2012年3月17日(土)
タイタニックを作った男
海・船ネタ記事×64
今年処女航海100年を迎えるタイタニック号の特集。今日は、タイタニック号の設計を指揮したトーマス・アンドリュースという造船技師の存在についてお話してみます。
トーマス・アンドリュースは、あのタイタニック号を、大西洋横断の速度競争に参加させるものにこそ仕立て上げませんでしたが、経済性・居住快適性など船会社の要求を当時の技術を結集して世界を驚かせる存在に作り上げました。彼はその中心人物なのです。
トーマス・アンドリュースは1873年、北アイルランドの名家に生まれました。
父は政治家、タイタニック号が作られたハーランド&ウルフ造船所の会長を叔父に持ち、父も同じ名を持つため、彼の名は、正しくはトーマス・アンドリュースJrとなります。
16歳でハーランド&ウルフ造船所に入社した彼は、見習い工として現場を経験、この間に多くの技術は勿論、人間どうしのコミュニケーション能力も身につけ、現場を動かすノウハウを身につけました。
その環境は彼の人間性をも育て、作業員思いの周囲からも慕われる存在に育て上げました。。
その間、タイタニック号を運行した、ホワイトスターラインの代々の大型船の建造に大きく携わりました。
1907年には代表取締役に昇格、彼の叔父が造船所の会長であったこともありますが、むしろ彼の能力が買われての昇進とも言われています。
そして世界最大の巨船、タイタニック号の3姉妹、オリンピック級客船・・オリンピック・タイタニック・ブリタニック(ジャイガンティック)の建造に乗り出すのです。
不沈船の異名をとったこの巨船の目玉、水密隔壁を施した構造は、画期的なもので彼の技術力の高さを感じさせられます。
この巨船3隻の建造で、造船所と彼の名は歴史に刻まれるはずでした。
1912年4月10日、試験航海を終えたタイタニック号はサウサンプトンからニューヨークへ向けて、処女航海に出発、その船上には彼、トーマス・アンドリュースの姿も・・、改良点の洗い出しをするため8人の造船技師を伴っての乗船でした。
出港から4日目の4月14日、タイタニックは多くの警告を無視、氷山に衝突すると言う歴史に刻まれる出来事に直面しました。
トーマス・アンドリュースは、設計者であるだけにこの衝突がタイタニックにとって致命的であることを認識、沈没までの時間を1時間半程度と見積もったのでした。
その後彼は乗組員とともに乗客の非難誘導に当たります。
危機感の無い乗客にはあえて厳しい態度で緊張感を植えつけました。
このとき、タイタニック号の救命ボートがタイタニックの乗船定員分積まれていないことを最もよく知るのも彼だったのです。
彼はタイタニックの建造段階で、発注主でタイタニックの運行会社であるホワイトスターラインのイズメイ社長に救命ボートの必要数を申し出、その数を備えるようにと何度も申し入れをしていました。しかしその要求は、美観を損ねるなどの理由から聞きいれられることはありませんでした。
救命ボートの数についてもっと主張していれば・・・沈没に向かうタイタニックの船上で、彼は後悔したに違いありません。
タイタニック号が海中に没する10分前、1912年4月15日・午前2時10分、一等スチュワードが一等船客喫煙室で救命胴衣も着けず呆然と椅子に腰掛ける彼の姿を目にしています。。これが彼が目撃された最後の姿でした。
彼に同行した8人の造船技師達もまた帰らぬ人となりました。
一方、救命ボートの数を減らすよう命令した、ホワイトスターライン社・イズメイ社長は左舷の救命ボートで脱出、生還しています。
タイタニック号・処女航海100年企画・企画展『タイタニック展』開催中
処女航海から今年で100年を迎えるタイタニック号を模型や写真、遺品レプリカなどでわかりやすく展示しています。
開催期間:3月1日(木)~4月20日(金)
会場:店内企画展示室
時間:店舗営業時間(10:00~19:00)休業日を除く
入場は無料です。多くの方のご来場お待ちしております。
TITANIC GOODS.
