物語(41)


2009115(木)

枯(15)

物語×41

(続き)

 更に彼は、
「私は、もう枯れているんですよ」
とつなげて来た。

 当時30半ばのハルは、30代から40代に移行するときの体の微妙な変化があるらしいということは感じていた。それはハルより年上の夫を見ていればすぐにわかったから。
だ けどまだ自分には起っていない。だってまだ30半ばなのだから。
 事情はよくわからないが、体調を崩し、それに苦しんでいるのだろうかと思った。

 周囲にそういう関心を持ってくれる人がいるだろう、とも思ったから奥さんの話を振った。彼に奥さんが本当にいたのか、そのときまでよく知らなかった。
 何しろ、まるで他人と住んでいるかのような、距離を感じさせる言い方をしていたから。

 でもある程度親しくなったからと、身近には言いにくい事を、言ってきたのかもしれない。それほど不安でたまらないのかもしれない。誰でもいいから相談してみたかったのかもしれない。
 周囲と違うことで孤立してしまう辛さをハルはよく知っていた。知っていたからこそ、ハルは触れないで流すことはせず、まっすぐに向き合う気持ちをきちんとのせて、メールを送った。

 話を突き詰めて落ち着いて聞いてみれば、奥さんとあまり良い関係を築けておらず、すでに今は危い状態になっており、その以前から、もう自分の肉体的なものは一切反応しないだろうと、というようなことだったと思う。

 匿名の顔も知らないということもあったかもしれない。
顔を見られる恥ずかしさも少なくて話しやすかったのかもしれない。

 でも、ここまで他人のハルにいうのは、もがいてもがいて、諦め切れなくて、藁をも掴んでいて、それでもまだあきらめきれないと嘆いている状態なのか。
その状態すらどうにもコントロールできないと嘆いているのか。

 枯れたくない、枯れたくないと切に思っているのに、それをどうやって表現すればいいのか、手段を探しているがそれが見つからず自棄になって「枯れている」といっているのか。

ハルも苦しくなった。
心配してもどうにもならないことだけど気になって仕方がない。

 孤独は辛いのだ。だから辛さに耐えるために手助けする人を闇雲に探しているのだとハルは思った。だから、彼ののばした手をハルはつかもうとした。

 
 使えるか使えないか。
 男性の場合ならいくらでも行くとこはあるような気がする。ハルはそういう世界は知らないけれど、無いと思っているほどでもない。
 それはいやなのだろうか?

ハルが心配する義理立てなど、本当はないから、自分に何度も確かめた。

 いや、多分嫌なのだろう。だから言ってきたのだろう。ハルは勝手にそう思った。
 しかし、そう思うように仕向けられたのもまた間違いなかった。

 特殊な事情は、人を特殊な気持ちにさせるらしい。それでハルはそのとおり、それまで一切しなかったことをしようというところまで考えを進めてしまった。

 直接会って話を聞いてみよう、と。
 このままやりとりを重ねていても、気持ちが重くなるのはハルのほう。
 直接会って、密に話すことで、何か解決の糸口を見られるのなら、それだけでも価値がある、と思った。
 男性と会うときに、そういった微妙な問題があるのは、危険だと思いはしたが、動き出したものを止めるのは簡単ではなかった。

 だからハルはある種の覚悟もした。ともすると全ての崩壊をもたらすかもしれない、覚悟。夫のことを大切に思ってはいたけれど、永い春を迎えての結婚、子どもも二人授かって、倦怠期にかかっていたのかもしれない。その倦怠の度合いが大きかろうが小さかろうが、ネットを介した擬似的な恋は、ハルの心を溺れさせるのに十分だった。

 もしも枯れている男が望んできたら、ハルが選ぶことの出来る答えはただひとつしかないとわかっていた。選択の余地は全くない。それでも会おうとした。

会おうと、


会うべきだと、



会いたいと、



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 思った。

 文章から垣間見ただけの、垣間見ただけだからこそ、その人のことが好きになったのかもしれない。時折交換する携帯メールを打つ時でさえ、ハルの指はいつもかすかに震えていた。

