2011年11月6日(日)
横浜のシンボルが手ごろなサイズに・・『氷川丸』のはなし・・
ホビー×69
本日はホビーコーナーから店長担当ふねネタブログです。
現在横浜港山下埠頭に保存展示されている客船、『氷川丸』の新発売プラモデルキットとあわせてその経歴をお話してみます。
紹介キットは、先月末ハセガワから発売された1/350スケール『氷川丸』の組み立てキットです。
従来から発売されていた1/700キットはその小さなスケールだけに細部のつくりはもとより洋上模型のため喫水線下の作りこみはされていなかった点から、サイズ、細かい作りこみともに、机の上で組み立てるには、ボリュームもそこそこで大きすぎもしない、まさにお手ごろの満足サイズになりました。後付アフターパーツを組み込むと、これもまたミュージアムクオリティー(博物館展示品質)の作品に仕上がります。
さて、模型の宣伝は置いておいて、話を実際の『氷川丸』に戻してみましょう。
先月、奇跡の船、としてドラマ『南極大陸』でおなじみの南極観測船『宗谷』についてお話しましたが、この客船『氷川丸』もまた太平洋戦争を奇跡的に生き残った客船として、強運に恵まれた船といっても良いでしょう。
客船『氷川丸』は1930年、日本郵船が日本とシアトル(アメリカ西海岸)を結ぶ航路を担う客船として運行を始めた、長距離客船です。
処女航海は1930年5月まだ第二次大戦にむかう前で、友好的だった両国、最初の航海で『氷川丸』がシアトルに入港した際には多くの市民に盛大に歓迎され、3万人がこの船に見学に訪れたそうです。
船の大きさもさることながら豪華さなどもは世界の有名どころの豪華客船に比べればさほど際立った性能を持ち合わせた船ではありませんでしたが、タイタニック事故以来、しきりに叫ばれるようになった安全基準も水密区画構造を取り入れた安全面で優れた船でした。
一言で言うと二流の船ではありましたが、この船は特に外国人に密かな支持を得ていました。
その理由の一つが船内でのサービス。初代の船長・秋吉七郎が船内スタッフに強いた厳格な船内規律は、後に『軍艦氷川』と称されるほどで、徹底した作法で、船客をもてなしました。
船内の装飾に、アールデコ様式を取り入れた船内は落ち着きがあり、そこに日本流のサービスが取り入れられた事により、日本を訪れた外国人は帰りには必ず『氷川丸』を選ぶ、という旅のスタイルもできていたようです。
あのチャーリー・チャップリンも来日後の帰路でこの船を選んだ事も大変有名です。
この間、数々の有名人を乗せて太平洋を横断しました。
1941年太平洋戦争の暗雲が立ち込めはじめ、『氷川丸』のシアトル航路は閉鎖、開戦目前引き揚げ船として、在日アメリカ人を祖国に届け帰りに在米日本人を引き揚げさせました。
休むまもなくその年の秋には海軍に病院船として徴用され、南太平洋の戦争海域へ派遣されました。
病院船への改造で白く塗られた船体に赤十字のマークが入れられ、夜はそれらが電飾で鮮やかに輝くという姿に。
戦時に意外なこの美しさから、この姿の『氷川丸』は兵士達から『白鳥』と呼ばれていたそうです。
大型商船が戦禍を被って次々と沈んでいく中、傷病者の保護のみを目的とした病院船は、ジュネーブ条約で保護されていたため、取り決めで敵に攻撃されることはありませんでした。しかし機雷などの漂流する兵器との接触は避ける事はできず、病院船でさえ多くが沈没し時には多くの犠牲者を出しました。
『氷川丸』も例外なく機雷に触雷したのでした。しかし三度の触雷にも関われず、奇跡的に沈没を免れ終戦を迎えたのです。
1945年終戦を迎えた氷川丸は、すぐに復員船として戦地から本土へと戦地で耐え忍んだ多くの復員兵に祖国の地を踏ませたのでした。
1947年からは、北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪間の戦争を生き残った数少ない商船として物資・旅客輸送に貢献しました。
1949年からは不定期の外国航路に、1951年にはもとのシアトル航路に復帰、航空輸送が一般化する1960年まで貨客船として日米間の重要な輸送力として活躍しました。