船の模型と海雑貨・・STAR SHIP MODELS
店舗情報はこちら→http://www.obnv.com/interior/475
トーマス・アンドリュースは、あのタイタニック号を、大西洋横断の速度競争に参加させるものにこそ仕立て上げませんでしたが、経済性・居住快適性など船会社の要求を当時の技術を結集して世界を驚かせる存在に作り上げました。彼はその中心人物なのです。
トーマス・アンドリュースは1873年、北アイルランドの名家に生まれました。
父は政治家、タイタニック号が作られたハーランド&ウルフ造船所の会長を叔父に持ち、父も同じ名を持つため、彼の名は、正しくはトーマス・アンドリュースJrとなります。
16歳でハーランド&ウルフ造船所に入社した彼は、見習い工として現場を経験、この間に多くの技術は勿論、人間どうしのコミュニケーション能力も身につけ、現場を動かすノウハウを身につけました。
その環境は彼の人間性をも育て、作業員思いの周囲からも慕われる存在に育て上げました。。
その間、タイタニック号を運行した、ホワイトスターラインの代々の大型船の建造に大きく携わりました。
1907年には代表取締役に昇格、彼の叔父が造船所の会長であったこともありますが、むしろ彼の能力が買われての昇進とも言われています。
そして世界最大の巨船、タイタニック号の3姉妹、オリンピック級客船・・オリンピック・タイタニック・ブリタニック(ジャイガンティック)の建造に乗り出すのです。
不沈船の異名をとったこの巨船の目玉、水密隔壁を施した構造は、画期的なもので彼の技術力の高さを感じさせられます。
この巨船3隻の建造で、造船所と彼の名は歴史に刻まれるはずでした。
1912年4月10日、試験航海を終えたタイタニック号はサウサンプトンからニューヨークへ向けて、処女航海に出発、その船上には彼、トーマス・アンドリュースの姿も・・、改良点の洗い出しをするため8人の造船技師を伴っての乗船でした。
出港から4日目の4月14日、タイタニックは多くの警告を無視、氷山に衝突すると言う歴史に刻まれる出来事に直面しました。
トーマス・アンドリュースは、設計者であるだけにこの衝突がタイタニックにとって致命的であることを認識、沈没までの時間を1時間半程度と見積もったのでした。
その後彼は乗組員とともに乗客の非難誘導に当たります。
危機感の無い乗客にはあえて厳しい態度で緊張感を植えつけました。
このとき、タイタニック号の救命ボートがタイタニックの乗船定員分積まれていないことを最もよく知るのも彼だったのです。
彼はタイタニックの建造段階で、発注主でタイタニックの運行会社であるホワイトスターラインのイズメイ社長に救命ボートの必要数を申し出、その数を備えるようにと何度も申し入れをしていました。しかしその要求は、美観を損ねるなどの理由から聞きいれられることはありませんでした。
救命ボートの数についてもっと主張していれば・・・沈没に向かうタイタニックの船上で、彼は後悔したに違いありません。
タイタニック号が海中に没する10分前、1912年4月15日・午前2時10分、一等スチュワードが一等船客喫煙室で救命胴衣も着けず呆然と椅子に腰掛ける彼の姿を目にしています。。これが彼が目撃された最後の姿でした。
彼に同行した8人の造船技師達もまた帰らぬ人となりました。
一方、救命ボートの数を減らすよう命令した、ホワイトスターライン社・イズメイ社長は左舷の救命ボートで脱出、生還しています。
タイタニック号・処女航海100年企画・企画展『タイタニック展』開催中
処女航海から今年で100年を迎えるタイタニック号を模型や写真、遺品レプリカなどでわかりやすく展示しています。
開催期間:3月1日(木)~4月20日(金)
会場:店内企画展示室
時間:店舗営業時間(10:00~19:00)休業日を除く
入場は無料です。多くの方のご来場お待ちしております。
TITANIC GOODS.
船の模型と海雑貨・・STAR SHIP MODELS
店舗情報はこちら→http://www.obnv.com/interior/475
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