2015年6月23日(火)
6月23日。
ちょっと聞いて!×40
こんばんは!
E-ori's5 NAILPRODUCE(イオリズファイブネイルプロデュース)です。
6月23日の今日は、皆さん何の日かご存知ですか?
TVでも取り上げられていますのでご存知の方もおられると思います。
6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。
私の出身地沖縄は、今日が沖縄戦の終結日とされており、学校もお休みになります。
6月23日は沖縄では組織的戦闘が終結した日とされている日です。
戦後70年の今年、先ほどTVでも最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では午前11時50分から、「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」が開かれましたが、遺族の高齢化が顕著ですよね。
沖縄県南部にある糸満市辺りには、沢山の戦跡、慰霊碑がありますが個人で建立された慰霊碑などはご遺族がご高齢になるにつれ訪れる人が少なくなり淋しくひっそり佇んでいる慰霊碑もあるようです。
70年目の節目の今年、私は沖縄に帰ろうと去年から決めていたのですが両親が「もったいないから」と言うのでやめました(苦笑)
それよりも、
私「今年戦後70年目だから6月23日帰ろうと思っているけど」
母「ん? そうなの? (電話の向こうにいるらしき父に向かって)そうなの? 23日慰霊の日?!」
と聞いている母。
6月23日が慰霊の日と気付かない日常の沖縄の今の暮らし。
沖縄の人って、特に戦争を体験されたおじぃちゃん、おばぁちゃん達はほとんどの方々が語ろうとしないのです。
私も小さい頃、沖縄戦を本で知りましたが私が生まれるもっともっと大昔の事と思って読んでいました。
当時はまだ数十年しか経っていないのに。
沖縄戦体験者の方は、子や孫に語り継ぐ事は殆どされていないのではないかと思います。
ですが、どうしてか、未だに掘り起こされる遺骨収集にご参加されている方の多くは沖縄県外の方のように思います。
数年前、あるブログ記事をきっかけに今も交流させて頂いている埼玉県在住のNさんという方がおりますが、その方はもう何十年も冬の沖縄にいらっしゃって、雨のぬかるんだ日でも、日照りの日も、ご自身の危険を承知の上、足場の悪いジャングルの奥地まで沖縄戦で亡くなったお遺骨を収集する事にご尽力されております。
Nさんを通して平和学習活動をされている沖縄の方に当時の壕を案内して頂き、当時この壕におられた方の体験談をうかがった事があります。
「壕の暗闇が我が子の死も見えないよう隠してくれたので悲しさはあまり無かった」
「壕の暗闇が周りで死体の山となっている惨状も見えないようにしてくれた」という言葉には胸が詰まりました。
そして壕の中で疑似体験という事で、「静かに目を瞑ってごらん」という言葉に、声も発さず物音も立てないよう、ひっそりと敵から身を隠して必死になって逃げている当時の人の追い込まれた状況が少し垣間見えたように思いました。
沖縄戦をテーマにした映画など多くありますが、実際はあんなもんじゃなかったと思います。
広島や長崎の原爆の悲惨さも、映画で写し出される何十倍も悲惨だったでしょう。
更に沖縄戦の体験者は大東亜戦争唯一の住民を巻き込んだ激しい地上戦が故の悲しいお話も沢山あります。
捕虜になる前に、自ら自身の家族を手にかける、崖から飛び降りて自決する…など。
撃たれて瀕死の状態になった友人や家族、恋人を見捨て立ち去らざるをえなかったあの当時は、口を閉じて生涯胸にしまいたくなると思います。
沖縄戦はこのようにして米軍が進出し、司令部があった首里を占拠された後、戦線は南下し糸満市摩文仁が最後の激戦地となりました。
小さい頃見ていた『これが沖縄戦だ!』というタイトルの本に掲載されていたこの子は、最近は動画もよく見るようになりましたよね。
病的に大きく震えるこの子の体を見た時、とてもショックだった事を覚えています。
沖縄戦では1/4の住人が亡くなったとされています。
私の実家のある豊見城市も同じく4人に1人の割合で亡くなったそうで、当時はどこもかしこも死体が転がっていたようです。
