2009年3月13日(金)
感想文「空海の風景」
ゆとり×33
「風が激しく吹きおこっているとする。そのことを自分の皮膚の感覚やまわりの樹林の揺らぎや通り行くひとびとの衣の翻りようや、あるいは風速計でその強さを知ることを顕教的理解であるとすれば、(中略)密教は全く異なっている。認識や近くを飛び越えて風そのものに化ることであり、さらに密教にあっては風そのものですら宇宙の普遍的原理に過ぎない。もし即身にしてそういう現象に化ってしまうにしても、それはほんのちっぽけな一目的でしかない。本来、風のもとである宇宙の普遍的原理の胎内に入り、原理そのものに化りはててしまうことを密教は目的としている。」
あとがきから、まず空海の持ち帰った密教について説明を抜粋しました。
空海の風景は、昭和50年、司馬遼太郎によって書かれました。前後編に分かれた長い小説です。
小説と前置きしたのは、これは紀行文かと思ったから。
でもそれは当たり前の話で、司馬氏がいろいろなところを実際に歩いてみてそこで知りえたことを文章化することを考えれば当然至極の感じ方ではないかと思います。
でも、この紀行という形こそが、現代の風景から、一気に、空海の見たであろう風景に持っていくこともまた効を奏しているといえます。
密教とは現世利益を求める宗派でもあります。
現在では千葉県の成田山新勝寺が一番有名でしょうか。
平将門を押さえ込んでいるお寺です。
そう。将門の祟りが、現世の人を苦しめないように、です。
でもその現世の人を苦しめないという部分が、商いを行なう人たちには魅力的で、恵比寿とともに商業を守るものでもあるようです。
それから、もうひとつの側面は、身体的な側面を持つと言う事です。男女の愛欲に見られるような現実と結びつく肉体をも菩薩とし高めることもあります。
空海が持ち帰った頃にはそういうことはありませんでしたが、発祥の地インドでは愛欲性欲を謳歌する大衆的なものになりましたし、日本でも時代をくだるほどにその傾向は出てき、江戸時代には真言立川流が出ました。
真言立川流については、とてもじゃないけど私の口からは語れませんゆえ、詳細はご自分でお調べください。
人により思うところはいろいろあるかと思うのですが、私が思うには、これは天才を追い求めた話、天才を掴むための葛藤ではないかと思うのです。
エジソンが、「天才とは99%の汗と1%のひらめきで作られる」と言ったように、空海は「99%の肉体を本能と理性を切り離すことなく切磋琢磨し、その上で彼岸からの啓示を受け取ったのではないか」、と。
いや現実に彼岸から何かを受け取ったというよりは、絶えずアンテナを伸ばし続けてかすかに感じたものを表現してきていたのではないかと。
空海という体、名前を持ちながら、空海の、人々に見せる姿は、蜃気楼のようにゆらゆらと定まり無く、私たちを、そして作家を翻弄する。
何故正体が定まらないか。
それは、空海がこの次元に存在していないということでもあります。
同じ人間でも、赤ん坊のときと老いたときでは姿が違う。もし、連続した時間軸を一気に見ることが出来たら、その姿は、赤ん坊にもどったり老いたり、ゆらめくと考えられます。
SFの好きな人にはわかるかと思うのですが・・・。
それこそが、空海の信じた密教が、宇宙の普遍的原理を求めたものであるといえるようです。
そうそう。
宇宙から出ている電波の話をご存知でしょうか。
知的生命体が発信している電波は強く、そうでないものは弱いのです。
これに似ているのが崇高なるものの波動です。
格が低いものはわかりやすく、高いものはわかりにくいのです。
階段の中ほどにたって、下を見ればよくわかるけれど、上を見てもなにがあるのかわからない・・・。
おそらく作者は、書を通して、文献を通して、他者の残したものを見て、手紙を見て、空海という定まらないものの正体を追いかけたのでしょう。
そして、彼の次元は私たちがいる次元ではなかったということがいえたのでしょう。
その証拠に、司馬氏は途中から空海その人より、最澄のことを語るのです。
30年近く前にかかれたものですが、空海の見た空と海の鮮やかさ、青さが目の前に広がるような新鮮さを持っています。