その後現在の場所に係船され、一般に公開され、2006年からは元の持ち主である日本郵船に管理される事となり、同社は『氷川丸』の修繕に10億の巨費を投じて現在に至ります。
横浜市有形指定文化財に指定され下記リンクの内容で公開されています。
日本郵船『氷川丸』ホームページ
こちらがキット内容。船体他プラモデルパーツの他に『氷川丸』の船体図ポスターも入っています。
横浜に係船されている姿から想像できる喫水線下(水に浸かった見えない部分)も継ぎ合わせた板の接合面まで細かく再現されており、仕上がる作品には高級感が漂います。
現代の最新の金型技術で作り上げられたプラモデルキットはいかに実物に近いものに仕上がるかが勝負どころですが、このキットもまた素晴らしい出来栄えです。
前述の南極観測船『宗谷』よりも歳を重ねた、『氷川丸』は81歳」まだまだ、横浜の海で人々のの思いに刻まれ続けています。その『氷川丸』をパーツを組み立てながら彼女(氷川丸)が歩んだ時代の流れに思いを寄せるのも一つの時間の使い方かもしれませんね。
『氷川丸』を運行した日本郵船では現在、客船部門(郵船クルーズ)で『飛鳥Ⅱ』という豪華クルーズ客船を運航していますが、『氷川丸』当時からの伝統を受け継いだサービスで各クルーズ満室の人気ぶりです。
その『飛鳥Ⅱ』には現在も『氷川丸』当時と同じ「二引の旗」(日本郵船の社旗)がはためいています。
これから冬に向かい家の中で過ごす時間も増えますが、そんな季節に、この『氷川丸』キット・・オススメです。
1/350 ハセガワ 日本郵船 『氷川丸』 定価¥10,290
手すり・木甲板他、アフターパーツも揃っています。
1/350スケールでは大きすぎるという方には・・
1/700 ハセガワ 日本郵船 『氷川丸』 定価¥1,260 も発売中です。
今日は、先月末発売の、『氷川丸』プラモデルキット紹介から、氷川丸の生い立ちについてちょっと書いてみました。
『氷川丸』・・総トン数11,622トン 全長163.3m 最高速力18.2ノット
船の模型と海雑貨・・STAR SHIP MODELS
店舗情報はこちら→http://www.obnv.com/interior/475
現在横浜港山下埠頭に保存展示されている客船、『氷川丸』の新発売プラモデルキットとあわせてその経歴をお話してみます。
紹介キットは、先月末ハセガワから発売された1/350スケール『氷川丸』の組み立てキットです。
従来から発売されていた1/700キットはその小さなスケールだけに細部のつくりはもとより洋上模型のため喫水線下の作りこみはされていなかった点から、サイズ、細かい作りこみともに、机の上で組み立てるには、ボリュームもそこそこで大きすぎもしない、まさにお手ごろの満足サイズになりました。後付アフターパーツを組み込むと、これもまたミュージアムクオリティー(博物館展示品質)の作品に仕上がります。
さて、模型の宣伝は置いておいて、話を実際の『氷川丸』に戻してみましょう。
先月、奇跡の船、としてドラマ『南極大陸』でおなじみの南極観測船『宗谷』についてお話しましたが、この客船『氷川丸』もまた太平洋戦争を奇跡的に生き残った客船として、強運に恵まれた船といっても良いでしょう。
客船『氷川丸』は1930年、日本郵船が日本とシアトル(アメリカ西海岸)を結ぶ航路を担う客船として運行を始めた、長距離客船です。
処女航海は1930年5月まだ第二次大戦にむかう前で、友好的だった両国、最初の航海で『氷川丸』がシアトルに入港した際には多くの市民に盛大に歓迎され、3万人がこの船に見学に訪れたそうです。
船の大きさもさることながら豪華さなどもは世界の有名どころの豪華客船に比べればさほど際立った性能を持ち合わせた船ではありませんでしたが、タイタニック事故以来、しきりに叫ばれるようになった安全基準も水密区画構造を取り入れた安全面で優れた船でした。
一言で言うと二流の船ではありましたが、この船は特に外国人に密かな支持を得ていました。
その理由の一つが船内でのサービス。初代の船長・秋吉七郎が船内スタッフに強いた厳格な船内規律は、後に『軍艦氷川』と称されるほどで、徹底した作法で、船客をもてなしました。