4人に1人の割合って高確率で戦死したんだと知った時、私の命はおじぃちゃんやおばぁちゃんが雨霰と降ってくる爆弾や艦砲撃の中必死で逃げ回り、更に戦後の貧しい沖縄で逞しく繋いでくれた命なんだと気付きました。
私の友人達や周囲の方々も、残されて繋いできた尊い命なんだと思うと友人や周囲の方々にも自然と愛情が湧いてきます。
さきほど話したお遺骨収集をされているNさんに何年か前に、「机上の話より未だに集骨されずに野ざらしになっている戦死者の骨を実際見る方が何十倍も心に強く残り感慨深いと思うよ」と促されて、うっそうと茂る山の中に入った事があります。
遺骨収集団と記録を取りながら集骨する為に前以て探索されるらしく、その日も前日に発見したというお遺骨を見せて頂きました。
戦後、何十年も経っているのに未だ亡くなったままの状態で放置され、野ざらしのままでお遺骨は時間の経過と共にコケを纏ってその辺の景色と同化していました。
Nさんは元自衛官という事もあり、また沢山の沖縄戦で亡くなったお遺骨を見てこられた経験から、
「下顎が無くなったこのお遺骨は、爆弾が直撃したか、あるいは近くで落ちた爆弾の破片が致命傷になったかもしれないね」と話していました。
その場で言葉を失った私は、これまで経験した事が無いほど胸が締め付けられる気持ちになりました。
Nさんが、「こんな所に1人で逃げて来たんだね。戦時中は沖縄は一体焼け野原になっているからこんな森や茂みも無かっただろうから、どんな想いでこの方はここで最期を遂げたんだろうね」と静かに話される言葉を涙を我慢して聞いていた覚えがあります。
どれくらいいたか分かりませんが、手を合わせて山を降りて車に乗った途端、大雨が降ってきたのですが、Nさんが、「見つけてくれてありがとうって言っている涙雨かもしれないね」と仰った時、私が小さい頃から知っていた以上の我がふるさとの沖縄戦を知ったように想いました。
そんな沖縄戦終焉の地の摩文仁の丘では今日、鎮魂の祈りが捧げられました。
私は去年の夏に初めて平和の礎を訪れました。
摩文仁の丘は木々の緑と海の碧が相俟った、とても綺麗な場所です。
沖縄戦の全戦没者の名前を刻んだ平和の礎を初めて見た時、圧巻でした。
家族で訪れたのですが、両親がふと刻まれた名前を指差しながら、「おじぃのお兄さんだよ」とか、「身内だよ」とかあまりにも沢山の身内が沖縄戦で亡くなっていると今更ながら知って実は唖然としました。
沖縄で生まれた沖縄っ子ですから、あんなに熾烈な沖縄戦で亡くなった身内はいるだろうと漠然と分かってはいましたが、礎に記載されている沖縄の住所毎に、亡くなった身内がいるんじゃないかと聞くのが怖くなりました。
こんなに綺麗な海が見えるここで、かつて激闘が行われ、沢山の死体が転がる恐ろしい場所だったと誰が想像できるでしょうか。
でもこの摩文仁の丘はまぎれもなく終焉の地であり、綺麗な碧い海はかつて艦砲の群がずっと向こうまで海が埋め尽くされるほど停泊していたそうです。
おびただしい数の艦砲から打ち落とされる砲弾は摩文仁の地形を変えたそうです。
そして前線となったこの場所に逃げていた住民は逃げ場を失い、この丘から身を投げる悲しい場所でもありました。
今では、ホエールウォッチングもできる綺麗な碧い海ですが。
そして今日、札幌でも慰霊の式典があったそうです。
沖縄戦には沢山の本土出身者が亡くなっており、摩文仁の丘にも全国の慰霊碑が建っておりますがその中でも北海道出身者の戦没者は多いそうです。
1ヶ月前、偶然に沖縄戦で亡くなった豊頃出身者の方の記事が出ていたので普段新聞は読まない私ですが買いました。
沖縄の住民も多く巻き込まれた戦争ですが、遠く故郷を離れて亡くなった北海道出身者もおられるのです。
戦争は悲しみだけしか残しませんし、またその悲しみも癒えずに永く残ってしまいます。
今日、沖縄は慰霊の日です。
今のこの平和は、当時の方の悲しみの上に成り立っているということに想いを馳せてみませんか?
今日は長いお話になってしまいましたが、ぜひ私の出身地沖縄の事、沖縄戦の事、70年目の節目という事で、想いを書いてみました。
最後までお読み頂きありがとうございました。
お遺骨収集をされているNさんのブログはこちら⇒ 『遺骨収集の記録 南部戦跡に膝をつきて ― 沖縄本島南部戦跡における遺骨収集記録集 ― 』
E-ori's5 NAILPRODUCE(イオリズファイブネイルプロデュース)です。
6月23日の今日は、皆さん何の日かご存知ですか?
