物語(41)
2009年1月6日(火)
枯(5)
物語×41
“ | 差別用語がひとつ存在します。 物語の進行上、取替えがきかないので、どうぞお許しいただけますようお願いいたします。 |
(続き)
パートのリーダーは個性の非常に強いハルより一歳年下の人だった。つまりハルの第一印象でみんなが年上に見えたのはまず間違いだった。彼女は自分の息子を、その職場で働いている男性が顧問を勤める剣道のクラブに入れていた。
あまりにもリーダーがハルの顔をみて話そうともしない人なので、ハルは、彼女の子供の頃を知っているだろう、親しい友人にも尋ねてみた。
初めは、
「あまり良く知らないの」
と答えられて、そうだよね、同じ学校だったからといって何でも知っているわけじゃないよねと納得していたが、そこをやめた後には、
「昔から強いものにはまかれて、弱いものをいじめる」
と聞かされた。
リーダーは自分が思い込んだことが全てで、客観性もなく他人ばかり非難し、調べるということや状況を聞くと言う事はしなかった。逆に言えば、人の顔色ばかり見ていたかもしれない。不機嫌な顔の他人を見ると、彼女もそれは面白くないのだ。
自分が何かしたかもしれないという、無意識の可責かもしれない。
そのせいかどうか知らないが、リーダーはハルヨという人といつもくっついていた。ハルヨは、ハルより4つ年上で背の高く、娘二人と息子一人が居て、息子は中学生、なかなかに腕の立つ剣士だそうだ。
ハルがまだそこに居ない、過去の話だが、リーダーに笑いながら平然と、
「針、さしてあげようか」
といったという神経の持ち主でもある彼女は、頬骨が鼻より出た、細い底意地の悪そうな目をしており、その彼女の顔をハルは心底恐ろしいと思った。
だが、物言いは柔らかかった。
「あら、今日からなのね、宜しくね」
と言って、ハルに作業道具を渡してくれたとき、自分の目が節穴だったと思わず恥じたほどに。
だが、実際には見た目どおりの人で、笑ってなんでも酷いことが言える人、できる人だった。
ここでは自らが剣道をしているものより、身内が剣道をしているものの方が、言い方は悪いが威張っていた。
リーダーとハルヨは、いつもおしゃべりしていた。
内容は、息子の剣道のこと、剣道をさせていて知り合った先生達のことだった。多くの内容は、あら捜し。たまに褒めることはあった。だが、ハルヨがちょっとでも褒めようならば、リーダーはそれをけなし、リーダーが好感的なことを言うと、ハルヨはトドメを刺す。噂の対象を持ち上げては落とし、持ち上げては落とし。本人がそこにいたら、決して出来ない話しを延々としていた。
対象にするのは、その場に居ない人なら、誰でもいいらしかった。社長への嫌味、専務への嫌味、他店の店長さんへの文句。おそらく居ないところではハル以下全員の文句が言われていただろうと想像するのは簡単だった。
それでも、仕事を一生懸命している、とアピールすることには非常に長けていた。
若い男性が多い職場でもあったので、若くて格好のいい社員の男の子達がたくさん出入りしていた。だから社員が来ると彼女達は甘い声を出して
「はい、承りました」
「はい、やっておきますね」
と優しく、優しく言った。
その変わりようは、好きな人にだけ好きな態度を取る、ハルには理解できなかった。
それをもしハルがやったら、色きちがいと言われてしまうだろうな、と子どものころの経験から感じていたからだ。
それでも、リーダーは、仕事は好きな人だった。丁寧で綺麗な仕事だった。
ハルヨはそうではなかった。自分に出来ること「だけ」をしているのに、さもなんでもできると言った態度で、しかも親切なふりをして、ハルの仕事のあら捜しや、アキさんの仕事の足を引っ張った。
そんな風に好き勝手に振舞っていても、二人はいつもかなりの不満を抱えていたようで、
「もうここ、やめちゃおうかなー」
と周囲が困るようなことをいつも言っていた。実際いきなり二人も抜けられたら困るのだ。
なにしろ、直前までアキさんほどに仕事をこなしていた女性は独立して行って、一時的にとはいえ、戦力は、がたがただったのだから。
(続く)
パートのリーダーは個性の非常に強いハルより一歳年下の人だった。つまりハルの第一印象でみんなが年上に見えたのはまず間違いだった。彼女は自分の息子を、その職場で働いている男性が顧問を勤める剣道のクラブに入れていた。
あまりにもリーダーがハルの顔をみて話そうともしない人なので、ハルは、彼女の子供の頃を知っているだろう、親しい友人にも尋ねてみた。
初めは、
「あまり良く知らないの」
と答えられて、そうだよね、同じ学校だったからといって何でも知っているわけじゃないよねと納得していたが、そこをやめた後には、
