200981(土)

定義と認識の限界

考察×22

定義と認識の限界

電車に乗って帰宅途中に、天井を見上げると、中吊り広告が私を呼び止めた。

「昭和妻は3度破綻する」

昭和妻、3度、破綻する。

この短い文章の中に、新語と繰り返しと、ショッキングな言葉を詰め込んである。

見事だと思った。←いや相手はそのプロだろうし

それにしても昭和妻とはなんぞや?

その新しい言葉が気になって、思わず中吊り広告はどこのものかを見た。

「AERA 09,8,3」である。

表紙はやはり著作権に抵触するだろうと目次を画像に収めさせてもらった。



昭和妻とは大雑把に言えば、「高度経済成長期と団塊の世代と、家電による重労働からの解放によってうまれた専業主婦」

・・・であるらしい。←かなり大雑把である

とはいえ、完全な専業主婦ではなく、パート主婦も含まれるのだが・・・。

まあ、記事のほうは、皆さんが読んでみればいろいろ思うことがあるだろうからいわないですが、私の感じたことといえば。


昭和妻が家計のリスクだという論点があるのだが、それに関して言えば、

「ふざけんじゃねーよ(笑)」

だ。

ふざけんじゃねーよといいたいのは表紙も同じで、レディーガガのヌードなのである。
レディーガガのヌードはいいとしても、なぜ社会誌の表紙にするのかわからない

とはいえ、ヌードをおかしく思えど、私はフェミニズムではない。

むしろ好きなほう←それなんか違う論点だし


そもそもこの記事にぶち当たる前に、私は岸田秀の「性的唯言論」を読んでしまっている。

キリスト教社会からの文化の流入は、家庭概念もキリスト教化していった。
それによると婚姻とは、神の前では罪にあたる性行為を、特例として認めたというだけのことだ。

性行為は、生殖だけのものとする、人間の向上を目指す宗教としては、非常に動物的な理由であると思わされた。

とはいえ、別にキリスト社会を責めたいわけではない。


私の若いころ、結婚といえば、「家は女が守るもの!」という大義名分で、寿退社する人が多かった。
会社のほうも、高い給料を払って、女子を採用し続けるなんてことは少なかった。もちろんないとは言わないけど、少なかった。

女は家に入って好きなことをしていればいいという意識が男性のほうにありありだった。
専業主婦は家畜だと豪語している女性もいる←私は著書をよんでへこみました。

しかし時代が下って、世界的な不況を何度も味わうと、そんな男性も息が切れてくる。

そして、そろって周囲に「自分をわかってくれない」と嘆く・・・。

ま、男性を責めるわけでもない。


 鯉の泳いでいる池にえさをぽんと投げ込むと、鯉はわれもわれもとよってたかって口をあける。
その鯉も生息数が少なければ、かわいらしく面白いものだけど、黒光りのする鯉が白い目をぎょろぎょろさせながら、ほかの個体の上に乗っかってくる姿はグロテスクだ。

昭和妻という言葉は、そういう「鯉」と同義であるような気がする。

風評に流されず、確固とした芯を、思い込みや妄想ではなく原因と結果を見つめる方法で育てる。

人である以上、必ず、思い込みも妄想が出る。
それを認められない人は永遠に妄想を繰り返すのかもしれない。

かくいうに昭和妻とは増大した妄想の産物なのであろうか。
一体誰の妄想なのか、そこを問うてみたい。



2009719(日)

悲しいこと。

考察×22

誰かと誰かが始めて文章の世界で出会って、理解できあえると思ったとき、

人はお互いを求めて本当に出会う。

・・・事がある。


ところが、出会った後でも、お互いを知る努力をしないと続かないのに、とたんに打って変わって、相手にひどい仕打ちをしても平気になる。

・・・人もいる。

そのスパンが異常に早いのが、ネットの世界だと思う。


最近、「甘え」の構造という本を購入した。

まだ全部読みきっていないのだが、20年前の本の加筆修正をしたものだということなので、20年前に読んだことのある人がいるかもしれない。

甘ったれる、甘やかすという言葉で甘えるということが駆逐されていると、著書は訴える。

甘ったれるとは、どういうことだろうか

また

甘やかすとはどういうことだろうか。


これから私はその本を読むので答えを得ることができるかもしれない。

しかし、悲しい思いをしたことは、簡単には忘れられないのである。

忘れることができたら、本当にいいのにね。



2009630(火)

