202129(火)

日高山脈の命名は いつ? 誰が? なぜ?


日高山脈の命名は いつ? 誰が? なぜ?

日高山脈の命名の経緯は? 2/9/2021

 2月3日のブログ「日高山脈の展望」で“(十勝側から見て)こんなに立派な山容の名称がなぜ「日高山脈」だったのか。「十勝山脈」ではダメだったのか。命名の経緯は知りたいものだ”と書いた。
 ブログをいつも見てくれているS先輩から“(明治中期に)北海道庁の技師 神保小虎(後に東大教授)が 地学雑誌第1巻第1号に「日高山脈」と題して紹介したのが記録に残る最初のようだ”とのご意見を頂いた。
 早速 地質の専門家の谷内 元 氏に文献の調査を依頼したところ すぐに調べてくれたうえに以下の所見を頂いた(一部補足)。
 地質関係で「日高山脈の名前が初めて出たのは、地学雑誌第1巻第1号だが、その際はあくまでも「仮称」なので、正式に名付けられたのは、(1889年 明治22年)の地学雑誌第1巻第2号の「神保小虎, 北海道地質略説」とするべき。以下は私見も含むが、神保が十勝山脈ではなく、なぜ日高山脈と名付けたかだが。
(1) 十勝の名は大雪山系の十勝岳として先に使われていた(Lyman の地質図)。なお十勝岳は、十勝地方→十勝地方を流れる川(十勝川)→十勝川の源流の山(十勝岳)の命名順序のはず(石狩川など、大河と大きな山の命名関係はこの例に倣っている)。
(2) 命名者が地質学者のため、山脈の地質学的特徴変成岩が”日高側”でよく露出していたのに対して、”十勝側”では深成岩が多かったこと(例えば、花崗岩。十勝地方の御影はこの花崗岩が産出することから名付けられている)を重視した。
(3) 山脈南端の襟裳岬が日高の国だった。
と考える。ということでこの谷内説には明確な証拠と説得力があり 正しいと思う。

補足: 今回 明治期も含めた地質図を何種か見ることになり 色々気づくこともあった。十勝ヒュッテは十勝清水町旭山にあるが この付近は花崗岩質で 進行中の井戸掘りでも風化した花崗岩が良く見られる。やや下ると御影の町になるが 地名は御影石の産出に由来するらしい。
 過日 近所の「遊び小屋コニファー」でコーヒーを頂いたらおいしくてびっくりした。どんなコーヒー豆ですか?と聞いたら 普通のコーヒー豆だが水が良いためだろう この辺では麦飯石(花崗岩の一種)が出るらしいし とのこと。地質図によると北海道では花崗岩質の場所は決して多くはなく(写真地質図のピンク色) 日高山脈ではこの一帯と札内川流域のみで 何れも良い水が出る場所なのだろう。






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 もともとアウトドア大好き人間ですが 時間の制約から残念な思いをしてきました。2019年春に友人の協力を得て 十勝清水にMountain Cabinを自作するプロジェクトを始めました。若者を巻き込んで いつでもバトンタッチできる体制を心がけています。また近くの「遊び小屋コニファー」は アウトドアの大先輩としてリスペクトしています。なお 街・探検・文化については別ブログにしました。Elmtree2をご覧ください。

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