2008年10月10日(金)
専守防衛(4)
物語×41
4(続き)
サトルの実家は、広い純然たる日本家屋の平屋で、二階をつくるという話は以前からあった。しかしすでに築50年、しかも現在の安全基準から見ると、柱が重さに耐えられない、と言われたらしい。
かといって増築するには、土地の問題があった。
市街地ならともかく、周辺に農地をたくさん抱えたこの地域は首都圏の食を賄う地域でもあるので調整区域となり、いちいち手続きが面倒なのだ。
家を建て替えること、それは嬉しかった。
ようやく落ち着けると思った。
母の世代がしていたようなレースや手芸のあふれた家を目指そうとは思わなかったけど、子供の作品を壁に飾るとき、躊躇することは少なくなると思った。
でも。
でも、なのだ。
その頃、サユリのおなかには、二人目の子どもが居た。
生まれてくる子どもの世話や、生まれた直後に小学校に上がる子どもがいることを考えると、気持ちはけして軽くはならなかった。
だから、もうすこし後でもいいですよと言ってもみた。
けれど、やっぱり勢いは止まらない。
勢いが出ると止まらないのは、運転と似ている、誰だって止めることは難しいのだな、と思った。
そういう自分だって「間に合わせ」を続けられなくなって引越ししたがったのだし。
もし、その引越しを止められていたら、神経症的なところはもっと酷くなっただろう。
事実、間に合わせから脱出した「安心」は副作用のように神経症の部分を表に出させて、サユリは1年以上通院しなくてはならなかったのだから。
サトルの親との同居は気が重くはなかった。
が軽いともいえなかった。
長男は親と同居する、そんな時代でもないだろうとは思ったが、本人がずっと望んできたことにいちいち反対する理由もない。
実際に義両親は、人のことに関心をもって束縛しないではいられないほど、暇でもなかった。
サトルが幼い頃から成人するまでお店を営んでいて、共働きだったので、いろいろ苦労もあったのだろう。
近所の話を聞くことも多々あって、いろいろな揉め事も耳にした。
いろいろな人がいろいろなことを話すのをみて、物事を客観的に見ることに訓練された人たちだった。
賢い、良い人たちでもあった。
それでもやはり、進むにつれて存在は重たくなった。
彼らの人柄そのものではなく、こういう風にして欲しいと望む、その建て換えに求めることから生じる、サトル夫婦の居住場所への制約だった。
まず、サトルの親たちは、今まで住んでいた間取りを参考にしたので、いまどき滅多に作らない和室が、とても大きくなった。
和室だけで合わせると20畳ある。それでも以前の和室より狭いのだ。
参考にした家は義両親が建てたのではない。
サトルのおじいちゃんが、日本の景気のいい時代に建てたものなのだ。
しかし、この家は、いずれ人が少なくなる。
老いれば死に、子どもはいずれ巣立つ。
巣立ったものが戻ってくるかということには、子どもの伴侶にもよって予想もつかない。
三十路なかば過ぎ、今だ未婚のサトルの弟だって、結婚すればやはり一緒に住むことは考えないだろう。
すこし考え直したほうがいいのではないかと、サユリは話した。
「私たちが年取って二人になって、家の端から相方を呼んで、返事が聞こえないと思ったら死んでいた、なんて洒落にならないよ」
と洒落めかしても見た。
「呼んでる方も大声で心臓に負担がかかるかも」
サトルは胸を手で押さえて、うっという表情を作った。
洒落めかすと、サトルの反応はいいのだ。
今回は珍しく、すぐ答えが帰ってきた。
「オヤジが、葬式を出すときに、家から出して欲しいんだろうよ。じいちゃんもそうだったし。家から逝きたいんだよ」
サユリにはそれ以上何も言えなかった。飲み込まざるを得なかった。
彼らの望みなのだ。
それが。
(続く)
サトルの実家は、広い純然たる日本家屋の平屋で、二階をつくるという話は以前からあった。しかしすでに築50年、しかも現在の安全基準から見ると、柱が重さに耐えられない、と言われたらしい。
かといって増築するには、土地の問題があった。
市街地ならともかく、周辺に農地をたくさん抱えたこの地域は首都圏の食を賄う地域でもあるので調整区域となり、いちいち手続きが面倒なのだ。
家を建て替えること、それは嬉しかった。
ようやく落ち着けると思った。