船内の装飾に、アールデコ様式を取り入れた船内は落ち着きがあり、そこに日本流のサービスが取り入れられた事により、日本を訪れた外国人は帰りには必ず『氷川丸』を選ぶ、という旅のスタイルもできていたようです。
あのチャーリー・チャップリンも来日後の帰路でこの船を選んだ事も大変有名です。
この間、数々の有名人を乗せて太平洋を横断しました。
1941年太平洋戦争の暗雲が立ち込めはじめ、『氷川丸』のシアトル航路は閉鎖、開戦目前引き揚げ船として、在日アメリカ人を祖国に届け帰りに在米日本人を引き揚げさせました。
休むまもなくその年の秋には海軍に病院船として徴用され、南太平洋の戦争海域へ派遣されました。
病院船への改造で白く塗られた船体に赤十字のマークが入れられ、夜はそれらが電飾で鮮やかに輝くという姿に。
戦時に意外なこの美しさから、この姿の『氷川丸』は兵士達から『白鳥』と呼ばれていたそうです。
大型商船が戦禍を被って次々と沈んでいく中、傷病者の保護のみを目的とした病院船は、ジュネーブ条約で保護されていたため、取り決めで敵に攻撃されることはありませんでした。しかし機雷などの漂流する兵器との接触は避ける事はできず、病院船でさえ多くが沈没し時には多くの犠牲者を出しました。
『氷川丸』も例外なく機雷に触雷したのでした。しかし三度の触雷にも関われず、奇跡的に沈没を免れ終戦を迎えたのです。
1945年終戦を迎えた氷川丸は、すぐに復員船として戦地から本土へと戦地で耐え忍んだ多くの復員兵に祖国の地を踏ませたのでした。
1947年からは、北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪間の戦争を生き残った数少ない商船として物資・旅客輸送に貢献しました。
1949年からは不定期の外国航路に、1951年にはもとのシアトル航路に復帰、航空輸送が一般化する1960年まで貨客船として日米間の重要な輸送力として活躍しました。
その後現在の場所に係船され、一般に公開され、2006年からは元の持ち主である日本郵船に管理される事となり、同社は『氷川丸』の修繕に10億の巨費を投じて現在に至ります。
横浜市有形指定文化財に指定され下記リンクの内容で公開されています。
日本郵船『氷川丸』ホームページ
こちらがキット内容。船体他プラモデルパーツの他に『氷川丸』の船体図ポスターも入っています。
横浜に係船されている姿から想像できる喫水線下(水に浸かった見えない部分)も継ぎ合わせた板の接合面まで細かく再現されており、仕上がる作品には高級感が漂います。
現代の最新の金型技術で作り上げられたプラモデルキットはいかに実物に近いものに仕上がるかが勝負どころですが、このキットもまた素晴らしい出来栄えです。
前述の南極観測船『宗谷』よりも歳を重ねた、『氷川丸』は81歳」まだまだ、横浜の海で人々のの思いに刻まれ続けています。その『氷川丸』をパーツを組み立てながら彼女(氷川丸)が歩んだ時代の流れに思いを寄せるのも一つの時間の使い方かもしれませんね。
『氷川丸』を運行した日本郵船では現在、客船部門(郵船クルーズ)で『飛鳥Ⅱ』という豪華クルーズ客船を運航していますが、『氷川丸』当時からの伝統を受け継いだサービスで各クルーズ満室の人気ぶりです。
その『飛鳥Ⅱ』には現在も『氷川丸』当時と同じ「二引の旗」(日本郵船の社旗)がはためいています。
これから冬に向かい家の中で過ごす時間も増えますが、そんな季節に、この『氷川丸』キット・・オススメです。
1/350 ハセガワ 日本郵船 『氷川丸』 定価¥10,290
手すり・木甲板他、アフターパーツも揃っています。
1/350スケールでは大きすぎるという方には・・
1/700 ハセガワ 日本郵船 『氷川丸』 定価¥1,260 も発売中です。
今日は、先月末発売の、『氷川丸』プラモデルキット紹介から、氷川丸の生い立ちについてちょっと書いてみました。
『氷川丸』・・総トン数11,622トン 全長163.3m 最高速力18.2ノット
船の模型と海雑貨・・STAR SHIP MODELS
店舗情報はこちら→http://www.obnv.com/interior/475
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