TVでも取り上げられていますのでご存知の方もおられると思います。
6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。
私の出身地沖縄は、今日が沖縄戦の終結日とされており、学校もお休みになります。
6月23日は沖縄では組織的戦闘が終結した日とされている日です。
戦後70年の今年、先ほどTVでも最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では午前11時50分から、「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」が開かれましたが、遺族の高齢化が顕著ですよね。
沖縄県南部にある糸満市辺りには、沢山の戦跡、慰霊碑がありますが個人で建立された慰霊碑などはご遺族がご高齢になるにつれ訪れる人が少なくなり淋しくひっそり佇んでいる慰霊碑もあるようです。
70年目の節目の今年、私は沖縄に帰ろうと去年から決めていたのですが両親が「もったいないから」と言うのでやめました(苦笑)
それよりも、
私「今年戦後70年目だから6月23日帰ろうと思っているけど」
母「ん? そうなの? (電話の向こうにいるらしき父に向かって)そうなの? 23日慰霊の日?!」
と聞いている母。
6月23日が慰霊の日と気付かない日常の沖縄の今の暮らし。
沖縄の人って、特に戦争を体験されたおじぃちゃん、おばぁちゃん達はほとんどの方々が語ろうとしないのです。
私も小さい頃、沖縄戦を本で知りましたが私が生まれるもっともっと大昔の事と思って読んでいました。
当時はまだ数十年しか経っていないのに。
沖縄戦体験者の方は、子や孫に語り継ぐ事は殆どされていないのではないかと思います。
ですが、どうしてか、未だに掘り起こされる遺骨収集にご参加されている方の多くは沖縄県外の方のように思います。
数年前、あるブログ記事をきっかけに今も交流させて頂いている埼玉県在住のNさんという方がおりますが、その方はもう何十年も冬の沖縄にいらっしゃって、雨のぬかるんだ日でも、日照りの日も、ご自身の危険を承知の上、足場の悪いジャングルの奥地まで沖縄戦で亡くなったお遺骨を収集する事にご尽力されております。
Nさんを通して平和学習活動をされている沖縄の方に当時の壕を案内して頂き、当時この壕におられた方の体験談をうかがった事があります。
「壕の暗闇が我が子の死も見えないよう隠してくれたので悲しさはあまり無かった」
「壕の暗闇が周りで死体の山となっている惨状も見えないようにしてくれた」という言葉には胸が詰まりました。
そして壕の中で疑似体験という事で、「静かに目を瞑ってごらん」という言葉に、声も発さず物音も立てないよう、ひっそりと敵から身を隠して必死になって逃げている当時の人の追い込まれた状況が少し垣間見えたように思いました。
沖縄戦をテーマにした映画など多くありますが、実際はあんなもんじゃなかったと思います。
広島や長崎の原爆の悲惨さも、映画で写し出される何十倍も悲惨だったでしょう。
更に沖縄戦の体験者は大東亜戦争唯一の住民を巻き込んだ激しい地上戦が故の悲しいお話も沢山あります。
捕虜になる前に、自ら自身の家族を手にかける、崖から飛び降りて自決する…など。
撃たれて瀕死の状態になった友人や家族、恋人を見捨て立ち去らざるをえなかったあの当時は、口を閉じて生涯胸にしまいたくなると思います。
沖縄戦はこのようにして米軍が進出し、司令部があった首里を占拠された後、戦線は南下し糸満市摩文仁が最後の激戦地となりました。
小さい頃見ていた『これが沖縄戦だ!』というタイトルの本に掲載されていたこの子は、最近は動画もよく見るようになりましたよね。
病的に大きく震えるこの子の体を見た時、とてもショックだった事を覚えています。
沖縄戦では1/4の住人が亡くなったとされています。
私の実家のある豊見城市も同じく4人に1人の割合で亡くなったそうで、当時はどこもかしこも死体が転がっていたようです。
4人に1人の割合って高確率で戦死したんだと知った時、私の命はおじぃちゃんやおばぁちゃんが雨霰と降ってくる爆弾や艦砲撃の中必死で逃げ回り、更に戦後の貧しい沖縄で逞しく繋いでくれた命なんだと気付きました。