母の世代がしていたようなレースや手芸のあふれた家を目指そうとは思わなかったけど、子供の作品を壁に飾るとき、躊躇することは少なくなると思った。
でも。
でも、なのだ。
その頃、サユリのおなかには、二人目の子どもが居た。
生まれてくる子どもの世話や、生まれた直後に小学校に上がる子どもがいることを考えると、気持ちはけして軽くはならなかった。
だから、もうすこし後でもいいですよと言ってもみた。
けれど、やっぱり勢いは止まらない。
勢いが出ると止まらないのは、運転と似ている、誰だって止めることは難しいのだな、と思った。
そういう自分だって「間に合わせ」を続けられなくなって引越ししたがったのだし。
もし、その引越しを止められていたら、神経症的なところはもっと酷くなっただろう。
事実、間に合わせから脱出した「安心」は副作用のように神経症の部分を表に出させて、サユリは1年以上通院しなくてはならなかったのだから。
サトルの親との同居は気が重くはなかった。
が軽いともいえなかった。
長男は親と同居する、そんな時代でもないだろうとは思ったが、本人がずっと望んできたことにいちいち反対する理由もない。
実際に義両親は、人のことに関心をもって束縛しないではいられないほど、暇でもなかった。
サトルが幼い頃から成人するまでお店を営んでいて、共働きだったので、いろいろ苦労もあったのだろう。
近所の話を聞くことも多々あって、いろいろな揉め事も耳にした。
いろいろな人がいろいろなことを話すのをみて、物事を客観的に見ることに訓練された人たちだった。
賢い、良い人たちでもあった。
それでもやはり、進むにつれて存在は重たくなった。
彼らの人柄そのものではなく、こういう風にして欲しいと望む、その建て換えに求めることから生じる、サトル夫婦の居住場所への制約だった。
まず、サトルの親たちは、今まで住んでいた間取りを参考にしたので、いまどき滅多に作らない和室が、とても大きくなった。
和室だけで合わせると20畳ある。それでも以前の和室より狭いのだ。
参考にした家は義両親が建てたのではない。
サトルのおじいちゃんが、日本の景気のいい時代に建てたものなのだ。
しかし、この家は、いずれ人が少なくなる。
老いれば死に、子どもはいずれ巣立つ。
巣立ったものが戻ってくるかということには、子どもの伴侶にもよって予想もつかない。
三十路なかば過ぎ、今だ未婚のサトルの弟だって、結婚すればやはり一緒に住むことは考えないだろう。
すこし考え直したほうがいいのではないかと、サユリは話した。
「私たちが年取って二人になって、家の端から相方を呼んで、返事が聞こえないと思ったら死んでいた、なんて洒落にならないよ」
と洒落めかしても見た。
「呼んでる方も大声で心臓に負担がかかるかも」
サトルは胸を手で押さえて、うっという表情を作った。
洒落めかすと、サトルの反応はいいのだ。
今回は珍しく、すぐ答えが帰ってきた。
「オヤジが、葬式を出すときに、家から出して欲しいんだろうよ。じいちゃんもそうだったし。家から逝きたいんだよ」
サユリにはそれ以上何も言えなかった。飲み込まざるを得なかった。
彼らの望みなのだ。
それが。
(続く)
2008年10月9日(木)
専守防衛(3)
物語×41
(続き)
実家に戻るという選択をサトルがしなかったので、サユリは部屋を探しはじめた。
一人で不動産に入って、条件を見、めぼしいところを選び、現物を見に行って、部屋の様子や使い勝手を見た。
駅から近いので、できるだけその場所から離れたくないとサトルが強く提案した部分は苦労したが、幸いに、今までのすまいの目と鼻の先、歩いて30秒ほどのところに、とても好ましい物件を見つけた。
部屋を見つけてみると、今更ながら、家具など全て間に合わせで、わくわくするような生活を夢見たような、ちゃんとした買い物さえしてこなかった事にサユリは気がついた。
毎日買い物に行かなくても良くなりたい、とか、食器が増えても片づけが楽になるようにしたい、とか、サトルの背広をちゃんとしまっておけるようにしたい、それが叶うことを考えるととても嬉しかった。
落ち着いて考えてみれば、それはサユリだけの勝手な理屈かもしれないと自責した。
だからサユリはまた動いた。
できるだけコストを押さえて、満足するためには、あちこちを探さなければならなかった。それは楽しいというより、苦しかった。
自分は何をやっているのだろう?