こ難しいのですが、読みやすいので、一度読んでみると、いろいろなものはかかわっているようでかかわっておらず、つながっていないようでつながっていない。
まさに般若心経のような「観」に触れることができるでしょう。
2009年3月11日(水)
さくら もも なでしこ
考察×22
早い種類では、そろそろ咲き始めたサクラもあります今日この頃ですが、みなさんいかがお過ごしですか?(笑)
ウチの裏庭では梅がそろそろ散っております。
実を採るための梅なので、部分的に違う品種に挿し木をしておりますので白い梅の木に、ピンク色の花が咲きまして、非常に目を奪われます(笑)
でも、ピンクといわれても、カラーインク(ライトマゼンタ)発色のピンクではないですよ。
いわゆる紅梅色、ですよね。
ということでピンクを集めてみて、表題になりました。
白の多いほうから
桜・桃・撫子。
日本標準では撫子のピンクが、本来のピンクです。
本来は石竹色というそうですが。
花の色は移りにけりな、という文も本来の意味とは違いますが、花の色は千差万別。
色は色だけで存在するのではなく、そこにある光を反射して見えてくるものですが、7色と分類されている光の波長は、どのくらいの割合の波長で遷移(進んで行く)ものなのか。
その移行していく波長の割合で見える様々なピンク。
海外標準ではピンクといえども、日本ほど多くの色は表されません。
それは光の関係もあるでしょうし、文化の違いなども大きくかかわるでしょう。
あと分類好きだからね。
リンネなんてその最たるもの。なんでも例外はあるのですが(笑)
海外ではペールピンク、ベビーピンクと言った、白い肌を強調するものの方が多いような気がします。
どー考えても日本人のほうが色濃いからね~。しょうがねいやねー。
その割には花の色は濃いのが海外なのですが・・・。
それもまた光の割合によりますね。
白夜地域では冬には朝から夜まで真っ暗なのですから・・・。
私は、桜のごくごく薄い品の良い色味が好きなので、そろそろ心奪われる季節になってまいりました。
ピンクって大雑把な表現だとエロいけどー。
彩度・明度・色相を変えていくとピンクという大きなジャンルの中で、この色もたくさんの種類があるのだと、いつも思います。
ぎらぎらした命を思わせる赤より、そこはかとなく年を重ねてきたとおもはれるピンクに乾杯!
・・・・。
あー桜の季節は、狂い季節ー(笑)
でも好きなのよね。
ウチの裏庭では梅がそろそろ散っております。
実を採るための梅なので、部分的に違う品種に挿し木をしておりますので白い梅の木に、ピンク色の花が咲きまして、非常に目を奪われます(笑)
でも、ピンクといわれても、カラーインク(ライトマゼンタ)発色のピンクではないですよ。
いわゆる紅梅色、ですよね。
ということでピンクを集めてみて、表題になりました。
白の多いほうから
桜・桃・撫子。
日本標準では撫子のピンクが、本来のピンクです。
本来は石竹色というそうですが。
花の色は移りにけりな、という文も本来の意味とは違いますが、花の色は千差万別。
色は色だけで存在するのではなく、そこにある光を反射して見えてくるものですが、7色と分類されている光の波長は、どのくらいの割合の波長で遷移(進んで行く)ものなのか。
その移行していく波長の割合で見える様々なピンク。
海外標準ではピンクといえども、日本ほど多くの色は表されません。
それは光の関係もあるでしょうし、文化の違いなども大きくかかわるでしょう。
あと分類好きだからね。
リンネなんてその最たるもの。なんでも例外はあるのですが(笑)
海外ではペールピンク、ベビーピンクと言った、白い肌を強調するものの方が多いような気がします。
どー考えても日本人のほうが色濃いからね~。しょうがねいやねー。
その割には花の色は濃いのが海外なのですが・・・。
それもまた光の割合によりますね。
白夜地域では冬には朝から夜まで真っ暗なのですから・・・。
私は、桜のごくごく薄い品の良い色味が好きなので、そろそろ心奪われる季節になってまいりました。
ピンクって大雑把な表現だとエロいけどー。
彩度・明度・色相を変えていくとピンクという大きなジャンルの中で、この色もたくさんの種類があるのだと、いつも思います。
ぎらぎらした命を思わせる赤より、そこはかとなく年を重ねてきたとおもはれるピンクに乾杯!