「昔から強いものにはまかれて、弱いものをいじめる」
と聞かされた。
リーダーは自分が思い込んだことが全てで、客観性もなく他人ばかり非難し、調べるということや状況を聞くと言う事はしなかった。逆に言えば、人の顔色ばかり見ていたかもしれない。不機嫌な顔の他人を見ると、彼女もそれは面白くないのだ。
自分が何かしたかもしれないという、無意識の可責かもしれない。
そのせいかどうか知らないが、リーダーはハルヨという人といつもくっついていた。ハルヨは、ハルより4つ年上で背の高く、娘二人と息子一人が居て、息子は中学生、なかなかに腕の立つ剣士だそうだ。
ハルがまだそこに居ない、過去の話だが、リーダーに笑いながら平然と、
「針、さしてあげようか」
といったという神経の持ち主でもある彼女は、頬骨が鼻より出た、細い底意地の悪そうな目をしており、その彼女の顔をハルは心底恐ろしいと思った。
だが、物言いは柔らかかった。
「あら、今日からなのね、宜しくね」
と言って、ハルに作業道具を渡してくれたとき、自分の目が節穴だったと思わず恥じたほどに。
だが、実際には見た目どおりの人で、笑ってなんでも酷いことが言える人、できる人だった。
ここでは自らが剣道をしているものより、身内が剣道をしているものの方が、言い方は悪いが威張っていた。
リーダーとハルヨは、いつもおしゃべりしていた。
内容は、息子の剣道のこと、剣道をさせていて知り合った先生達のことだった。多くの内容は、あら捜し。たまに褒めることはあった。だが、ハルヨがちょっとでも褒めようならば、リーダーはそれをけなし、リーダーが好感的なことを言うと、ハルヨはトドメを刺す。噂の対象を持ち上げては落とし、持ち上げては落とし。本人がそこにいたら、決して出来ない話しを延々としていた。
対象にするのは、その場に居ない人なら、誰でもいいらしかった。社長への嫌味、専務への嫌味、他店の店長さんへの文句。おそらく居ないところではハル以下全員の文句が言われていただろうと想像するのは簡単だった。
それでも、仕事を一生懸命している、とアピールすることには非常に長けていた。
若い男性が多い職場でもあったので、若くて格好のいい社員の男の子達がたくさん出入りしていた。だから社員が来ると彼女達は甘い声を出して
「はい、承りました」
「はい、やっておきますね」
と優しく、優しく言った。
その変わりようは、好きな人にだけ好きな態度を取る、ハルには理解できなかった。
それをもしハルがやったら、色きちがいと言われてしまうだろうな、と子どものころの経験から感じていたからだ。
それでも、リーダーは、仕事は好きな人だった。丁寧で綺麗な仕事だった。
ハルヨはそうではなかった。自分に出来ること「だけ」をしているのに、さもなんでもできると言った態度で、しかも親切なふりをして、ハルの仕事のあら捜しや、アキさんの仕事の足を引っ張った。
そんな風に好き勝手に振舞っていても、二人はいつもかなりの不満を抱えていたようで、
「もうここ、やめちゃおうかなー」
と周囲が困るようなことをいつも言っていた。実際いきなり二人も抜けられたら困るのだ。
なにしろ、直前までアキさんほどに仕事をこなしていた女性は独立して行って、一時的にとはいえ、戦力は、がたがただったのだから。
(続く)
2009年1月6日(火)
枯(4)
物語×41
(続き)
直前まで勤めていたハルの職場は剣道防具を販売し修理するところだった。
仕事は好きだった。針を使って、しっかりじっくりと防具のほつれや、甲手に張られた内皮の穴をふさいだり、また取り替えたりするのは楽しかった。
使って、使って、使いこなして、愛着も出て、それをなお使いたいと思う人の気持ちは、ハルには、永年のパートナーとの関係を、永く保とうともすることと似ていると思い、この仕事は、そのお手伝いだとも思った。だがそれは全てあまったるい理屈。続けていくことすらハルには困難なところだった。
面接のときに会った、社長と専務は
「仕事をしてもらう時間は自由に決めて構いません。パートのリーダーがいるから、言う事を聞いてやっていってください。」
家の近所にあったその場所で採用されてハルはほっとした。収入を得ることと、育児をすることとは背反するような世の中だから。今は子供のほうに手をかけたい。
わがままな望みかもしれないが、そのやりかたで仕事をしている人は、身近には少ないわけではなかったので、それは普通のこととして深くも考えなかった。
「ただ、個性の強い人が多いので何かあったら言ってきてください」
だから、その後に続いた言葉をハルはなんのことかと思った。