夏着物の装い


メイン画像は、海島木綿の襦袢と、レースの足袋。

でも夏向けの正当な足袋は麻ですよ~~ん。
夏着物の装い

明日から7月ですね~。

着物の世界では、明日から薄物が解禁です。

薄物とは、絽、紗に代表とされる絹物で、そのほかには麻や浴衣も解禁です。
あっ、あくまでも目安です。
いまどきは結構解禁も早いんじゃないかな。


最近では浴衣もいろいろ友禅染めのような柄付けがありますので、品物によっては襦袢を着て、足袋を履いたり、麻の帯を締めたらおしゃれ着にも使えます。
※麻の帯といいましたが、浴衣の柄行によって、羅とかの目の粗い織物や、紗や絽などの織りものもあわせられると思います。昔ながらの紺や白浴衣にはお勧めしませんが、紅梅なら大丈夫!
私、実践済みです。←日本橋の三越にて


ちなみに私は沖縄を着物で歩いていたとき、3月にもかかわらず暑かったので裸足でいたら、

「お太鼓のときは足袋はいてね」と足袋をいただきました。

ありがとう~~ごぜ~~ぇ~~ますぅ~~~♪

一足増えました!


夏の襦袢は、絽か麻か薄手の木綿、レースの木綿なんか可愛いですよ。

浴衣にもいろいろありまして、通常の綿コーマというものもあれば縮というでこぼこのある生地もありますし、紅梅という太い糸と細い糸が格子の地紋をつくっているものがあります。

紅梅ですと木綿だけでなく、絹物もありますので、こうなってくると品のよい着物になってきます。

履物は下駄で十分ですが、絹物の上等なものを着るときは麻でできた夏物のぞうりがかっこいいです。

下駄も二枚歯もあれば、右近下駄や、小町下駄など、底がいろいろ変わっていますので、雰囲気で選ぶこともできます。

画像
左から2枚歯、右近、舟形



短い季節ですが、夏はおしゃれがいっぱい!

肌を露出させて小麦色になるのもいいですが、しとやかに控えめなやりかたでおしゃれを楽しむのもまた楽しいです。


画像
絽の襦袢の上に、案山子の型染めの絹芭蕉の着物。
麻の帯を締めております。
帯揚げ帯締めともに、オールシーズン用をつかっております。

画像
綿紅梅の伝統的な柄行の浴衣。
上の帯と同じものを使うこともできます。





2009626(金)

紫の帯 (4)

物語×41

紫の帯 (4)

(続き)

 二人の暖かみは、マユコのおなかの痛みを思ったより早く消してくれました。
 とはいいましても、心の痛みは簡単に消えるものではありません。

 流産の後もマユコは着物で生活をしようとしていました。
ところが不思議なことに、それまで好んで身につけていた、黒地に赤の一本独鈷の帯を締めることができないのです。
 赤、がだめなのです、体が拒否をするのです。

 赤は人類が初めに意識した色です。太陽が沈んだ暗い恐怖の世界、太陽が昇ると一転して明るく安全な世界、それらを分かつためのアケルから赤、クレルから黒が生まれたといわれています。
 そして文明を発達させる元となった火や、体を流れる血潮も赤です。
 太陽が没すること、血を失うこと、つまり赤を失うことを恐れて余計に意識した太古の記憶なのかもしれません。

 とにかく今のマユコは、赤を見ることができません。

 困りました。
 着物を着るためには、帯は欠かせませんから。
 それに、今は、洋服のほとんどを捨ててしまっています。ほとんどが、若いころに着ていたもので、箪笥の肥やしになってしまっていましたから。
 だから、今着るものとなると、帯を求める以外考えられなかったのです。

 マユコは、帯を探しました。
 黒をベースにした、赤みの入っていないものを。

 最初はデパートの呉服店に行きました。
 ところが、きものにも流行というものがありまして、黒の帯は、喪服のきっちりしたものばかりで、喪に服したいと思ってもなお仰々しいくらいです。
 いまどき、ふだんぽい着物の上に黒一色の流水や雲取りなどの帯を締めている人などいません。そぐわないような仰々しさは望んではいません。むしろ周辺がいぶかしがるだけかもしれません。