・・・・。
あー桜の季節は、狂い季節ー(笑)
でも好きなのよね。
2009年3月8日(日)
sukuu・hipparu
超自我発現(ひとりごと)×16
掬う(すくう) と 引っ張る(ひっぱる)。
どちらも、何かを外から得ようとするときにする行動であろうか。
引っ張るは、目的のものをしっかり見定めて、自分のほうに引き寄せる。
掬うは、目的のものがもしかしたらあるかもしれないと、期待を持って、もしくは別のものを期待していて、たなから牡丹餅的に得るもの、かもしれない。
なぜかというと、掬うということは必ずこぼしたり、足りなかったりするからである。
余計なものもあるかもしれないが足りないこともある。
これに似ているのが恋愛である。
恋は引っ張る。
愛は掬う。
掬うは救うに通じ、宗教的愛にもつながる。
と私は考える。
人と愛を交わすとき←ここは真面目に読もう。
引っ張る形をとるのか、掬う形をとるのか。
その人それぞれの考えがあると思うが、おそらく私は掬い続けるだろう。
なぜなら、私は救われたいからである。
どちらも、何かを外から得ようとするときにする行動であろうか。
引っ張るは、目的のものをしっかり見定めて、自分のほうに引き寄せる。
掬うは、目的のものがもしかしたらあるかもしれないと、期待を持って、もしくは別のものを期待していて、たなから牡丹餅的に得るもの、かもしれない。
なぜかというと、掬うということは必ずこぼしたり、足りなかったりするからである。
余計なものもあるかもしれないが足りないこともある。
これに似ているのが恋愛である。
恋は引っ張る。
愛は掬う。
掬うは救うに通じ、宗教的愛にもつながる。
と私は考える。
人と愛を交わすとき←ここは真面目に読もう。
引っ張る形をとるのか、掬う形をとるのか。
その人それぞれの考えがあると思うが、おそらく私は掬い続けるだろう。
なぜなら、私は救われたいからである。
2009年2月28日(土)
結ぶ(後編)
物語×41
(続き)
それで、わたしはたまにこの真空になったところを歩くことがあります。
ラッシュのときなんかに、使うと便利なんですよ。
ホームの両側に人が満杯の状態で立っていたりするものですから、通り抜けることすら難しいのです。その間をくぐり抜けて歩けば、肩からかけたバッグは隙間にひっかかるは、足は間違って踏まれるは。
すいません、すいませんと声を掛けても、耳にイヤホンをかけて、周囲に何を聞いているかわかるほどにした人にとどくはずもありません。
そんなときに真空になったところを歩くと、誰にも何にもさえぎられるものがなくて、いらいらしないんです。
でも、白い線の外側は、正直、怖いです。
白い線から向こうの、さっきまで居たところは、平らかな人でごった返すところなのに、白い線からこちらは、切り立った断崖絶壁のよう。
もちろん、眺めても見えるのは海ではなく、敷石であり枕木であり、線路だけなのですけれど。
もしここでだれかに突き飛ばされたら、などと、そんな物騒なことを考えなくても、ふと、引き込まれそうになるときもあります。
そこから、だれかに呼ばれているような気がして、下を除いてみたい衝動に駆られたときは、気をつけなきゃいけないと思っていたりします。