やめたほうがいいと誰かに言われているような気がする。
いや、これは本当は言われていて、それを自分が聞いていないだけなのではないだろうか。
でもやめれば、またイライラが募ることは目に見えている。
冷蔵庫と、食器棚と、洋服ダンスをサトルにことわった上でサユリは選び決断し、ようやく買い換えた。
それ以外は、相変わらず組み立て家具と一人暮らしの家電の生活だったが、間に合わせではなく、「まとも」な生活ができるような期待とそれに伴った安心感があった。
新しい住まいは今までと変わらない場所にあるようなものなので、相変わらずお店も近く、公園もあり、子どもの友達も多かった。
収納は押入れ二つ分あり、部屋もひとつ増えた。
また良心的な大家さんが持っていた所だったから、エアコンなどの備品をつけてくれたり、年数住んでいることでお礼を言われたり、原価償却を反映して家賃の引き下げをしてくれたりした。
その時が一番楽しかった。
サトルとサユリの間にも大きな揉め事はなく、柔らかくゆったりした時を過ごしていった。
それは当然長く続かなかった。
子どもが学校に上がる頃になって、将来的には転校させてもいいかな、と話した途端、サトルには何か感じるところがあったらしい。
ふってわいたように、家を建て替える話が持ち上がった。
なんだかわからない勢いがあった。
(続く)
実家に戻るという選択をサトルがしなかったので、サユリは部屋を探しはじめた。
一人で不動産に入って、条件を見、めぼしいところを選び、現物を見に行って、部屋の様子や使い勝手を見た。
駅から近いので、できるだけその場所から離れたくないとサトルが強く提案した部分は苦労したが、幸いに、今までのすまいの目と鼻の先、歩いて30秒ほどのところに、とても好ましい物件を見つけた。
部屋を見つけてみると、今更ながら、家具など全て間に合わせで、わくわくするような生活を夢見たような、ちゃんとした買い物さえしてこなかった事にサユリは気がついた。
毎日買い物に行かなくても良くなりたい、とか、食器が増えても片づけが楽になるようにしたい、とか、サトルの背広をちゃんとしまっておけるようにしたい、それが叶うことを考えるととても嬉しかった。
落ち着いて考えてみれば、それはサユリだけの勝手な理屈かもしれないと自責した。
だからサユリはまた動いた。
できるだけコストを押さえて、満足するためには、あちこちを探さなければならなかった。それは楽しいというより、苦しかった。
自分は何をやっているのだろう?
やめたほうがいいと誰かに言われているような気がする。
いや、これは本当は言われていて、それを自分が聞いていないだけなのではないだろうか。
でもやめれば、またイライラが募ることは目に見えている。
冷蔵庫と、食器棚と、洋服ダンスをサトルにことわった上でサユリは選び決断し、ようやく買い換えた。
それ以外は、相変わらず組み立て家具と一人暮らしの家電の生活だったが、間に合わせではなく、「まとも」な生活ができるような期待とそれに伴った安心感があった。
新しい住まいは今までと変わらない場所にあるようなものなので、相変わらずお店も近く、公園もあり、子どもの友達も多かった。
収納は押入れ二つ分あり、部屋もひとつ増えた。
また良心的な大家さんが持っていた所だったから、エアコンなどの備品をつけてくれたり、年数住んでいることでお礼を言われたり、原価償却を反映して家賃の引き下げをしてくれたりした。
その時が一番楽しかった。
サトルとサユリの間にも大きな揉め事はなく、柔らかくゆったりした時を過ごしていった。
それは当然長く続かなかった。
子どもが学校に上がる頃になって、将来的には転校させてもいいかな、と話した途端、サトルには何か感じるところがあったらしい。
ふってわいたように、家を建て替える話が持ち上がった。
なんだかわからない勢いがあった。
(続く)
2008年10月8日(水)
専守防衛(2)
物語×41
(続き)
サトルとサユリが結婚するときから、サトルは、いずれは実家に戻って生活をするとサユリに宣言した。
今住もうとしている部屋に、新しい家具を入れると引越しのときに厄介になる。そんな思いから、組み立て家具を選び求め、食器も100円均一で間に合わせ、寝具だってお互いが持ち寄ったもので暮らすという感じだった。
それでも、生活をするにはいろいろな家具が居る。
電化製品は、ひとりで暮らしていたサユリのものを引き継いで使った。