面接の後、作業場に行き皆さんを紹介してもらってハルは瞬間ぞっとした。みんなハルより年上に見えた。言い方は悪いがおばさんたちばかりが、辛気臭い感じで仕事をしていた。その中で一番どっしり構えていたのがアキさんで、第一印象は怖かった。皆が談笑している中でも、アキはひとり淡々と仕事をこなし、おしゃべりにも耳を貸さないでいたのでさらに印象は強かった。
ハルより10歳以上の年上で、背の高いすらりとした段位取得者。アキは剣道をしていて、その縁でここに来ていた。また彼女は、修理部門が設立された頃からいる人でもあって、垂れや面についている飾り紐も組みなおしたりできる人だった。アキさんの手にかかると、これがさっきまでボロだったもの?と思うものがゆっくりと、だが確実に綺麗に格好良く仕上がっていく。それをハルはとても嬉しいことだと思った。そしてアキさんのような仕事をしたいと、そんな風になりたいと思った。
ところが、人の評価とはそこでは違うものなのだ。
アキさんのように仕事をしたいと願うものは、同じ仕事を受け持つパート仲間からいじめられ、仲間にも入れてもらえないということでもあった。ハルは過去のそこでの経緯などまるで知らない。だから、そんなことに微塵も気がつかなかった。
アキさんは、ここでハルの性格と細やかさと才能を買ってくれたただ一人の人で、ずいぶん可愛がってくれたが、結局は裏切った形になってしまったことをハルは今でも悔いている。
修理部門は、会社にとって大きな利益をもたらす部門ではなかった。
一度買っていただいたお客様のアフターサービスのような部分がまだ大きかったからだと勤めているうちに理解したが、材料にもよるかもしれない。
個人で剣道をしている人は、子どもでも大人でも、質の良いものを持っていたりするので、修理にもお金を惜しまない傾向が強い。日本古来の伝統に従えば、防具のあちこちに使われている皮は合成皮革ではなく鹿の本革だ。けれど鹿が飼いならされていると、関東では聞いたこともない。でも、野生の鹿を取るばかりでは価格も非常に高いはずだろうと思う。実際、衣料品としての素材としての鹿皮は超高級品だと、東京西日暮里の繊維街に行ったときに知った。
しかしそういうものばかりではない。学校の備品なども来る。もともとの素材が良くない上に、子ども達の乱雑さでもまれ、また古いものも多く、修理は意外と難しく手の込んだものになるのに関わらず、費用は安かった。それでも、修理をするのは、修理の腕を見せ付けることで、次に新しいものを買っていただく基準のひとつとしてみてもらいたいという期待もこもっていた。
パートの先輩達がハルの入るそれまで、どんな風に仕事をしていたのか、ハルは知らない。というより知らされなかった。知らされても意味はないのかもしれないが、話ができなかった。仕事中にぺらぺら話すのは論外だとしても、お昼休みでさえも気が抜けない感じだった。
リーダーとハルはそりが合わなかったのだろう。それでも、仕事の仲間として入れてもらおうと努力はした。でも、実らなかった。正確に言えば、ハルは職場の仲間に敬意を払ったが、リーダーはハルを一切認めようとしなかった。
しかも、それを冗長させる人が二人もいた。
最初は、それほどでもなかったと思っている。
だが、女の嫉妬が、おそらく嫉妬のようなものが、ハルとリーダーをとりまく人たちとの関係を急速にこじらせて行った。
(続く)
直前まで勤めていたハルの職場は剣道防具を販売し修理するところだった。
仕事は好きだった。針を使って、しっかりじっくりと防具のほつれや、甲手に張られた内皮の穴をふさいだり、また取り替えたりするのは楽しかった。
使って、使って、使いこなして、愛着も出て、それをなお使いたいと思う人の気持ちは、ハルには、永年のパートナーとの関係を、永く保とうともすることと似ていると思い、この仕事は、そのお手伝いだとも思った。だがそれは全てあまったるい理屈。続けていくことすらハルには困難なところだった。
面接のときに会った、社長と専務は
「仕事をしてもらう時間は自由に決めて構いません。パートのリーダーがいるから、言う事を聞いてやっていってください。」
家の近所にあったその場所で採用されてハルはほっとした。収入を得ることと、育児をすることとは背反するような世の中だから。今は子供のほうに手をかけたい。
わがままな望みかもしれないが、そのやりかたで仕事をしている人は、身近には少ないわけではなかったので、それは普通のこととして深くも考えなかった。
「ただ、個性の強い人が多いので何かあったら言ってきてください」
だから、その後に続いた言葉をハルはなんのことかと思った。