きっと、覗いたら最後、わたしは引きずり込まれてしまうでしょうから。
というのは、たまに、ほんとうにごくたまに、ホームの下めがけて人が飛び込んでしまうことがあるからです。電車に轢かれる瞬間を、幸いにもわたしはまだ見たことはありません。ですが、毎日、どこかで、人身事故の話は出てきます。
「人身事故のために遅れが出ています」
とアナウンスされると、たいてい、飛び込みだったりするのです。
さらに
「車両点検をしています」
などとアナウンスが出たりすると、いよいよもって・・・と背筋が凍ります。
その、なくなった人たちが、私を呼んでいる。
そんな気持ちになるから滅多に近寄れませんし、近寄りません。
一度こんなこともありました。
真空地帯を歩きぬけ、いつもわたしが立つ場所の黄色い線の内側に入ったときに電車が通過していったのです。
もちろん、通貨電車があるときには、
「黄色い線の内側お待ちください」
というアナウンスがあります。
でも、そのときの私は聞き逃していたみたいです。
通過だから、電車の速度はあまり緩めません。
電車の顔が、空気を押してきて、風が吹きます。
空気でっぽうでコルクの栓を押し出すような感覚なのでしょうか。
そのときにふく風の音(ね)は、鬼の咆哮のようでもあります。
気合で喝を言われたときの感覚にも似ているかも知れません。
私はたまたま背中を向けていたから、ごうう、というその時の風は、髪の毛をめちゃくちゃにしただけでしたが、前を向いていたら、いくらかのショックがあるだろうなと思います。
いえ、たいていアナウンスで気が付くのだから、これはなにかが耳をさえぎったのかもしれません。
などと考えてしまうのです。
私はよく不思議な夢を見ます。
目が覚めると、天井から自分を見下ろしているのです。
頭のところとお腹のところには、光る糸のようなものが、ねじれを伴いながら、くっついています。
わたしと、下で寝ているわたしは、そのひかる糸で結ばれているようです。
その結び方は、どんな結び目なのか。
わたしの興味はそこにあるのです。だから目を凝らしてそこを見ようとします。
でも、いつも、そこで目が覚めます。
天井を見上げているので、あっ夢だったんだなと思うのです。
そういったことは、みんなうすうす感じているのかもしれません。それで、みんな黄色い線の内側で待っているのだと思います。
だから、私も真空地帯を歩くときは、滅多にありません。
「メトロ線乗り入れ各駅停車、・・・・行き参ります。」
アナウンスがまた聞こえました。
これで何本の電車を通過させたことでしょう。
今日は、交際を申し込まれた同級生と初めてディズニーランドに行くのです。
いまどきディズニーなんて幼いでしょうか。
でも行ってみたかったのです。
一緒に遊びに行こうよといわれて、何故か、夢と魔法の国に行ってみたくなったのです。
夢と魔法と現実の世界を結ぶものは何か。
多分わたしの興味は結ぶところにあるのです。
デートなんて、初めてだから緊張して眠れませんでした。晩生なんていわないでください。
誰だって初めての相手の前では緊張するでしょう?