 それが緊張なのか、喜びなのかまでは、わからなかった。

(続く)



2009114(水)

枯(14)

物語×41

(続き)

 SNSサービス展開のサイトの、ネットサーフィンをしていたときだ。ある人の日記で、ある急成長の企業が倒産して驚いたという記事を載せていた人がいた。

 個人で購入できない経済雑誌にその詳細が書かれていたとあったので、ハルはその「経済雑誌の記事」に興味を持った。
 というのは、その会社の売り方に関わるトラブルは、操作されていると思うほどに、槍玉に挙げられてネットに取り上げられていたからだ。よくよく調べてみれば、たったひとつのトラブルが原因なのだが、着物の売り方は大同小異こそあれ、結局は似てしまうので、これはひとつのトラブルが強調されたもので、消費者の積み重なった鬱憤が発散したのだと思った。
 
 だから、ハルは、その記事に興味を持った。
風評と経済誌では、どちらに世間への影響力が強いのかを知りたかった。
それで、
「その記事にとても興味があるので、読ませてもらえませんか?」
と、コメントを入れた。

 それは結構考えた上で入れたものだ。考えて入れたということは入れたくなかったということでもある。一度別のところで、その人の書き込みを見たことき、そのありように、ハルは瞬時に警戒音を鳴らしたのだ。重箱の隅をつついたような嫌らしさのある追求の仕方。係わり合いになったら大変なことになるかもしれないと思った。

 おそらくネットという間接的関わりでなければ、関わることなど決してなかったろう。その他の書き物を読ませてもらった感想も、自我の壁を破らず当たりさわりないことを、激しい口調で言いたてるだけものもあると思った。

 それでもコメント自体は軽かった。だから、この軽いコメントから始まったことが、ハルの全てを左右するほどになっていくとはそのときは思わなかった。

 返事をまつのは、怖かった。入力作業を考えると、それは断られても仕方ないので、よいのだけれど、断られるだけならまだしも、相手は余計な事を追求しそうな人という先入観もあって、コメントを待つ間の気持ちはずいぶん重かった。

 返事は思いのほか早く書かれていた。
 だが、ハルは拍子抜けした。そこには、ハルが入れたコメントへの返事ではなく、ハルの個人ページに張ってある、プロフィールの写真に対してのコメントだったからだ。着物ブログを持っていたから、着物姿の自分を貼っていた。それを珍しがられ、からかわれた。

 ハルはしかし、それで安心したのか、SNSからメールを送ってまたお願いを繰り返した。ハルが気にしていた記事の話は答えてもらえなかったが、やりとりは続いた。

 やりとりは楽しかった。SNSの自分のページを開くのがまどろこっしくて、自分からアドレスを教えもした。それは相手を信頼しているという、己の信頼感を証明するようなものだったと思う。

 直接メールのやりとりになると、送信時間などもわかるようになる。詳細を見ると、どうも朝早く起きて書いてくれているらしい。
 それを見て、今度はハルから、からかいのメールを送った。

「夜明けにコーヒー飲むのですね?」
と。

 ホテルでMAKINGLOVEして朝に一緒にコーヒーを飲む。
 ハルが若い頃に流行っていた台詞。まるで合言葉のようにあちこちで言われていて一種のギャグの感覚だった。だから、その世代の男だから通じると、面白がってくれると思ったのだ。
 その男にちょっと興味がわいていたのだろう。

 ところが、彼の返してきたメールはつまらなかった。タイトルからして、「私が飲むのは水です」と言っていた。輸入物や各地の名水が流行っていたから、そういったものへハルは興味を移したが、彼は「これは水道水です、水のおいしい地方だから、これが一番です」というわけのわからない理屈を並べ立てた。