・・・とはいいましても、着物の生活はすでに現代日本にはそぐわないでしょうが。

 それでも趣味性の強い呉服店に行けば、あるかもしれないと考えました。
 でも、かなりの額面を用意しなくてはならないだろうと思いますと、実際に行くことはためらわれました。

 着物は高価だけれど、文化としては万人の需要にこたえることはできないほど貧しくなっているのだなと思わざるを得ませんでした。

 最後にマユコはリサイクル店を回りました。
 質屋と違ってリサイクル店では、年をとって着られなくなったとか、もともと上質なものではないとか、しみや汚れがあるとか、古びてはいないけど何度も着用したから、というわけありも多く集まって、そういったものは気に入りさえすれば、お値打ちで手に入るのです。
 実際、気に入って付けていた黒に赤の一本独鈷の帯はリサイクル店で求めたものでした。

 これぞ、というものはありませんでしたが、めぼしいものは見つかりました。
 紫色の、紫といいましても青みの強い、茄子のような、ええ、それは茄子紺というのかもしれません、ごそっぽい手触りの、木春菊を薄い色で線描きした帯です。
 花があることにマユコは躊躇しました。ええ、花やかという言葉があるからです。

 ですが供養には菊の花を使いますし、むしろ周囲には流産したことがわかりにくいかもしれません。
 思いきってというほどに考え込まなくてもいい額面ですから、マユコはそれを買いもとめました。

 毎日その帯を締めました。流れてから49日間、マユコはその帯を締め続けました。
 帯はマユコのおなか周りをつつみ、ごそっぽさはすこしづつこなれ、やわらかく締めやすくなっていきました。
血で汚した着物も、洗って、再び着始めました。この二つの組み合わせはマユコの手持ちのなかで一番地味だったせいか、身につけることは、気持ちが落ち着いていくように感じました。

 49日がすぎて50日目にはいりますと、帯はすっかり体になじんでいました。
 それからしばらくして、ようやくあの気に入っていた黒と赤の帯を締めてみたくなったのでした。

 心の傷が癒えるには、49日かかる、ということなのかもしれないと、昔の言い伝えは人の心の動きをよく見ていたのだなあとマユコは思います。

 キョウが生まれたのは、その1年あまり後のことでした。ほとんどすぐ、といってもいいくらいです。元気な丈夫な、超がつくほど安産の、子どもでした。
 なくなった子供が守ったかのようです。

 そんな込み入った思い出の詰まった帯は、今でも箪笥の下のほうに収まっています。
 マユコはそれをもう締めないだろうなと思います。もともと欲しかったものではありませんでしたから、自分の好みと合っていないということもあります。

 でも、あの一言を今でも悔いています。
「本当は、本当に生まれてきてほしかったんだよ」
と、今でもいつも思っています。


 流れてしまった赤ん坊は、病院でさらにこそげられて、影も形も何も手元に残りません。

 箪笥の中を見て、マユコはときおり、わが子の冥福を祈っています。
 この親と子をつなぐ紫の帯を、そっと撫でながら。



(終)

参考文献:日本人の作った色(吉岡幸雄) NHK人間講座テキスト



2009625(木)

紫の帯 (3)

物語×41

紫の帯 (3)

(続き)

 失敗は教訓になるものです。

 マユコは、日常的に着物を着ていた時代の小説を読み漁りました。
 装い方やしぐさ、習慣、いわれ、なんでもいいから着物にかかわることなら何でも知りたかったのです。
だって、現代女性は着物については何もしらないのに等しいのだから。
 その中で、マユコは見つけました。

 結城紬は、丈夫なために、丁稚が作業着としてやわらかくしてから旦那が着ることがあったということを。

 結城紬は衣服としての寿命が長く、60年を経た結城紬を見たことがありますが、まるで大島紬のようなきらめいた光沢が生まれてしなやかで気持ちよさそうでした。
大島紬とは日本の紬の双璧のようなもので、沖縄の奄美大島で作られる反物です。

 それについてはまた別の機会にお話しましょう。

 さらに、結城縮(ちぢみ)といわれるものがあることも知りました。
 サッカー生地のような細かい膨れた部分があるので、涼しく、夏向けものとして、また、寝巻きにも好まれたのだそうです。

 素人考えとはまことに恐ろしいというか、あきれるほどにおかしいもので、マユコはその二つをごっちゃにして、堅い着物をやわらかくするために、その箪笥の奥にしまいこんだ、先にお話した着物を引っ張り出して、寝巻き代わりにして着たのです。