それでも、コタツの存在がサユリとサトルで食い違った。
サユリは、コタツに入って温まった体験が少ないものだから、そもそも必要などないと思っていた。もし用意しても、部屋の大きさに合わせたものでいいと思った。
だけれど、サトルは自分の体格の良さから考えて大きめのものを欲しがった。
幼い頃から冬はコタツ、となっていたサトルは、やはりその中でほんわかと休んだり眠ったりしたいのだった。
2時間電車を乗り継ぎ、朝早くから夜も早くない時間まで働く夫。
だから、とサユリは簡単に折れた。
良妻ぶってみたかったのかもしれない。
「2~3年の間には俺の実家に戻るから」
そんなことをサトルから呪文のように繰り返され、そうね、とサユリはそのたびにうなづいた。
しかし。
子どもが生まれても、
幼稚園に入る年を迎えても、
あれだけの宣言をしながらも、サトルは一向に戻る様子を見せなかった。
その間中、ずっとサユリはモノを片付けるのに閉口していた。
はじめに二人が住んだところは、間に合わせが前面に出すぎ、子どもがいる夫婦には狭すぎた。
3つの部屋に対して、押入れがひとつしか無いので、部屋のひとつは、プラスチックの収納ケースが積み上げられた。
間に合わせだからと腰までの高さしか無い食器棚からは、また間に合わせの少ない食器もあふれ始めた。
一人時代から引き継いだ小さな冷蔵庫には、子どもの好きなジュースも、みんなで飲む麦茶も、少ししか入れられなかった。
一日分の食材が入ってしまうと、いっぱいいっぱいになって、毎日買い物に行かなければならなかった。
でも、それでもよかった。
だってこれは間に合わせなのだから。
電化製品は、買い替えも考えていた。
だけれど、「戻る」といわれてしまうと、買い替えは余計な出費になってしまうと思うサユリはそれ以上言い出せなかった。
新しいところに行けば、また新しいものを買いたくなってしまうかもしれない。
それはずいぶんな贅沢だとサユリは思った。
「足らぬ、足らぬは工夫が足らぬ」。
そう自分に言い聞かせ続けた。
子どもが大きくなるにつれ、おもちゃや服が増えてきた。
畳の上に布団を敷いているので、寝る場所にも困るときがある。ベッドを用意することも考えたけれど、またそれには「引越し」と言う、うっとうしい言葉がついて回った。
幼稚園に入ると、通園服や幼稚園の備品などで、さらにモノが増えてきた。
子どもの友達だって遊びに来る。
子どもだけではなく、お母さんが一緒のこともある。
片付けても、片付けても、片付かない。
子どもが散らかしては、整頓し、服を汚しては着替えさせ洗濯し、毎日片付けることに心を吸い取られた。
家事は嫌いではないといっても、気の休まるときが無かった。
子どもにアトピーがあるとわかって、出来るだけ部屋を片付けてほこりを払っておかなければならないと神経症気味になった。
とうとう、その状態を耐えられなくなり、子どもが居るには狭すぎるそこから引っ越すことを、サトルに提案した。
「実家に戻るなら、早くしたい。ここではちょっと狭すぎるの。押入れがひとつしか無いのに、布団をしまってしまうと何もいれられないの。今までは子供が小さかったから、それでもよかったけれど、もうすこし片付けて心持ちさっぱりして過ごしたい。」
サトルは賛成とも反対ともつかぬようだった。
実家には実家の都合もあると暗に言われた。
かといって、一旦動いた心はもう留まらなかったし、留めることも出来なかった。
(続く)
サトルとサユリが結婚するときから、サトルは、いずれは実家に戻って生活をするとサユリに宣言した。
今住もうとしている部屋に、新しい家具を入れると引越しのときに厄介になる。そんな思いから、組み立て家具を選び求め、食器も100円均一で間に合わせ、寝具だってお互いが持ち寄ったもので暮らすという感じだった。
それでも、生活をするにはいろいろな家具が居る。
電化製品は、ひとりで暮らしていたサユリのものを引き継いで使った。
それでも、コタツの存在がサユリとサトルで食い違った。
サユリは、コタツに入って温まった体験が少ないものだから、そもそも必要などないと思っていた。もし用意しても、部屋の大きさに合わせたものでいいと思った。
だけれど、サトルは自分の体格の良さから考えて大きめのものを欲しがった。
幼い頃から冬はコタツ、となっていたサトルは、やはりその中でほんわかと休んだり眠ったりしたいのだった。