面接の後、作業場に行き皆さんを紹介してもらってハルは瞬間ぞっとした。みんなハルより年上に見えた。言い方は悪いがおばさんたちばかりが、辛気臭い感じで仕事をしていた。その中で一番どっしり構えていたのがアキさんで、第一印象は怖かった。皆が談笑している中でも、アキはひとり淡々と仕事をこなし、おしゃべりにも耳を貸さないでいたのでさらに印象は強かった。
ハルより10歳以上の年上で、背の高いすらりとした段位取得者。アキは剣道をしていて、その縁でここに来ていた。また彼女は、修理部門が設立された頃からいる人でもあって、垂れや面についている飾り紐も組みなおしたりできる人だった。アキさんの手にかかると、これがさっきまでボロだったもの?と思うものがゆっくりと、だが確実に綺麗に格好良く仕上がっていく。それをハルはとても嬉しいことだと思った。そしてアキさんのような仕事をしたいと、そんな風になりたいと思った。
ところが、人の評価とはそこでは違うものなのだ。
アキさんのように仕事をしたいと願うものは、同じ仕事を受け持つパート仲間からいじめられ、仲間にも入れてもらえないということでもあった。ハルは過去のそこでの経緯などまるで知らない。だから、そんなことに微塵も気がつかなかった。
アキさんは、ここでハルの性格と細やかさと才能を買ってくれたただ一人の人で、ずいぶん可愛がってくれたが、結局は裏切った形になってしまったことをハルは今でも悔いている。
修理部門は、会社にとって大きな利益をもたらす部門ではなかった。
一度買っていただいたお客様のアフターサービスのような部分がまだ大きかったからだと勤めているうちに理解したが、材料にもよるかもしれない。
個人で剣道をしている人は、子どもでも大人でも、質の良いものを持っていたりするので、修理にもお金を惜しまない傾向が強い。日本古来の伝統に従えば、防具のあちこちに使われている皮は合成皮革ではなく鹿の本革だ。けれど鹿が飼いならされていると、関東では聞いたこともない。でも、野生の鹿を取るばかりでは価格も非常に高いはずだろうと思う。実際、衣料品としての素材としての鹿皮は超高級品だと、東京西日暮里の繊維街に行ったときに知った。
しかしそういうものばかりではない。学校の備品なども来る。もともとの素材が良くない上に、子ども達の乱雑さでもまれ、また古いものも多く、修理は意外と難しく手の込んだものになるのに関わらず、費用は安かった。それでも、修理をするのは、修理の腕を見せ付けることで、次に新しいものを買っていただく基準のひとつとしてみてもらいたいという期待もこもっていた。
パートの先輩達がハルの入るそれまで、どんな風に仕事をしていたのか、ハルは知らない。というより知らされなかった。知らされても意味はないのかもしれないが、話ができなかった。仕事中にぺらぺら話すのは論外だとしても、お昼休みでさえも気が抜けない感じだった。
リーダーとハルはそりが合わなかったのだろう。それでも、仕事の仲間として入れてもらおうと努力はした。でも、実らなかった。正確に言えば、ハルは職場の仲間に敬意を払ったが、リーダーはハルを一切認めようとしなかった。
しかも、それを冗長させる人が二人もいた。
最初は、それほどでもなかったと思っている。
だが、女の嫉妬が、おそらく嫉妬のようなものが、ハルとリーダーをとりまく人たちとの関係を急速にこじらせて行った。
(続く)
2009年1月4日(日)
枯(3)
物語×41
“ | 2009.1.15記録) お話のなかに破砕血という単語が出てまいりますが、破綻出血の間違いです。 大変失礼いたしました。 |
(続き)
二回目の来院のとき答えはすぐに出た。
「ええとね。これは」
一旦記憶の底まで戻ったハルは、聞こえてきた先生のことばで現実に浮上した。
「血液検査の結果で診るとね、君、卵巣の働きが弱くなっているよ。これは破砕血といって、排卵を促すホルモンが少なくなっておこるんだ。排卵ホルモンが少ないといちいち卵巣を傷付けながら卵子が出てこようとするんだよ。ひんぱんにある出血はそのせいだ。」
諭すような優しい口調だ。
「あなた、いくつだった?」
こないだも聞かれたのに、と思いながらハルはまた、答えた。
「そうか、じゃあ、ホルモンが減ってしまうには、ずいぶん早い。まだ若い、いや、若すぎるよ。人生が80年の時代、今はね、できるだけ閉経を遅くしているんだよ。ホルモン投与をしたりして。君はようやく人生を折り返したばかりなのに。」
「・・・可哀想だ。ずいぶん可哀想だ」
可哀想だといわれて、ハルはぐっと胸を締め付けられる思いがし、目頭がじんじんしてきた。
「一体何があったの?」
そんな質問を受けても、ハルは上手に答えられない。ただ、初診のときと同じように、いろいろあったんだと思います、と答えるのが精一杯だった。