私の友人達や周囲の方々も、残されて繋いできた尊い命なんだと思うと友人や周囲の方々にも自然と愛情が湧いてきます。
さきほど話したお遺骨収集をされているNさんに何年か前に、「机上の話より未だに集骨されずに野ざらしになっている戦死者の骨を実際見る方が何十倍も心に強く残り感慨深いと思うよ」と促されて、うっそうと茂る山の中に入った事があります。
遺骨収集団と記録を取りながら集骨する為に前以て探索されるらしく、その日も前日に発見したというお遺骨を見せて頂きました。
戦後、何十年も経っているのに未だ亡くなったままの状態で放置され、野ざらしのままでお遺骨は時間の経過と共にコケを纏ってその辺の景色と同化していました。
Nさんは元自衛官という事もあり、また沢山の沖縄戦で亡くなったお遺骨を見てこられた経験から、
「下顎が無くなったこのお遺骨は、爆弾が直撃したか、あるいは近くで落ちた爆弾の破片が致命傷になったかもしれないね」と話していました。
その場で言葉を失った私は、これまで経験した事が無いほど胸が締め付けられる気持ちになりました。
Nさんが、「こんな所に1人で逃げて来たんだね。戦時中は沖縄は一体焼け野原になっているからこんな森や茂みも無かっただろうから、どんな想いでこの方はここで最期を遂げたんだろうね」と静かに話される言葉を涙を我慢して聞いていた覚えがあります。
どれくらいいたか分かりませんが、手を合わせて山を降りて車に乗った途端、大雨が降ってきたのですが、Nさんが、「見つけてくれてありがとうって言っている涙雨かもしれないね」と仰った時、私が小さい頃から知っていた以上の我がふるさとの沖縄戦を知ったように想いました。
そんな沖縄戦終焉の地の摩文仁の丘では今日、鎮魂の祈りが捧げられました。
私は去年の夏に初めて平和の礎を訪れました。
摩文仁の丘は木々の緑と海の碧が相俟った、とても綺麗な場所です。
沖縄戦の全戦没者の名前を刻んだ平和の礎を初めて見た時、圧巻でした。
家族で訪れたのですが、両親がふと刻まれた名前を指差しながら、「おじぃのお兄さんだよ」とか、「身内だよ」とかあまりにも沢山の身内が沖縄戦で亡くなっていると今更ながら知って実は唖然としました。
沖縄で生まれた沖縄っ子ですから、あんなに熾烈な沖縄戦で亡くなった身内はいるだろうと漠然と分かってはいましたが、礎に記載されている沖縄の住所毎に、亡くなった身内がいるんじゃないかと聞くのが怖くなりました。
こんなに綺麗な海が見えるここで、かつて激闘が行われ、沢山の死体が転がる恐ろしい場所だったと誰が想像できるでしょうか。
でもこの摩文仁の丘はまぎれもなく終焉の地であり、綺麗な碧い海はかつて艦砲の群がずっと向こうまで海が埋め尽くされるほど停泊していたそうです。
おびただしい数の艦砲から打ち落とされる砲弾は摩文仁の地形を変えたそうです。
そして前線となったこの場所に逃げていた住民は逃げ場を失い、この丘から身を投げる悲しい場所でもありました。
今では、ホエールウォッチングもできる綺麗な碧い海ですが。
そして今日、札幌でも慰霊の式典があったそうです。
沖縄戦には沢山の本土出身者が亡くなっており、摩文仁の丘にも全国の慰霊碑が建っておりますがその中でも北海道出身者の戦没者は多いそうです。
1ヶ月前、偶然に沖縄戦で亡くなった豊頃出身者の方の記事が出ていたので普段新聞は読まない私ですが買いました。
沖縄の住民も多く巻き込まれた戦争ですが、遠く故郷を離れて亡くなった北海道出身者もおられるのです。
戦争は悲しみだけしか残しませんし、またその悲しみも癒えずに永く残ってしまいます。
今日、沖縄は慰霊の日です。
今のこの平和は、当時の方の悲しみの上に成り立っているということに想いを馳せてみませんか?
今日は長いお話になってしまいましたが、ぜひ私の出身地沖縄の事、沖縄戦の事、70年目の節目という事で、想いを書いてみました。
最後までお読み頂きありがとうございました。
お遺骨収集をされているNさんのブログはこちら⇒ 『遺骨収集の記録 南部戦跡に膝をつきて ― 沖縄本島南部戦跡における遺骨収集記録集 ― 』
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