2時間電車を乗り継ぎ、朝早くから夜も早くない時間まで働く夫。
だから、とサユリは簡単に折れた。
良妻ぶってみたかったのかもしれない。
「2~3年の間には俺の実家に戻るから」
そんなことをサトルから呪文のように繰り返され、そうね、とサユリはそのたびにうなづいた。
しかし。
子どもが生まれても、
幼稚園に入る年を迎えても、
あれだけの宣言をしながらも、サトルは一向に戻る様子を見せなかった。
その間中、ずっとサユリはモノを片付けるのに閉口していた。
はじめに二人が住んだところは、間に合わせが前面に出すぎ、子どもがいる夫婦には狭すぎた。
3つの部屋に対して、押入れがひとつしか無いので、部屋のひとつは、プラスチックの収納ケースが積み上げられた。
間に合わせだからと腰までの高さしか無い食器棚からは、また間に合わせの少ない食器もあふれ始めた。
一人時代から引き継いだ小さな冷蔵庫には、子どもの好きなジュースも、みんなで飲む麦茶も、少ししか入れられなかった。
一日分の食材が入ってしまうと、いっぱいいっぱいになって、毎日買い物に行かなければならなかった。
でも、それでもよかった。
だってこれは間に合わせなのだから。
電化製品は、買い替えも考えていた。
だけれど、「戻る」といわれてしまうと、買い替えは余計な出費になってしまうと思うサユリはそれ以上言い出せなかった。
新しいところに行けば、また新しいものを買いたくなってしまうかもしれない。
それはずいぶんな贅沢だとサユリは思った。
「足らぬ、足らぬは工夫が足らぬ」。
そう自分に言い聞かせ続けた。
子どもが大きくなるにつれ、おもちゃや服が増えてきた。
畳の上に布団を敷いているので、寝る場所にも困るときがある。ベッドを用意することも考えたけれど、またそれには「引越し」と言う、うっとうしい言葉がついて回った。
幼稚園に入ると、通園服や幼稚園の備品などで、さらにモノが増えてきた。
子どもの友達だって遊びに来る。
子どもだけではなく、お母さんが一緒のこともある。
片付けても、片付けても、片付かない。
子どもが散らかしては、整頓し、服を汚しては着替えさせ洗濯し、毎日片付けることに心を吸い取られた。
家事は嫌いではないといっても、気の休まるときが無かった。
子どもにアトピーがあるとわかって、出来るだけ部屋を片付けてほこりを払っておかなければならないと神経症気味になった。
とうとう、その状態を耐えられなくなり、子どもが居るには狭すぎるそこから引っ越すことを、サトルに提案した。
「実家に戻るなら、早くしたい。ここではちょっと狭すぎるの。押入れがひとつしか無いのに、布団をしまってしまうと何もいれられないの。今までは子供が小さかったから、それでもよかったけれど、もうすこし片付けて心持ちさっぱりして過ごしたい。」
サトルは賛成とも反対ともつかぬようだった。
実家には実家の都合もあると暗に言われた。
かといって、一旦動いた心はもう留まらなかったし、留めることも出来なかった。
(続く)
2008年10月8日(水)
専守防衛(1)
物語×41
“ | 長いので、分割してアップします。 ご了承ください。 |
どんな意味かはよくわからない。
13歳のサユリは、はじめて見る、その文字の持つ意味は何だろうと興味を持った。
聞けば、それはある組織の方針、らしい。
モッパラ防衛ヲ守ルということなのだろうか。
なんだか意味がつかめなくて、本棚から辞書を取り出して防衛の意味を調べた。
防衛-他からの危害(侵入・奪取)を防ぎ守ること。
じゃあ、専守防衛は、
「モッパラ他カラノ侵入・奪取ヲ防ギ守ル事ヲ守ル」
となって、守る事を守る、二重の意味になるのかな、と思わず苦笑した。
そこまでして守るものってなんだろうと思いながら、サユリはそんなこと、自分に関係ないと忘れて大きくなっていった。
その文字を次に見たのは、結婚してまもなくだった。
バブルがはじけ―それはバブルという名前の好景気の状態の終焉である―しばらく後に、関西で大きな大きな地震があった。
500キロメートル離れた東まで、その大きな凄まじい力を放出した揺れが届き、太陽も昇らないうちから、サユリは目覚めた。
部屋を見渡し、何事もなかったとそのまま二度寝をして、ようやく床から出てニュースを見るためテレビをつけたら、それがのちに阪神・淡路大震災と呼ばれる、大きな地震だと知った。
高速道路が破壊され、今にも落ちそうなバスの映像が繰り返し流された。