 寝るときになると、いそいそと着物を着て伊達締めと呼ばれる絹製の紐で押さえます。
 それから布団に入ります。

 最初のころは、着物がつっぱらかって、動きがままなりませんで、足も開けず寝返りを打つのも目を覚ましながらでした。

 そのころ、マユコは生理が遅れていることに気が付きました。
 もしやと思って病院にいくと待望の妊娠です。
 アンナを産んでしばらく、欲しい欲しいと望みながらできなかった二人目の子供です。

でも。

その子供は生まれてくることはありませんでした。

 理由はわかりません。ですが、その子を妊娠したときから体調が優れなかったのです。
 立てば変な汗が出ます。立っていられなく座っても腰がだるくてたまりません。

 流産する直前、マユコは洗濯をしていました。洗うのは洗濯機におまかせできますが、干すのは人の手を遣うしかありません。洗ったものを干している、その手を伸ばしながらの作業が、ただ辛くてたまりませんでした。

 夫は休みで家に居ましたから、洗濯ものを干すのを手伝って、と言えればよかったかもしれませんが、いえませんでした。
 専業主婦だし、夫は休みなのだし、ということが遠慮をよんだといえば聞こえはいいのですが、格好をつけてしまったのではないかと思います。
 ですが、心では感じていました。

 調子が悪いのをそばでみているはずだろうに、気の付いてくれないもどかしさ、寂しさ。

 ですから、マユコは
「あんまりにも辛いから、もう子供なんか要らない」
とつぶやいてしまったのです。

 それは、まだ生まれてもいない子供にたいする八つ当たりでしかなくて、馬鹿なことを言ったと思っています。
 けれど、その直後、体を休めるために床に潜り込んで一眠りしたら、まさか本当に流産するとは思ってもいませんでした。


 深みから浅瀬に浮かんできたようなほの明るさの中で、マユコは腰に何か巻きつけているような重たさを感じていました。海底の火山に沸き起こるような鈍い熱い痛み、それらの刺激で目を覚ましますと、ふとももの付け根は痛みでしびれています。
 でも、あの硬い硬い寝巻きを着ているから、足が開かず、じっと痛みに耐えられたような気がします。

 つと何かが流れ出したのを感じました。
 あわてて床から這い出て、トイレに行きました。
 そこでみたものは、衣服にまで寝具にまで及んだ量の血で、下着の上には、親指のつめくらいの大きさのビー玉のような血の塊が乗っかっていました。

 その日は、病院は休みでしたので、次の日、その塊をもってアンナを産んだ病院にいきますと、残念ながら流産と判明し、その日のうちに処置を行うことになりました。

 10ヶ月後に、分娩台に乗るはずだったマユコは、アンナを産んだ同じ部屋で手術台にのりました。点滴のように麻酔を入れて、数を数えていたら、いつのまにか意識はなく、気が付いたら、処置は終わっており、おなかの中に、こそげられたような痛みが残っていました。

 マユコはその痛みに思わず「痛い」とつぶやいて、はっとしました。この痛みは、生まれてこられなかった赤ん坊の名残なのだと。

「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい!!」

 痛みと、悲しみでマユコは取り乱して、安静のために入れられた部屋で泣きました。

 夫とアンナは、じっとマユコを見ています。
 新しく増えるはずだった家族は、この中の3人の誰とも会うことはできなかったのです。

 おなかの痛みは、なかなか消えませんでした。
 寒い日でしたから、体は、ほんの短い間にかなり冷え込んだようです。冷たさは痛みを際立たせるようです。さらに、病院の寝具も冷たく、その冷たさはさらに痛みを強めました。

 痛い痛いと正直に言えればいいものを、言わなくてもいいことを言ってしまった後悔から痛いとも言えず、病室で待っていた夫は苦しそうな、辛そうな、泣き喚いているマユコをみて困っていました。
 困って話しかけても、妻は子供のように泣きじゃくるだけです。

 夫はふと思い立って、布団の中に手を入れると、マユコの、裸のおなかに手を当てました。

 暖かい手、でした。
 なんというあたたかさでしょう。体の芯までじんわりと伝わってくる暖かさ。
 氷が解けるように、痛みのするどさは和らいでいきます。
それを見て、アンナも手を当ててくれました。
 しばらく二人の暖かい手に触れられたマユコは、ようやく正気を取り戻していきました。


(続く)



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