「義親と同居かい?」
「はい。でも特にもめたこともないですし、とてもよくしてもらっています。」
「仕事はしているのかい?」
「はい・・・多分そっちのほうだと思います。いろいろあったから・・・」
精神科ではないので、あまり話せない。どこから話せばいいのかもわからない。
ハルは気持ちが動揺してくるのがよく判っていたが、今は自分で自分を納得させるしかない。
「あなた、結構白髪が多いよね。いつごろから白髪が目立つようになった?」
「30過ぎ頃からぽつぽつとはありましたけど、昨年の暮れ頃に、ずいぶん増えたなと感じました」
祖母も母も白髪が出るのは早かった。だから気にもしていなかった。むしろ白髪になるものは薄くならないといわれて、よかったと思っていた。
祖母の綺麗に色の抜けた白い髪。それにハルは子供の頃、とてもとても憧れていた。だから白髪が増えたのはどこか嬉しかった。真っ白になる日を夢見ていたかもしれない。
だが、今から思えば、それは歪みでしか、ない。
若いふくよかな、きれいな顔のまま白髪になるのではないのだ。おそらくそのころの祖母の年は70間近だったはずだったから。
白髪が増えたのは、仕事のせいだと確信していた。
「卵巣の働きが弱くなるとね、白髪が増えるんだよ。それからゆっくり老化して、腰が曲がって、顔の脂肪も落ちて皺だらけで、よぼよぼになっちゃう。」
先生はそう言って笑った。
いくつになっても女性には若々しく綺麗でいて欲しいし、またいるべきだと先生は願っているのだろう。だからそんなことを言っているのだろう。
でも今のハルには残酷な言葉だった。
まるで脅されているかのようだ。
その若々しく綺麗なこと、本当の年齢よりずっとずっと若く綺麗に見えることが、ハルを苦しめてきた原因のひとつでもあったのだから。
もちろんハルはそれを直に聞いたわけじゃない。だけど、言われたことされたこと、その他のことをすりあわせてみれば、それ以外には理由は見つからないのもまた事実だ。
先生の言葉もそぞろに、ハルは、こないだ辞めた職場の事をまた思い返していた。
電車で1時間かけて通っている今の新しい職場ではなく、その4ヶ月ほど前に務めていた、職場のこと。
その職場で見聞きしたこと、されたことを、ハルは未だに受け止めきれない。ちょっとでも思い出せば、何故あんなことに会ったのか、自分はなぜそうまでされなければならなかったのか、どうしてそこに居たのか、根底から混乱してくる。
混乱しているということは、感情や行動も、自分が考えているような動きは出来ないということだ。一貫していない矛盾。それに耐えてきたはずなのに、ちょっと思い出しただけでも背筋に悪寒が走る。
言えるのは、ハルは「彼女達と二度と会いたくない」ということだけだ。
(続く)
二回目の来院のとき答えはすぐに出た。
「ええとね。これは」
一旦記憶の底まで戻ったハルは、聞こえてきた先生のことばで現実に浮上した。
「血液検査の結果で診るとね、君、卵巣の働きが弱くなっているよ。これは破砕血といって、排卵を促すホルモンが少なくなっておこるんだ。排卵ホルモンが少ないといちいち卵巣を傷付けながら卵子が出てこようとするんだよ。ひんぱんにある出血はそのせいだ。」
諭すような優しい口調だ。
「あなた、いくつだった?」
こないだも聞かれたのに、と思いながらハルはまた、答えた。
「そうか、じゃあ、ホルモンが減ってしまうには、ずいぶん早い。まだ若い、いや、若すぎるよ。人生が80年の時代、今はね、できるだけ閉経を遅くしているんだよ。ホルモン投与をしたりして。君はようやく人生を折り返したばかりなのに。」
「・・・可哀想だ。ずいぶん可哀想だ」
可哀想だといわれて、ハルはぐっと胸を締め付けられる思いがし、目頭がじんじんしてきた。
「一体何があったの?」
そんな質問を受けても、ハルは上手に答えられない。ただ、初診のときと同じように、いろいろあったんだと思います、と答えるのが精一杯だった。
「義親と同居かい?」
「はい。でも特にもめたこともないですし、とてもよくしてもらっています。」
「仕事はしているのかい?」
「はい・・・多分そっちのほうだと思います。いろいろあったから・・・」
精神科ではないので、あまり話せない。どこから話せばいいのかもわからない。
ハルは気持ちが動揺してくるのがよく判っていたが、今は自分で自分を納得させるしかない。
「あなた、結構白髪が多いよね。いつごろから白髪が目立つようになった?」
「30過ぎ頃からぽつぽつとはありましたけど、昨年の暮れ頃に、ずいぶん増えたなと感じました」