朝早くから工場を動かしている地域では、壁や天井が崩れて下敷きになった多くの人が救出を待っている間に、火に囲まれ亡くなったという、無残なニュースもあった。
何度も繰り返される破壊された映像を見て、サトルは言った。
「なんで自衛隊を派遣しないんだろうね、こういうときのためにあるのに」
「ええ?そうなの?」
「そうだよ?なんで?」
「私が居たところでは、そんな感じじゃなかった・・・。」
「じゃあ、どうだった?」
「学生のころ先輩から聞いたのは、ソ連がもし攻めてくるとしたら、上陸できる地域は一箇所しかないんだって、だからそこを守るためにあるって聞いた」
ソ連などとうにない。
「出動は総理大臣が決めるからね、これは責任を問われるだろうな。」
眉毛が白くて長い、それ以外はどんな政策をしたのかわからない、温厚そうな総理大臣がテレビに映って、サトルは話の矛先を変えた。
サユリは何も言えなかった。
サユリが聞いたことと、サトルが聞いていたことは違う、それだけがわかった。
サトルの親と同居するために50年以上経過した家を建て替え、5年経った。
「もういやだ・・・。なんでこんなに我慢しなくちゃいけないの?」
その言葉をつぶやくと、それまで我慢していた何かがまるであふれるように、サユリは、感情が高まるに任せて、人の声とは思えないような声を出し、さらに叫んだ。
(続く)
13歳のサユリは、はじめて見る、その文字の持つ意味は何だろうと興味を持った。
聞けば、それはある組織の方針、らしい。
モッパラ防衛ヲ守ルということなのだろうか。
なんだか意味がつかめなくて、本棚から辞書を取り出して防衛の意味を調べた。
防衛-他からの危害(侵入・奪取)を防ぎ守ること。
じゃあ、専守防衛は、
「モッパラ他カラノ侵入・奪取ヲ防ギ守ル事ヲ守ル」
となって、守る事を守る、二重の意味になるのかな、と思わず苦笑した。
そこまでして守るものってなんだろうと思いながら、サユリはそんなこと、自分に関係ないと忘れて大きくなっていった。
その文字を次に見たのは、結婚してまもなくだった。
バブルがはじけ―それはバブルという名前の好景気の状態の終焉である―しばらく後に、関西で大きな大きな地震があった。
500キロメートル離れた東まで、その大きな凄まじい力を放出した揺れが届き、太陽も昇らないうちから、サユリは目覚めた。
部屋を見渡し、何事もなかったとそのまま二度寝をして、ようやく床から出てニュースを見るためテレビをつけたら、それがのちに阪神・淡路大震災と呼ばれる、大きな地震だと知った。
高速道路が破壊され、今にも落ちそうなバスの映像が繰り返し流された。
朝早くから工場を動かしている地域では、壁や天井が崩れて下敷きになった多くの人が救出を待っている間に、火に囲まれ亡くなったという、無残なニュースもあった。
何度も繰り返される破壊された映像を見て、サトルは言った。
「なんで自衛隊を派遣しないんだろうね、こういうときのためにあるのに」
「ええ?そうなの?」
「そうだよ?なんで?」
「私が居たところでは、そんな感じじゃなかった・・・。」
「じゃあ、どうだった?」
「学生のころ先輩から聞いたのは、ソ連がもし攻めてくるとしたら、上陸できる地域は一箇所しかないんだって、だからそこを守るためにあるって聞いた」
ソ連などとうにない。
「出動は総理大臣が決めるからね、これは責任を問われるだろうな。」
眉毛が白くて長い、それ以外はどんな政策をしたのかわからない、温厚そうな総理大臣がテレビに映って、サトルは話の矛先を変えた。
サユリは何も言えなかった。
サユリが聞いたことと、サトルが聞いていたことは違う、それだけがわかった。
サトルの親と同居するために50年以上経過した家を建て替え、5年経った。
「もういやだ・・・。なんでこんなに我慢しなくちゃいけないの?」
その言葉をつぶやくと、それまで我慢していた何かがまるであふれるように、サユリは、感情が高まるに任せて、人の声とは思えないような声を出し、さらに叫んだ。
(続く)
2008年9月26日(金)
運動会(3)
物語×41
「来年一年生の皆さん~、並んでくださいね~、次、みんなで順番に走りますよ~」
児童に接するよりずっとソフトな感じで学校の先生が子ども達を呼び、タケルもユートも跳ねるように立ち上がって列に加わった。
「5人ずつ並んでくださいね」
先生が背中を軽く押して促しながら子ども達を並ばせ、隣の子どもと手をつながせる。
