2011年7月21日(木)
宗谷発進!ヤマトっぽく(・∀・)ノ
旅行日記×93
トップ画像の「白いお台場」は
船の科学館に併設されたショップで販売されていました
石屋製菓は無関係のようで…インスパイヤw?
近畿地方なんとか台風の直撃は免れました~っ
しかし数日間旦那さまもご在宅でご飯、ご飯、またご飯の
嵐の日々でしたw
それでは、宗谷のつづきです今回は
「熱意が物を生み出した編」かな?なんて思います。
宗谷の出航が迫る中で永田氏は
またもや立ちはだかる問題に頭を悩ませていた
(。-`ω´-)。oO(悩)
よくよく考えると日本隊は皆研究者ばかりでヒョロヒョロ~ッ
登山経験者なんてゼロ
ましてや冬山など登ったことなどあるはずもなく
このままでは南極に辿り着けたとしても…
この隊員を引っ張ってくれる頼りになる人間が
絶対に必要だ…
じりりり~ん!!
昔の黒電話ってビクッΣ(ll゜Д゜ノ)ノとしましたw
電話をかけてきたのは
ネパールの山々にも遠征したという
いかにもタフな感じのする男からの
南極行きへの協力の申し出でした。
これは行ける!!
永田氏は期待に胸膨らませその男と
数日後に会う約束を交わします
ワクワク(^▽^*)
約束の日
目の前に現れたのは
(`д´;ノ)ノ
西堀栄三郎53歳
元東芝の技術者
もっと若い人かと…
ガック――(っω`- )――リな永田氏
しかしこの初老を過ぎた西堀氏
優雅な京都弁で冬山について語りだしたとたん
その豊かな経験と知識そして
何ともいえない魅力的な笑顔に
ぐいっと引き込まれてしまいました。
ポポポ(*゜Д゜(*゜Д゜(*゜Д゜*)゜Д゜*)゜Д゜*)ポポッ
そう
この山をこよなく愛する男
登山界で知らない者はいないという
探検のカリスマだったのです
またしても凄い人の登場です!
誰もが一度は耳したことでしょぅ
♪雪よ~岩よ~その先ふふふ~んヾ(-ε-o)ォィォィ
『雪山賛歌』の作詞をしたり
語学堪能でアインシュタインの来日の際に
3日間通訳を務めた博学多才な人物でありました。
この西堀氏が副隊長に任命されました。
西堀氏の南極行きは瞬く間に山男達の噂となりました。
さすがカリスマです
「西堀さんが南極に行くそうだぞ!」
「なんだって!?」
未知の世界への強い憧れ
日本の未来がかかっている重要な任務
生死の補償はなかった…残された家族…
しかし居ても立ってもいられない…
しかし山男達は西堀氏の元に
駆けつけてきました。
こうして熱血永田隊長、カリスマ西堀副隊長は
隊員30人を率いて氷点下20度で強風の吹きつける
北海道網走に入り装備の耐寒テストを始めました。
=昭和31年1月=
網走の強風の前に
あっけなく吹き飛ばされてしまうテント
無線機のバッテリーは直ぐに上がり
発電機もオイルが固まり動かなくなりました
南極で予想する氷点下50度
100mのブリザード…
耐えられるはずもない
厳しい現実が突きつけられます
そのころ宗谷は…
なんと水漏れ(;゜д゜)!!
改造を始めると
オンボロ船体はゆがみだし
ジワジワと水が漏れてきたのです
こっちを直すとあっちからジワ
あの人呼んでもだめかなぁ…
ヾノ・´ω`・)
強い心で宗谷に立ち向かう彼ら
しかし徹夜続き
このままでは…
浅野ドックは横浜中の職人に声をかけました
ジワジワと漏れ続ける水
出航まで3ヶ月
宗谷の危機を救う為に職人達が
続々と集まってきました
「職人魂を見せるんだ!」
一方、網走でテストに失敗した装備の問題で
激務が重なった永田隊長は吐血する程体調を崩していました
(っω`- )…胃が…
そこへある会社の社員が発電機を持って現れました
「これ見て下さい!」
それはオイルが凍る心配の無い『風力発電機』でした
おおぉ(゜Д゜ノ)ノ!!
「価格は…」
「いえ、社長が張り切っているんです!お金は一切いりません」
その会社は浜松から東京に出てきたばかりの小さな
オートバイメーカーでした。
そしてその会社の社長は
本田宗一郎だったのです!
・・カッコ・・インテグラ。+゜(⊃ω・`)゜+。
これからも我が家の車はホンダにしますよぉ!
そしてまたある日、東京通信工業という小さな会社が
寒さでもバッテリーが上がらない
小型受信機を製造して持ってきました
どうぞ( *´▽`)_旦
こちらは後のSONYです。
いやぁ…
大きく成長した会社って本当に物づくりに情熱的ですよね!