祖母も母も白髪が出るのは早かった。だから気にもしていなかった。むしろ白髪になるものは薄くならないといわれて、よかったと思っていた。
祖母の綺麗に色の抜けた白い髪。それにハルは子供の頃、とてもとても憧れていた。だから白髪が増えたのはどこか嬉しかった。真っ白になる日を夢見ていたかもしれない。
だが、今から思えば、それは歪みでしか、ない。
若いふくよかな、きれいな顔のまま白髪になるのではないのだ。おそらくそのころの祖母の年は70間近だったはずだったから。
白髪が増えたのは、仕事のせいだと確信していた。
「卵巣の働きが弱くなるとね、白髪が増えるんだよ。それからゆっくり老化して、腰が曲がって、顔の脂肪も落ちて皺だらけで、よぼよぼになっちゃう。」
先生はそう言って笑った。
いくつになっても女性には若々しく綺麗でいて欲しいし、またいるべきだと先生は願っているのだろう。だからそんなことを言っているのだろう。
でも今のハルには残酷な言葉だった。
まるで脅されているかのようだ。
その若々しく綺麗なこと、本当の年齢よりずっとずっと若く綺麗に見えることが、ハルを苦しめてきた原因のひとつでもあったのだから。
もちろんハルはそれを直に聞いたわけじゃない。だけど、言われたことされたこと、その他のことをすりあわせてみれば、それ以外には理由は見つからないのもまた事実だ。
先生の言葉もそぞろに、ハルは、こないだ辞めた職場の事をまた思い返していた。
電車で1時間かけて通っている今の新しい職場ではなく、その4ヶ月ほど前に務めていた、職場のこと。
その職場で見聞きしたこと、されたことを、ハルは未だに受け止めきれない。ちょっとでも思い出せば、何故あんなことに会ったのか、自分はなぜそうまでされなければならなかったのか、どうしてそこに居たのか、根底から混乱してくる。
混乱しているということは、感情や行動も、自分が考えているような動きは出来ないということだ。一貫していない矛盾。それに耐えてきたはずなのに、ちょっと思い出しただけでも背筋に悪寒が走る。
言えるのは、ハルは「彼女達と二度と会いたくない」ということだけだ。
(続く)
2009年1月3日(土)
枯(2)
物語×41
“ | タイトル「枯」は、ただ一文字「こ」です。 |
(続き)
出血がひとつきに2回あった。
それが3ヶ月続いた。
たいていの女は、自分の体のリズムを知っている。それが大きく崩れるのは原因がある。例えば、喜ばしい原因では子どもを授かったとき。しかしハルにはそれはもう当てはまらない。
二人目の子供を授かったとき思いがけなく難産で、次にもし子どもが出来たらそれで母体を損なう危険があるといわれた。もし損なわなくても経済的な面ではもう難しかった。
だから確率の高い避妊手段を選んだ。
選ばざるを得なかった。それには定期健診もあり、もちろんきちんと受けていた。だからこれは妊娠では、ない。
すると、出血の原因は、体の異常に直結すると考えられてしまう。
ただホルモンバランスの異常なのか、
それとも身体的に出来た腫瘍・潰瘍のたぐいか。
若い頃から遅れがちという生理不順を持ってはいたけれど、特に悩まされてきたことはなかったハルだったが、今回の過剰ともいえる出血の回数に異常は感じていた。
「精神的にいろいろあったからだな・・・。」
と。
夫にそれをちらりと話したら、すぐに病院に行くように勧められ、ハルもそうすることにした。
初めは、子ども達を産んだ病院を訪れた。しかし以前の、担当の先生は病気で休職されていた。
母体に積極的に働きかけて出産する人工のリズムではなく、子どもが生まれてくるのをただ待ってくれる自然のリズムに合わせて子どもを産ませてくれる病院だった。
哺乳類の多くが夜にお産をするのと同じように、人もまた夜に分娩を始めるようで、多くの子供が夜中に生まれるままにしてくれてもいた。
たいていは朝方に出産となるらしいが、経産婦は分娩が早い傾向にあるので、そういったときでも先生がそれに合わせて出動してくれていた。
昼間は妊婦検診や婦人科の診察を行なっていたから、先生が若い頃から積み重なった負担や疲労は少なくなかったに違いない。
ハルが婦人科でお世話になった先生は、その先生しかいない。分娩の様子、その後の経過全てを見てもらっていたから、ハルは困った。困ったあげく、先生に直接電話をしてみると、先生はハルのことを覚えてくれていた。電話で様子を離すと、先生は知り合いの医師のいる病院を教えてくれ、ハルはそこを訪れた。
まず内診があった。2回の出産を経ても、内診にはどうしても慣れない。いや、慣れたくはない。