タケルとユートの並んだ列は、見事に同じ幼稚園の子ども達ばかりだ。
「あー、リクも一緒ね。」そこを見て思わず苦笑した。
リクのお母さん、カナがこっちに手を振っていた。
リクは近所の子で同じ幼稚園に通っている。
お兄ちゃんがいるために揉まれて、かけっこがとびきり早い。体も大きく、大きいといわれるタケルから見てもずっと大きい。
そんなリクが、親から離れて地面にちょこんとしゃがむ姿はやっぱり幼児で、タケルもユートも一緒だ。
小学生とは何か違う幼さがあふれているように感じる。
10列以上の子ども達が並び、いつもと違う学校の先生に連れられ、グラウンドの中央に着いたころ、リカはぽそりと漏らした。
「やっぱり、ユートがあの中でも一番小さいかなぁ」
「え?」
「なんか、ユートは小さくて、ちゃんと大きくなるのかなって」
そういわれて見ると、タケルやリクより頭半分くらい小さい。
でも男の子は小さいといわれても、小さい女の子よりずっと背が高くなるものだ。
ミサは今は小さいといわれるけれど、小さい頃は誰よりも大きかった。育つ速度が子どもによって違うから、子どもの身長は当てにならないと思っている。
だから気休めでなく、言った。
「男の子はこれからだよ、今小さくても、伸びるときがあるみたいに思うよ。」
「そうかなあ、なんか不安で」
「身長、お父さんに似るっているよ。それから考えてみたら?」
ミサは笑って言った。
子どもは母親だけで出来るものではないから。
ちょっと間があった。
子供たちのほうを見たまま、リカは言った。
「あー・・・忘れちゃったな」
「え?」
「ウチ、シングルマザーなんすよ。どうもそういう風には見えないらしく明るいらしいんですけど。」
その後、ミサはどんな質問をしたのか覚えていない。
でもリカが一方的にはなしたことは覚えている。
リカは二股をかけられていたこと、相手は夫の会社にいること、
リカが妊娠している間もリカの夫は浮気をしていたこと、
子どもが生まれると家に寄り付かなくなったこと、
家に戻ってきたらDVが始まったこと。
リカが弾丸のように早口でまくし立てて、それが痕として残っただけかもしれない。
けれど、その痕はミサが感じるよりずっと深いところに刺さったらしい。
まるで、リカが観念したかのような口ぶりだったせいもあるかもしれない。
「11ヶ月くらいのとき、ユートが笑わなくなっちゃったんですよ。それで、あ、これはもうダメだって」
その言葉は覚えているのに、前後の流れすら覚えていない。
リカが家出をしたのか、夫と話し合ってきたのかもわからない。
ただ、リカの仕事は、都会では需要があって忙しいから切れることもない、だからなんとかやっていける、と。
確かにその仕事は―声を当てること―は都会ならではの仕事かもしれない。
「あれだけ笑わなくて心配していたけど、ユートは今一番笑うから」
リカは子ども達がつれられていった場所に目をやった。
遠くから、スタートのホイッスルが聞こえるたび、さっき並ばされた5人の子ども達が順序良く駆け出していく。
勢いよく飛び出す子。
その場で一度地団太を踏んで確かめるように走っていく子。
まだヨーイの格好で周囲の様子から慌てて走る子。
先に走る子どもを見て、たちつくし、慌てて6年生に手を引かれていく子。
親と一緒に走る子。
走るのがいやで抱きかかえられていく子。
そういえば、6年前、ヒメカは走るのがいやで並びさえもしなかった。
ミサは、喜び勇んでかけていくタケルに、ヒメカと違うと思って苦笑した。
リカは走るユートを目で追って応援を送っている。
30人足らずの子ども達が走る短い時間の中でも、子ども達の様子はひとりひとり違っている。そこに居合わせたのは学校に通う児童、これから通うことになる児童、学校の先生、子ども達の親・・・。
田舎から、より田舎に出てきたのんきな母親もいれば、都会に憧れてそこで酷い目にあった母親もいるし、ただその場に居合わせただけの母親もいた。
そこに、誰一人として同じ生き方をしていない一同が集まって、一様に自分の子供達を応援し、汗をかいている。
声援と競技を終えるアナウンスが流れ、タケルたちの活躍は終わり、次の競技の選手が入っていった。
太陽のじりじりとした暑さだけが、さっきと変わらないで、そのままだった。
(終)
児童に接するよりずっとソフトな感じで学校の先生が子ども達を呼び、タケルもユートも跳ねるように立ち上がって列に加わった。
