとつの恋。
 これは恋といえただろうか?
 そのようなものは、今終わった。ハルに失望の気持ちはあったが、これで十分だ。望まないリスクを犯すことはない。それが男の希望であればなおさらだ。

 今後はまたメールでやりとりするかもしれないが、ハルはそれでいいのだと思った。

(続く)



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