診察台に乗らされたハルは、目をつむりながら、腹の中を探られる気持ち悪さと、医療器具を突然突っ込まれた痛さに耐えていた。一枚布の向こうからは、医師が独り言のように話すのが聞こえてくる。ハルはそれをぼんやりと聞いていた。毎月2回出血するから貧血になりかかっていたのかもしれない。
「あなたいくつ?」
ふと呼びかけられて、ハルは慌てて年を答えた。
答えを聞いて、医師はうーんと声を漏らした。
「卵巣が片方は腫れているんだけど・・・、片方は動いていないように思えるんだよ。この超音波での造影はわかるかな?・・・ほら右側はこんなに張れて・・・何か溜まっているんだと思うけど、片方は萎縮しちゃっているように小さいんだ。」
それはハルをぎょっとさせた。
婦人科の部分ではハルはそれほど不健康なものはなかったのに。
出産以外では今まで驚くような出来事はなかったのに。
それなのに今、
「卵巣が腫れている」
ときけば、それは何か病気の前触れなのかと、覚悟をするに十分過ぎる言葉だった。
「一度検査をしましょう。見ただけではわからないものもあるから。」
その日は、出血の様子や経過、生理の周期、出血の様子やその日数を話し、そこで一旦診察を切り上げて、採血室に回った。
思いがけない言葉に、ハルはショックでいつもなら普通に椅子に座って血液を抜くところを、備え付けのベッドに寝て取った。心の動揺で立っていられなかった。
家にもどっても、子どもや夫に食事の支度をするのが、精一杯だった。
(続く)
2009年1月2日(金)
枯(1)
物語×41
“ | 創作です。 分割していますので、気長にお付き合いくださればありがたく思います。 |
花だけで出来た鞠(まり)。
江戸の末期に突然出来た染井吉野は、花びらだけでできた薬玉のように花を咲かせる。サクラの花の色目には濃い色もあれば、完全な白もあるけれど、ソメイヨシノはどちらかというと白に近い。カップ一杯のミルクの中にほんの一滴だけ食紅を入れたよう、とハルは思う。
サクラにはいろいろな種類がある。山桜、彼岸サクラ、大島桜・・・。野生種もあれば、園芸種もある。特にソメイヨシノは、街路樹や公園樹にも多く使われて、一番目に付くかもしれない。好き嫌いは別にして。
ソメイヨシノは、他のサクラと違って寿命が短いという。
成長が速い分、老化が早いのだとか、接木によって増やされるので、台木が腐り、それが寿命を縮めるのだとも言われているそう。
ハルは、それほどサクラが好きなわけではなかった、以前は。
サクラといえば、葉っぱと花が一緒にちまちまと出てきて、あっという間に葉っぱが茂り、夏になれば毛虫が糸にぶら下がる、嫌な木。その他には桜餅の葉、サクラ湯の中の塩漬けの花、滅多に口に入らない果物、さくらんぼ。
そんなことしかハルには思いつかなかった。
ハルが好きだったのはダケカンバ。山の斜面のごつごつした岩場に斜めに出て、上にまっすぐ伸びる、あの、たくましさが好きだった。
父の仕事のついでに遊びにつれて行って貰うとき、北海道の背骨のような山脈を通るときは砂利とトンネルばかりの道だった。つり橋もありそこを揺れながら通るときの怖さ、楽しさ。崖のすれすれを通るたびに、落ちるのではないかとひやひやし、怖さに耐えて窓から下を見れば、つり橋の下は、川が曲がりくねって流れていた。
そしてダケカンバは、崖を隠すように堂々と生えていた。夏には濃い緑の葉をつけ、その下はひんやりと涼しそうな、うっそうとした茂り方。
もしかしたら木の魅力そのものより、あの風景が好きだったのかもしれないと思う。
そんなだから、ハルは度肝を抜かれたのだった。
思わぬ縁で内地に嫁ぎ、迎えたはじめての春、実際にソメイヨシノをみた。近所の桜並木をみた。それまで桜並木を見たことがなかったわけではない。テレビで見たことはあった。
間近で見る本物の桜は、ソメイヨシノは、花だけがまず咲き揃い、ある意味異様ともいえる様子で、全てを桜色に染め、生き物がうきうきとした気持ちを抑えるのに苦労するような雰囲気がある。
もちろん人々の心をも桜色に染めて悩ませる、それほどの華やかさ、絢爛さ。
満開となって晴れた日には、桜の花の下は極楽と言えるような彩をもち、そのいろどりは夜になれば、漆黒の中に存在を際立たせるような妖しさを解き放つ。
淡い、白い炎を上げて燃え盛る、冷たい炎のような風情は、日本人に、老いも若きも、桜の花を愛で、歌につづり、物語に残した。
近所のサクラでも人を魅了してやまないのだから、名所といわれるところでは、もっとすごいのだろうと想像するのも易しかった。
そんな内地のサクラを見た初めての春、ハルの夫となった人は、
「ハルはサクラに似ている」
と言った。
目の当たりに美しい花を見て、それに例えられていることを、ハルはただうれしいと思った。
今日、ハルは、病院に来ていた。