思わず早起きして、勢いで駅に来てしまったのですが、早すぎたようです。
「あっいた!ごめんね、待たせた??」
右側から呼びかけられました。
彼は、今発車した、各駅の電車にのっていたみたいです。
「いえ、まだ待ち合わせ時間を過ぎたばかりだし・・・」
本当は、ここでずいぶん待っていたから、手が冷たくなりました。それを隠すようにわたしは、ポケットに手を入れようとしました。
彼は、その様子を見たのか見なかったのか、わかりません。
でも、わたしに近づいてきて、ポケットに入れようとした手を握り締めました。
「さあ、JRの改札に急ごう!電車一本遅れても、あっというまに並んじゃうからね!」
そういって彼は私を引っ張って早足になりました。
わたしは、引っ張られている間中、つながれた手のほうに意識を向けていました。
いつもつなぐ女の子の手と違う、骨っぽさ。
その手の温かさ、力強さ。
その力強さと熱さ、手の平の厚さに、めまいを起こしそうです。
いつか、わたしは、この人と結ばれるかもしれない。
そう思ったら、手から赤い糸が伸びて彼につながっているように見えました。
・・・願わくば、本結びでありますように。
それで、わたしはたまにこの真空になったところを歩くことがあります。
ラッシュのときなんかに、使うと便利なんですよ。
ホームの両側に人が満杯の状態で立っていたりするものですから、通り抜けることすら難しいのです。その間をくぐり抜けて歩けば、肩からかけたバッグは隙間にひっかかるは、足は間違って踏まれるは。
すいません、すいませんと声を掛けても、耳にイヤホンをかけて、周囲に何を聞いているかわかるほどにした人にとどくはずもありません。
そんなときに真空になったところを歩くと、誰にも何にもさえぎられるものがなくて、いらいらしないんです。
でも、白い線の外側は、正直、怖いです。
白い線から向こうの、さっきまで居たところは、平らかな人でごった返すところなのに、白い線からこちらは、切り立った断崖絶壁のよう。
もちろん、眺めても見えるのは海ではなく、敷石であり枕木であり、線路だけなのですけれど。
もしここでだれかに突き飛ばされたら、などと、そんな物騒なことを考えなくても、ふと、引き込まれそうになるときもあります。
そこから、だれかに呼ばれているような気がして、下を除いてみたい衝動に駆られたときは、気をつけなきゃいけないと思っていたりします。
きっと、覗いたら最後、わたしは引きずり込まれてしまうでしょうから。
というのは、たまに、ほんとうにごくたまに、ホームの下めがけて人が飛び込んでしまうことがあるからです。電車に轢かれる瞬間を、幸いにもわたしはまだ見たことはありません。ですが、毎日、どこかで、人身事故の話は出てきます。
「人身事故のために遅れが出ています」
とアナウンスされると、たいてい、飛び込みだったりするのです。
さらに
「車両点検をしています」
などとアナウンスが出たりすると、いよいよもって・・・と背筋が凍ります。
その、なくなった人たちが、私を呼んでいる。
そんな気持ちになるから滅多に近寄れませんし、近寄りません。
一度こんなこともありました。
真空地帯を歩きぬけ、いつもわたしが立つ場所の黄色い線の内側に入ったときに電車が通過していったのです。
もちろん、通貨電車があるときには、
「黄色い線の内側お待ちください」
というアナウンスがあります。
でも、そのときの私は聞き逃していたみたいです。
通過だから、電車の速度はあまり緩めません。
電車の顔が、空気を押してきて、風が吹きます。
空気でっぽうでコルクの栓を押し出すような感覚なのでしょうか。
そのときにふく風の音(ね)は、鬼の咆哮のようでもあります。
気合で喝を言われたときの感覚にも似ているかも知れません。
私はたまたま背中を向けていたから、ごうう、というその時の風は、髪の毛をめちゃくちゃにしただけでしたが、前を向いていたら、いくらかのショックがあるだろうなと思います。
いえ、たいていアナウンスで気が付くのだから、これはなにかが耳をさえぎったのかもしれません。
などと考えてしまうのです。
私はよく不思議な夢を見ます。
目が覚めると、天井から自分を見下ろしているのです。
頭のところとお腹のところには、光る糸のようなものが、ねじれを伴いながら、くっついています。
わたしと、下で寝ているわたしは、そのひかる糸で結ばれているようです。
その結び方は、どんな結び目なのか。
わたしの興味はそこにあるのです。だから目を凝らしてそこを見ようとします。
でも、いつも、そこで目が覚めます。
天井を見上げているので、あっ夢だったんだなと思うのです。
そういったことは、みんなうすうす感じているのかもしれません。それで、みんな黄色い線の内側で待っているのだと思います。
だから、私も真空地帯を歩くときは、滅多にありません。
「メトロ線乗り入れ各駅停車、・・・・行き参ります。」
アナウンスがまた聞こえました。
これで何本の電車を通過させたことでしょう。
今日は、交際を申し込まれた同級生と初めてディズニーランドに行くのです。
いまどきディズニーなんて幼いでしょうか。
でも行ってみたかったのです。
一緒に遊びに行こうよといわれて、何故か、夢と魔法の国に行ってみたくなったのです。
夢と魔法と現実の世界を結ぶものは何か。
多分わたしの興味は結ぶところにあるのです。
デートなんて、初めてだから緊張して眠れませんでした。晩生なんていわないでください。
誰だって初めての相手の前では緊張するでしょう?