「5人ずつ並んでくださいね」
先生が背中を軽く押して促しながら子ども達を並ばせ、隣の子どもと手をつながせる。
タケルとユートの並んだ列は、見事に同じ幼稚園の子ども達ばかりだ。
「あー、リクも一緒ね。」そこを見て思わず苦笑した。
リクのお母さん、カナがこっちに手を振っていた。
リクは近所の子で同じ幼稚園に通っている。
お兄ちゃんがいるために揉まれて、かけっこがとびきり早い。体も大きく、大きいといわれるタケルから見てもずっと大きい。
そんなリクが、親から離れて地面にちょこんとしゃがむ姿はやっぱり幼児で、タケルもユートも一緒だ。
小学生とは何か違う幼さがあふれているように感じる。
10列以上の子ども達が並び、いつもと違う学校の先生に連れられ、グラウンドの中央に着いたころ、リカはぽそりと漏らした。
「やっぱり、ユートがあの中でも一番小さいかなぁ」
「え?」
「なんか、ユートは小さくて、ちゃんと大きくなるのかなって」
そういわれて見ると、タケルやリクより頭半分くらい小さい。
でも男の子は小さいといわれても、小さい女の子よりずっと背が高くなるものだ。
ミサは今は小さいといわれるけれど、小さい頃は誰よりも大きかった。育つ速度が子どもによって違うから、子どもの身長は当てにならないと思っている。
だから気休めでなく、言った。
「男の子はこれからだよ、今小さくても、伸びるときがあるみたいに思うよ。」
「そうかなあ、なんか不安で」
「身長、お父さんに似るっているよ。それから考えてみたら?」
ミサは笑って言った。
子どもは母親だけで出来るものではないから。
ちょっと間があった。
子供たちのほうを見たまま、リカは言った。
「あー・・・忘れちゃったな」
「え?」
「ウチ、シングルマザーなんすよ。どうもそういう風には見えないらしく明るいらしいんですけど。」
その後、ミサはどんな質問をしたのか覚えていない。
でもリカが一方的にはなしたことは覚えている。
リカは二股をかけられていたこと、相手は夫の会社にいること、
リカが妊娠している間もリカの夫は浮気をしていたこと、
子どもが生まれると家に寄り付かなくなったこと、
家に戻ってきたらDVが始まったこと。
リカが弾丸のように早口でまくし立てて、それが痕として残っただけかもしれない。
けれど、その痕はミサが感じるよりずっと深いところに刺さったらしい。
まるで、リカが観念したかのような口ぶりだったせいもあるかもしれない。
「11ヶ月くらいのとき、ユートが笑わなくなっちゃったんですよ。それで、あ、これはもうダメだって」
その言葉は覚えているのに、前後の流れすら覚えていない。
リカが家出をしたのか、夫と話し合ってきたのかもわからない。
ただ、リカの仕事は、都会では需要があって忙しいから切れることもない、だからなんとかやっていける、と。
確かにその仕事は―声を当てること―は都会ならではの仕事かもしれない。
「あれだけ笑わなくて心配していたけど、ユートは今一番笑うから」
リカは子ども達がつれられていった場所に目をやった。
遠くから、スタートのホイッスルが聞こえるたび、さっき並ばされた5人の子ども達が順序良く駆け出していく。
勢いよく飛び出す子。
その場で一度地団太を踏んで確かめるように走っていく子。
まだヨーイの格好で周囲の様子から慌てて走る子。
先に走る子どもを見て、たちつくし、慌てて6年生に手を引かれていく子。
親と一緒に走る子。
走るのがいやで抱きかかえられていく子。
そういえば、6年前、ヒメカは走るのがいやで並びさえもしなかった。
ミサは、喜び勇んでかけていくタケルに、ヒメカと違うと思って苦笑した。
リカは走るユートを目で追って応援を送っている。
30人足らずの子ども達が走る短い時間の中でも、子ども達の様子はひとりひとり違っている。そこに居合わせたのは学校に通う児童、これから通うことになる児童、学校の先生、子ども達の親・・・。
田舎から、より田舎に出てきたのんきな母親もいれば、都会に憧れてそこで酷い目にあった母親もいるし、ただその場に居合わせただけの母親もいた。
そこに、誰一人として同じ生き方をしていない一同が集まって、一様に自分の子供達を応援し、汗をかいている。
声援と競技を終えるアナウンスが流れ、タケルたちの活躍は終わり、次の競技の選手が入っていった。
太陽のじりじりとした暑さだけが、さっきと変わらないで、そのままだった。
(終)