「ああ、そう・・・」
ハルは次の会話を探すのに苦労した。

 彼は、こういう意図的な外しが好きだったのだろう。生まれ変わったら石になりたいとか、なんだとか、聞いた。はずしが好きでなければ、ちょっと無責任なのかもしれない。自分で、タネをまいておいて、その種が目を出し育てば、「俺がまいた」といい、その種が目を出さなければ、「種が悪い」というタイプかもしれない。

 だが目の出ない要素としてはいろいろ考えられる。その種は、本当に目の出ない弱いものだったのかもしれない。それなら理屈は正しい。
 しかし、もしかして、鳥や小動物の飢えを満たしたかもしれない。この場合はそんなところに植えたものが間違っている。
 または、目は出たけど、枯れてしまったのかもしれない。こまめに世話をすれば、枯れないで残ったかもしれない。それは、種まく人がいかに手をかけなかったか、顕わにする。

 そういったことは全く考え付かない狭い視野の薄っぺらい世界の積み重ねで、彼は構築されていたのかもしれない。

今となって、思うことではあったけれど。

(続く)




2009113(火)

枯(13)

物語×41

(続き)

「検査の結果でたから、方針も決まったね。今日から薬を処方して、ちょっと卵巣に刺激を与えてみよう。」

「まず普通のピルを飲む。子宮の内膜を厚くしてくれるからね。飲みきって2~3日後に生理が来るよ。そしたら5日目から、この薬を飲む。卵巣に刺激を与えるんだ。お子さんは欲しいと願っている人には出来ない治療だけど、大丈夫かい?」

ハルはうなずく。
うなずくより他にないのだ。
生理なんか、早くなくなればいいと思った報いかもしれない。本当になくなるのは、それはもうすこし先の話だと思っていた。
今40を過ぎて間もないハルにどうして、そんなことが起っているのか、受け入れがたかった。

ハルより年上の人に、そんな話をして見たら、
「いつかはなくなるよ、それが今だと思って諦めたら?諦めきれないもの??」と言われた。
彼女は、まだ生理がある。

確かにそれはそう。様々な病気で子宮を亡くしたり卵巣をなくしたりする人はいる。でも、だからこそ受け入れがたい。いつかなくなるといわれても、年上からの順送りではないのだから。

精神ストレスから来たのは、自分がしっかりしなかったから、だろうか。
それとも強くなかったから、だろうか。

先生の提案は治療より経営のためだろうか、この話を信じて良いのだろうか。そう思って疑ってしまうのはあの出来事の後遺症なのか、それともハル自身の欠陥か。
人との関わりに裏があるのではないかと、勘ぐることを軽蔑しながらも、ハルはするようになった。しないではいられなかった。

自分の正当性を少しでも証明し、報復に裁判を起こそうかとも思った。だから法務局まで相談にも行ってみた。しかし辞めた後では何も出来ないと逆に諭された。
身の安全を守るために、そこを離れれば、人権は無いものと同じだと悟った。
そう悟らされた。

まるで枯れたようだとハルは思った。
その考えは、ハルの心の底の更に下のほうに沈めた、滓のような泥のような記憶をふと浮き上がらせた。

「私は、もう枯れているんですよ」

そういった、あの男の事を。忘れようとしても忘れられない、男。

「オマエハ、ソレホドマデニスイタノカ?アノオトコノコトヲ?」
・・・私は、それほどまでに好いたのか?あの男のことを?