受付を済ませて、プラ製のファイルケースに入った個人情報―中身は、いわゆるカルテだろうか―を受け取って、中待合室で診察の順番を待っていた。
名前を呼ばれ、ドアを開けて診察室に挨拶して入ると、先生は挨拶もそぞろに、驚いたように口を開いた。
「君、どうしちゃったの?一体何があったの?」
血液検査の結果が書かれた紙切れに目を遣りながら、定年はもう少し先の、年上の信頼できそうな先生はハルの顔をちらりと見て、たずねた。
先生ですら思いがけない患者なんだな、とハルは思わず苦笑いしないではいられない。
ハルは、いろいろあったんです、と答えながら、心を、意識を記憶の底のほうに沈めて行った。
永遠に光の当たらない深海のような、簡単には探りきれない記憶の中に。
(続く)
江戸の末期に突然出来た染井吉野は、花びらだけでできた薬玉のように花を咲かせる。サクラの花の色目には濃い色もあれば、完全な白もあるけれど、ソメイヨシノはどちらかというと白に近い。カップ一杯のミルクの中にほんの一滴だけ食紅を入れたよう、とハルは思う。
サクラにはいろいろな種類がある。山桜、彼岸サクラ、大島桜・・・。野生種もあれば、園芸種もある。特にソメイヨシノは、街路樹や公園樹にも多く使われて、一番目に付くかもしれない。好き嫌いは別にして。
ソメイヨシノは、他のサクラと違って寿命が短いという。
成長が速い分、老化が早いのだとか、接木によって増やされるので、台木が腐り、それが寿命を縮めるのだとも言われているそう。
ハルは、それほどサクラが好きなわけではなかった、以前は。
サクラといえば、葉っぱと花が一緒にちまちまと出てきて、あっという間に葉っぱが茂り、夏になれば毛虫が糸にぶら下がる、嫌な木。その他には桜餅の葉、サクラ湯の中の塩漬けの花、滅多に口に入らない果物、さくらんぼ。
そんなことしかハルには思いつかなかった。
ハルが好きだったのはダケカンバ。山の斜面のごつごつした岩場に斜めに出て、上にまっすぐ伸びる、あの、たくましさが好きだった。
父の仕事のついでに遊びにつれて行って貰うとき、北海道の背骨のような山脈を通るときは砂利とトンネルばかりの道だった。つり橋もありそこを揺れながら通るときの怖さ、楽しさ。崖のすれすれを通るたびに、落ちるのではないかとひやひやし、怖さに耐えて窓から下を見れば、つり橋の下は、川が曲がりくねって流れていた。
そしてダケカンバは、崖を隠すように堂々と生えていた。夏には濃い緑の葉をつけ、その下はひんやりと涼しそうな、うっそうとした茂り方。
もしかしたら木の魅力そのものより、あの風景が好きだったのかもしれないと思う。
そんなだから、ハルは度肝を抜かれたのだった。
思わぬ縁で内地に嫁ぎ、迎えたはじめての春、実際にソメイヨシノをみた。近所の桜並木をみた。それまで桜並木を見たことがなかったわけではない。テレビで見たことはあった。
間近で見る本物の桜は、ソメイヨシノは、花だけがまず咲き揃い、ある意味異様ともいえる様子で、全てを桜色に染め、生き物がうきうきとした気持ちを抑えるのに苦労するような雰囲気がある。
もちろん人々の心をも桜色に染めて悩ませる、それほどの華やかさ、絢爛さ。
満開となって晴れた日には、桜の花の下は極楽と言えるような彩をもち、そのいろどりは夜になれば、漆黒の中に存在を際立たせるような妖しさを解き放つ。
淡い、白い炎を上げて燃え盛る、冷たい炎のような風情は、日本人に、老いも若きも、桜の花を愛で、歌につづり、物語に残した。
近所のサクラでも人を魅了してやまないのだから、名所といわれるところでは、もっとすごいのだろうと想像するのも易しかった。
そんな内地のサクラを見た初めての春、ハルの夫となった人は、
「ハルはサクラに似ている」
と言った。
目の当たりに美しい花を見て、それに例えられていることを、ハルはただうれしいと思った。
今日、ハルは、病院に来ていた。
受付を済ませて、プラ製のファイルケースに入った個人情報―中身は、いわゆるカルテだろうか―を受け取って、中待合室で診察の順番を待っていた。
名前を呼ばれ、ドアを開けて診察室に挨拶して入ると、先生は挨拶もそぞろに、驚いたように口を開いた。
「君、どうしちゃったの?一体何があったの?」
血液検査の結果が書かれた紙切れに目を遣りながら、定年はもう少し先の、年上の信頼できそうな先生はハルの顔をちらりと見て、たずねた。
先生ですら思いがけない患者なんだな、とハルは思わず苦笑いしないではいられない。
ハルは、いろいろあったんです、と答えながら、心を、意識を記憶の底のほうに沈めて行った。
永遠に光の当たらない深海のような、簡単には探りきれない記憶の中に。
(続く)