思わず早起きして、勢いで駅に来てしまったのですが、早すぎたようです。
「あっいた!ごめんね、待たせた??」
右側から呼びかけられました。
彼は、今発車した、各駅の電車にのっていたみたいです。
「いえ、まだ待ち合わせ時間を過ぎたばかりだし・・・」
本当は、ここでずいぶん待っていたから、手が冷たくなりました。それを隠すようにわたしは、ポケットに手を入れようとしました。
彼は、その様子を見たのか見なかったのか、わかりません。
でも、わたしに近づいてきて、ポケットに入れようとした手を握り締めました。
「さあ、JRの改札に急ごう!電車一本遅れても、あっというまに並んじゃうからね!」
そういって彼は私を引っ張って早足になりました。
わたしは、引っ張られている間中、つながれた手のほうに意識を向けていました。
いつもつなぐ女の子の手と違う、骨っぽさ。
その手の温かさ、力強さ。
その力強さと熱さ、手の平の厚さに、めまいを起こしそうです。
いつか、わたしは、この人と結ばれるかもしれない。
そう思ったら、手から赤い糸が伸びて彼につながっているように見えました。
・・・願わくば、本結びでありますように。
2009年2月27日(金)
結ぶ(前編)
物語×41
お母さんが着物を着付けています。
わたしは、それを見るのが、好きです。
引きずりそうな長い裾をたくし上げ、紐で押さえ、胸のあたりであまった部分を畳み込む手つきはなんだか魔法のようです。
着物は、洋服のように、体に添うよう形が出来てシルエットが作られるのではなくて、おかあさんの体の線を、ある部分は強調し、ある部分はうまく隠すように出来ていると思います。
いつも家で家事をこなしたり、夜休む姿は、見慣れたジーンズ姿や、パジャマだったりするのに着物に着替えるおかあさんは、いつもより嬉しそうで、綺麗に見えます。
「そんなにじろじろ見ないでよ、間違っちゃうでしょ」
「だって魔法みたいなんだもん」
「着たいと思ったらいつでも教えてあげるわよ」
「うん、いつかね」
わたしは笑ってこたえました。
おかあさんは、帯の上で帯締めを結ぼうとしています。
帯締めを結び終わったら、ふわふわした帯揚げという名前の布を綺麗にまとめて終わりです。
着替えはもうすぐ終わるのだと、わたしはそこで見るのを一旦やめました。
今日はいとこのお兄さんの結婚式です。3年くらいお付き合いをして、お嫁さんになる人にプロポーズをして、受けてくれたのだそうです。
以前挨拶に来てくださったときは、うれしそうな明るい笑顔をしていました。
きっと素敵な夫婦になると思います。
私はふと思いついて、おかあさんが帯揚げを丁寧に直しているそばにいき、帯締めを一本とりました。
おかあさんの帯の上にあるような、きれいな二重の、のしめを作ってみたくて、見よう見まねで結んでみました。
あれ?