小さく首を横に振りながら、違う、絶対違うと唱えながら、ハルの意識は、一生かけても絶対にプラスの愛には変わらない、変えられない男の思い出に移って行った。

すでに遠いような、まだ近いような、曖昧な記憶のなかに。


ハルの夫が自作パソコン組み立てたのは、上の子どもが生まれてすぐだった。各種自分の希むマザーボードやメモリ部品を選んで、好きなようにカスタマイズする、そんなプラモデル感覚の自作パソコンが最初に流行った頃だった。
それを、ハルは使わせてもらって、草創期のネットというものに夢中になった。

ネットは不思議な世界だ。距離を気にしないで、いつでもどこでも誰とでもコミュニケーションをとれる。いや、コミュニケーションというほどに重くもないし深くもない。
メモ書きだけの、時間差で起こるやりとりが正しいだろう。

でも新鮮だった。なにしろ、自分に都合の良い時間でコミュニケーションを取れたような感覚を得られるのだから。滅多にあうことすら出来ない人とのやりとりはなんとありがたいものだろう。

黎明期のネットは、新聞よりも速く情報を流したり、雑誌や本で読むことをまとめたような、どちらかというと、実直な記事が多かった。
実名を明かしている人も多かったし、ハルも実名で活動していた。

個人で作成するホームページも流行り、その更新の面倒くささから簡易ホームページサービス、いわゆるブログサービスが出来、ハルも、日本の着物にとても興味があったので、それの歴史を調べたりまとめたり、発表してみたりして、ネットの中に己の世界を広げて行った。

さらに会員制のSNSが生まれ、自分の知り合いである友人に、誘われて、ためらいなくそこにも入って行った。知り合いと、時間差でも日常を分かち合えるのは楽しかった。

しかし、人口が増えてくると、お互いに悪意がなくても、現実では絶対に価値観の合わない人間とも関わりが出来たりする。普段はお互いの価値観でお互いの世界にすみわけをして関わることなどないのに、ネットの中では一緒くただ。

その混沌のなかで、とうとう、ハルは出会ってしまった。

(続く)



2009113(火)

枯(12)

物語×41

(続き)


 ハルは社長に気に入られていたと思ったが、それは大きな誤解だったらしい。だがその誤解はハルだけでなく周囲も巻き込む誤解だった。
 現実にやめたその日、社長はすでに出かけていた。やめるだろうと察しでも付いていたのだろうか。

 気管支炎で休み、復帰した後、社長はハルにこう言った。
「ハルちゃん、君は不倫とかしないのかい?いつでもおいで相手になるよ。」
「ここで一番の美人なんだから、負けないで頑張りなさい」
と。

 それは一体なんだったのか。社長の真意は未だにわからない。
 みんなの前でわざと不倫しようと言ったのは、

「何かあったら相談に来なさい」
という意味を含んだものかもしれない。

 でもそれは、注目の的になり、ハルの一挙手一投足はさらに監視に晒されてしまう。
いわれてもハルはただ困るだけだ。それとも、その発せられた言葉は、

「そうなる危険があるから、絶対に相談にくるな」
という警告なのか。むしろそれを言いたかったのではないか。

 リーダーは、今まで社長に嫌味を言われても、一番若いということで可愛がってもらってもいたらしい。
 それが、ハルがいると、社長は綺麗なハルになびくように見える。ひとつ年上の女に。
 新人だから目に付きやすいだけなのに、リーダーはそれを妬む。妬んで、酷いひどい目でじろりとハルをにらみ続けた。

 ハルヨは、ハルがハルちゃんと呼ばれていたことを妬む。
ハルヨは社長は嫌いだといって憚らなかった。だけど、ハルのように「ハルちゃん」と言われたい気持ちは大いにあった。言われたくてたまらなかった。

一度、
「ハルちゃん」
と社長が遠くから声をかけたとき、ハルヨが間髪いれず
「はい」
と返事をした。社長は驚いていたが、
「私もハルがつくんですよ」
と細い目を一層細めて笑った。

それらをハルは思い出す。


 仕事をやめて、初めての日曜日、ハルは夫と子どもと一緒にオモチャ屋さんに来ていた。
 自分で思うより、私は尻が軽そうに見えたのだろうか、と悔いた。その意味はそのままのとおり。化粧っ気もなく、地味にしていたつもりだったのに、何故?と思った。