帯締めの結び目が綺麗にならない。
助けを求めておかあさんのほうに顔を向けると、おかあさんは、いままでの楽しそうな顔を吹き飛ばしてそこに立っていました。
「なんか変になっちゃった」
わたしは、おかあさんのその、不吉そうな顔をみなかったことにして、慌てて声をかけました。おかあさんの顔はまたさっきのにこやかな顔に戻りました。
「それはね縦結びっていうのよ。こうやって結ぶのはふじ結びっていうの。」
おかあさんは一旦結んだ結び目を解いて、わたしの目の前でもう一度結びました。
「これが本結び。本当はこれだけで十分なんだけど、おめでたい席にでるから、ちょっと華やかにしてみたのよ。振袖なんかにはよく見る形よね」
おかあさんは、へへへ、という顔をしてまた結びを解いてふじ結びにし、支度が済んだかと呼びに来たおとうさんと出かけていきました。
わたしは、招待を受けていたのだけれど、なぜか気乗りしなくて行きませんでした。
なんとなく。
なんとなくだけど、あまり行きたいと思わなかったのです。
そして、わたしの予感は当たってしまいました。
あの結婚のあと、一年もしないで、二人は別れてしまったのでした。
理由は、わたしにはよくわかりません。
でも、お兄さんの妹にあたるお姉さんから聞いた話は、悲しいな、と思いました。
「二人で働いてはいたのはわかっていたけど、新婚家庭に似あわないような、日ざしのよくない暗い家だったのよ」
と聞かされたからです。
子どもが生まれたらどうするんだろう、とも言っていました。
でも、二人の間に子供はできませんでした。
「運命の赤い糸はちゃんと結ばれていなかったのね」
わたしは、あの日におかあさんに教えてもらった縦結びのことを思い出して、後ろめたくなりました。もしかしたら、わたしが、お兄さん達の仲を割いたのかもしれない、などと考えて。
縦結びは、ほどけやすい結び方です。
つながると思われた縁は、切れて無くなってしまった。
まだまだ結婚する相手も見つからないのに、わたしはそれにどこか納得するものがあり、それが腑におちたように思いました。
あれから、わたしは成長して高校生になりました。
「・・・行き急行、3番線に参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください。」
このアナウンスを聞くと、いつも不思議な気持ちになります。
黄色い線とは、視覚障害者のための、「とまれ」を意味する黄色いタイルのことです。
今は、どこにいっても、このタイルが、電車を待つときの安全地帯をわける目安になっているようです。
ええ、今は。
それまでは黄色い線ではなくてその先にある細い、白い線でした。
今でも黄色いタイルの向こうに白い線は見ることができます。
駅で電車を待つときに、黄色い線の上にたつ人もいなければ、当然その先を越えて電車に近い側で待つ人もいない。
黄色いタイルから、ホームの縁までは、いつも真空のように開いている場所なのです。
わたしは学校最寄駅の改札の関係で、いつも先頭車両にのります。
先頭車両に乗る位置まで行くのに、結構な距離があるものです。なにしろ各駅停車でも10両はあり、1両の長さも、10メートルくらいはあると思いますから。丁度真ん中からホームに入ったとしても、5掛ける10メートルは歩くことになるのです。
でも調べたら、電車の長さはいろいろあって、私がいつものるのは、18メートルくらい、となっていたので、18掛ける5で、90メートルは歩いているのだと言う事になります。
思ったより歩いているものですね。
あっ話がずれました。
(続く)
わたしは、それを見るのが、好きです。
引きずりそうな長い裾をたくし上げ、紐で押さえ、胸のあたりであまった部分を畳み込む手つきはなんだか魔法のようです。
着物は、洋服のように、体に添うよう形が出来てシルエットが作られるのではなくて、おかあさんの体の線を、ある部分は強調し、ある部分はうまく隠すように出来ていると思います。
いつも家で家事をこなしたり、夜休む姿は、見慣れたジーンズ姿や、パジャマだったりするのに着物に着替えるおかあさんは、いつもより嬉しそうで、綺麗に見えます。
「そんなにじろじろ見ないでよ、間違っちゃうでしょ」
「だって魔法みたいなんだもん」
「着たいと思ったらいつでも教えてあげるわよ」
「うん、いつかね」
わたしは笑ってこたえました。
おかあさんは、帯の上で帯締めを結ぼうとしています。
帯締めを結び終わったら、ふわふわした帯揚げという名前の布を綺麗にまとめて終わりです。
着替えはもうすぐ終わるのだと、わたしはそこで見るのを一旦やめました。
今日はいとこのお兄さんの結婚式です。3年くらいお付き合いをして、お嫁さんになる人にプロポーズをして、受けてくれたのだそうです。
以前挨拶に来てくださったときは、うれしそうな明るい笑顔をしていました。
きっと素敵な夫婦になると思います。
私はふと思いついて、おかあさんが帯揚げを丁寧に直しているそばにいき、帯締めを一本とりました。
おかあさんの帯の上にあるような、きれいな二重の、のしめを作ってみたくて、見よう見まねで結んでみました。
あれ?