 ただ、わかったのは、酷い目にあったことだけ。
 助けようとして、火に水を注がず、油をそそぐ軽率な男に気に入られ、そのとばっちりを受けてハルは生殺しにあった。

 頭の中が白くなってきた。
 太い黒い線が、ぎしっと音を立てて流れ、上と下の風景がずれた。マジックショーの人体切断のように。箱の中の美しい女性は微笑を称えているが、ハルはひきつり凍っている。
勤めていたときの風景が思い出されるたびに、ぎしぎしと頭の中で大きな音が鳴って、ハルの心の中はパズルのようにずれて行った。

 辞めた後の一週間が、ハルにとって一番の困難な時期だった。いきなり苦痛から解放された禁断症状なのだろうか。不安でたまらない。自分の存在すら危い。

 オモチャ売り場で、幼い自分の子が、好みのオモチャを探している。
 その可愛さ、愛らしさ。
 それが恐ろしい。
 可愛いこと、綺麗なことは、素直なことは排除されるからだ。
 オモチャにされて生贄にされるからだ。
 自分の身に起きた全ての黒い影が、可愛いわが子に覆いかぶさって見えた。

 錯覚。これは錯覚以外なにものでもない。
でも、その錯覚が現実と入れ替わっている気さえする。錯角だと思っていたことはすべて現実で、今まで生きてきた現実こそは錯覚なのかもしれなかった。

 ハルの人生は価値観は全て錯覚の世界のことなのか?
いやハルそのものが錯覚の産物なのか?
誰かの妄想のなかで生きているだけの存在なのか?

 もし自分の子供があんな目にあったら、ハルはきっと怒鳴り込むと思う。でも、ハルのために怒鳴り込む人はいなかった。自分自身でさえも怒鳴らなかった。

 その場にハルはいられなくなった。外の空気を吸いに出た。
・・・それが引き金だった。

 外には人がたくさんいた。その人たちが全てハルの方向を向いていた。
 当たり前だ。ハルはスーパーの入り口から出たのだから。 こっちに向かって人が歩いてくるのは当たり前だ。
 だが、全てに監視されている錯覚に陥った。
 そう、前の職場のリーダーとハルヨのような監視。

 他より愛されやすいだろう容姿を持ちながら、愛されたことはなく、くらい表情で惨めな姿を晒しているのを、何事かと凝視され、酷い目にあわせようと待ち構えているのではないかと思った。

 ハルはそこから離れ始めた。人の多いところには居られなかった。
 はじめはゆっくり、ゆっくり。そして、だんだん早く、歩くスピードはどんどん速くなった。汗が出てき始めた。

 その日は、暖かい日で、少し歩いただけで汗ばんだ。なのに、ハルの心は恐怖で寒々しく一層凍りついていく。歩くことが止められなかった。

 気が付いたら、ハルは隣の市のダンボール工場近くのサクラ並木のところで、夫に後ろから抱きしめられていた。
 突然居なくなった妻を探して携帯をかけたりしているうちにGPSに気がついた。慌ててクルマに乗り込んで、携帯電話のGPSを追ってきたらしかった。

 ハルのために怒鳴り込むことはできないが、その代わり支えようとしたことは判った。

(続く)



2009112(月)

枯(11)

物語×41

(続き)


 サクラの季節が終わる頃、ハルの心は一緒に潰えた。
 決定的になったのは、ハルとスウコとの扱かわれ方の不公平さ。

 ハルは、それまでアキのそばで大人しく仕事をしていたのに、リーダーは年度が替わったからと言って、勝手にアキから遠く離し取り囲む席替えをした。ハルの新しい席は、リーダーとハルヨとスウコに三方を囲まれて、心底居心地が悪かった。
 居心地が悪い中でも仕事はきちんと気をぬかないでしなければならなかった。

 また、よりによって、スウコはその日一日失敗ばかりしていた。朝から一日まともな仕事などしてもいなかった。
ミシンを使えば不注意から一本しか無い針を折り、まつりぬいの仕事を請け負えば、目を反対にしてつける。やり直しはハルもよく命じられたが、そのやり直しすら、スウコはミスにする。
 計算してミスを引き起こしているのかと思うほど、ハルの想像通りにミスをする。

 リーダーは度重なるミスに、慌てたような顔をしていたが、
「いいのよ、ゆっくりやって。」
と言い、スウコに背中を向けて、ハルヨのほうを向いて舌を出しスウコの様子に不愉快さをあらわしただけだった。

 人は変わることができるというが、それは辛い。痛い。ハルだって痛い。
 いや、痛かった、かつては。

 だが今は体から痛いという感覚が消えてしまっていた。
 刃物で指を裂いて、血を滴らせても、ハルの顔は無表情のまま。
 痛くないのだ、今は。
 痛いといえば面白がられるのだ、今は。

 スウコは違う。
 痛いのを、より痛いように演技して、真綿にくるまれてまどろんでいる。
 その差を生み出したのはリーダーだ。

 実は、社長以下の社員は程度の差こそあれ、ハルがいじめられている事を知っていた節がある。ハルが疲れきって帰宅すると、どこからともなく社長が現れ、リーダーや、ハルヨの仕事にチェックを入れ、激しくしかり続けることが何度かあった、とアキさんから聞かされたのだ。
 
 でもそれは、余計にハルをいじめる原動力となったような気すらする。
 その証拠に嫌がらせは止まることはなかった。

 ハルは、スウコの仕事に取り組むだらしない姿を見て、やる気を失った。さすがに目の前であからさまに差別されていたのを見せ付けられたのは堪えた。

 だけど仕事は好きだった。
 教えてくれたアキさんや採用してくれた会社への恩返しがしたかった。
 だから、一縷の望みをかけて、席替えをお願いできないかと、電話で、社員に申し出てみた。

しかし、社員は戸惑ったような、困ったような雰囲気を持って、
「自分で言えばいいじゃない」
となげやりに、すこし感情を高ぶらせて、言った。

 自分で言えばいいじゃない?
 自分で言って、聞いてくれる人たちじゃないからお願いしているのに。
 それとも私は生贄?

 ・・いや、そうだ。生贄だ。結局は使い捨て。実際の仕事の様子など誰も見てはいやしない。言葉にしたことだけが真実。ここでは、発言できないもの、しないものは蔑みの対象。だから、ハルの頑張りは彼らにとってまったく必要のないもの。ハルが頑張っていたのは収入のため。賃金に見合う仕事ができるようになりたいと願っただけ。耐えたのは、自分が未熟だとわかっていたから。だが、そんなのはあまったるい理想。そんな理想など振り回されては、迷惑極まりないのだ、ここでは。


ハルの心のバランスは完全に崩れた。

 席替えの相談を振られ、それでもなお仕事を諦め切れなかったハルは3日間、家で悲鳴を、奇声をあげ続けた。心の傷を見ないようにするには忘れようとするには、体に傷をつけんとばかりに、髪をむしり、床に柱に頭を打ち続けた。

 そこまで痛めつけて、ようやく諦めも付いて、休み明けの火曜日に出向いて、辞めると社員に話した。
 社員は止めもしなかった。
「そういうことなら」
 すぐに専務のところに連れて行かれ、詳細を話し、やめると伝えた。

 最後に挨拶を交わしたいばかりに、アキさんだけに来てもらった。
「まあま、どうしたの」
 アキさんに抱きついて、ハルは泣いた。泣いて、泣いて、涙が止まらなかった。
 いい年をして泣き続けるハルを見て、

 専務は、
「泣いてもしょうがないじゃない」
という諦めを含んだ声を発したが、それすらハルにとって痛かった。

 今までの酷い仕打ちではまだ足りずにさらに鞭打たれたような気がした。

(続く)



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