帯締めの結び目が綺麗にならない。
助けを求めておかあさんのほうに顔を向けると、おかあさんは、いままでの楽しそうな顔を吹き飛ばしてそこに立っていました。
「なんか変になっちゃった」
わたしは、おかあさんのその、不吉そうな顔をみなかったことにして、慌てて声をかけました。おかあさんの顔はまたさっきのにこやかな顔に戻りました。
「それはね縦結びっていうのよ。こうやって結ぶのはふじ結びっていうの。」
おかあさんは一旦結んだ結び目を解いて、わたしの目の前でもう一度結びました。
「これが本結び。本当はこれだけで十分なんだけど、おめでたい席にでるから、ちょっと華やかにしてみたのよ。振袖なんかにはよく見る形よね」
おかあさんは、へへへ、という顔をしてまた結びを解いてふじ結びにし、支度が済んだかと呼びに来たおとうさんと出かけていきました。
わたしは、招待を受けていたのだけれど、なぜか気乗りしなくて行きませんでした。
なんとなく。
なんとなくだけど、あまり行きたいと思わなかったのです。
そして、わたしの予感は当たってしまいました。
あの結婚のあと、一年もしないで、二人は別れてしまったのでした。
理由は、わたしにはよくわかりません。
でも、お兄さんの妹にあたるお姉さんから聞いた話は、悲しいな、と思いました。
「二人で働いてはいたのはわかっていたけど、新婚家庭に似あわないような、日ざしのよくない暗い家だったのよ」
と聞かされたからです。
子どもが生まれたらどうするんだろう、とも言っていました。
でも、二人の間に子供はできませんでした。
「運命の赤い糸はちゃんと結ばれていなかったのね」
わたしは、あの日におかあさんに教えてもらった縦結びのことを思い出して、後ろめたくなりました。もしかしたら、わたしが、お兄さん達の仲を割いたのかもしれない、などと考えて。
縦結びは、ほどけやすい結び方です。
つながると思われた縁は、切れて無くなってしまった。
まだまだ結婚する相手も見つからないのに、わたしはそれにどこか納得するものがあり、それが腑におちたように思いました。
あれから、わたしは成長して高校生になりました。
「・・・行き急行、3番線に参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ちください。」
このアナウンスを聞くと、いつも不思議な気持ちになります。
黄色い線とは、視覚障害者のための、「とまれ」を意味する黄色いタイルのことです。
今は、どこにいっても、このタイルが、電車を待つときの安全地帯をわける目安になっているようです。
ええ、今は。
それまでは黄色い線ではなくてその先にある細い、白い線でした。
今でも黄色いタイルの向こうに白い線は見ることができます。
駅で電車を待つときに、黄色い線の上にたつ人もいなければ、当然その先を越えて電車に近い側で待つ人もいない。
黄色いタイルから、ホームの縁までは、いつも真空のように開いている場所なのです。
わたしは学校最寄駅の改札の関係で、いつも先頭車両にのります。
先頭車両に乗る位置まで行くのに、結構な距離があるものです。なにしろ各駅停車でも10両はあり、1両の長さも、10メートルくらいはあると思いますから。丁度真ん中からホームに入ったとしても、5掛ける10メートルは歩くことになるのです。
でも調べたら、電車の長さはいろいろあって、私がいつものるのは、18メートルくらい、となっていたので、18掛ける5で、90メートルは歩いているのだと言う事になります。
思ったより歩いているものですね。
あっ話がずれました。
(続く)