日本隊は国民に見守られていたんですね
失敗しても更に優れた物を手にすることが出来ました。
さて、これで装備はいけそう
しかし残された大きな問題がありました
観測隊の命がかかった
「住居」
テントは飛んじゃぅし
あっても中で人間がカッチカチになっちゃいます
「-50度に耐えられて~」
「大工さんが要らなくて~」
「隙間風が入らなくて~」
「持ち運びも出来て~」
「あと3ヶ月で~」
そんなお家が~(♯`Д´)=○)゜з゜)・∵.
隊員がこんな無謀な住宅建設の注文を引提げて
建設会社を回りました。
そして一社だけが
「うちがやろう」と申し出てくれました。
東京タワーを建設した竹中工務店でした。
1mmの隙間でも命取りになってしまう
3ヶ月という短い期間で完璧な建物が必要となります
日本中が注目する中…
責任重大の仕事に担当者も
氷点下50度級の震えです((;゜ェ゜;))ちびりそぅ
釘も使えないという問題は
日本古来の木組みの技術でクリア出来ました
その他諸々の注文は思考錯誤の末に
素人の隊員が激しいブリザードの中でも組み立てられて
持ち運びも可能なパネル式の建物が考案されました。
見事に「想いをかたち」にした建物の完成
これが日本初の「プレハブ住宅」の誕生になりました。
『南極観測隊の住居を造った竹中工務店』
東京ドームも大阪ドームもココの会社です
コソ(*`ノз´)近年は不祥事もあったけどね
そして肝心の船…
あのスクラップ同然のオンボロ船だった宗谷は
「戦艦大和」の匠:牧野茂氏の妥協の無い設計と
浅野ドックと横浜の職人達の手により
ピカピカな鋼鉄の鎧に身を包み
見事に南極観測船へと生まれ変わったではありませんかぁ
と、言いたいところですが実際は
昭和31年10月10日納期に間に合わず引き渡した後に
横浜の職人達が東京の晴海埠頭に通い作業を続け
完成させたそうです。
すっごぃ大変だったんですねぇ…
昭和31年11月8日 東京 晴海埠頭
桟橋は日本の旗を降る1万人の大群衆で埋め尽くされました
がんばれ!!
お父さん元気でね!!いってらっしゃーい!!
( ´∀`)(っω`- ) ゜Д゜)・∀・)´ω`゜)゜´_ゝ`)ノ
大歓声を受ける第一次南極観測隊員53名と
乗組員を合わせて計130名
そして後にあまりにも有名になったタロとジロを含む
カラフト犬22頭
「日本隊に胸を張っていって欲しい!」
ホンダやソニーだけでなく1000社を超える企業が
煮えたぎる熱い思いで南極観測日本隊を応援したのです。
゜*。(*゜ェ゜ノノ゛すごぃ…日本の技術の宝石箱宝船やぁ~っ
宗谷がどれくらい小さい船かっていうとですね
全長:83.3m 100mないんですΣ(=Д=ノ)ノ
出力:4,800馬力(同時代アメリカの砕氷艦バートンアイランド号は13,000馬力)
大人と子供ほどの差がありました。
永田隊長は力強く群衆に向かい言いました。
「冷静に科学的に合理的に全ての任務を果たしてきます」
この小さな船に日本国民の夢と
積みきれない希望を乗せて宗谷は出航します。
この船出を祝福し無事を祈り
港中の船が汽笛を鳴らし続けました。
日本を旅立った宗谷
ひたすら南を目指すこと50数日…
ごごごぉーーーっん!!!
凄まじい大音響と衝撃が隊員達を襲いました
壮絶な氷との闘いが幕を開けた瞬間でした
南極までの2万キロは、近づけば近づくほど
過酷なものとなりました。
あ、ご飯の支度の時間です(=´▽`)ゞ
誤字脱字があるかもしれませんが
アップしちゃいます
ちょこちょこ直しますがお見逃しくださいませ
続きはまた…
船の科学館に併設されたショップで販売されていました
石屋製菓は無関係のようで…インスパイヤw?
近畿地方なんとか台風の直撃は免れました~っ
しかし数日間旦那さまもご在宅でご飯、ご飯、またご飯の
嵐の日々でしたw
それでは、宗谷のつづきです今回は
「熱意が物を生み出した編」かな?なんて思います。
宗谷の出航が迫る中で永田氏は
またもや立ちはだかる問題に頭を悩ませていた
(。-`ω´-)。oO(悩)
よくよく考えると日本隊は皆研究者ばかりでヒョロヒョロ~ッ
登山経験者なんてゼロ
ましてや冬山など登ったことなどあるはずもなく
このままでは南極に辿り着けたとしても…
この隊員を引っ張ってくれる頼りになる人間が
絶対に必要だ…
じりりり~ん!!
昔の黒電話ってビクッΣ(ll゜Д゜ノ)ノとしましたw
電話をかけてきたのは
ネパールの山々にも遠征したという
いかにもタフな感じのする男からの
南極行きへの協力の申し出でした。
これは行ける!!
永田氏は期待に胸膨らませその男と
数日後に会う約束を交わします
ワクワク(^▽^*)
約束の日
目の前に現れたのは
(`д´;ノ)ノ
西堀栄三郎53歳
元東芝の技術者
もっと若い人かと…
ガック――(っω`- )――リな永田氏
しかしこの初老を過ぎた西堀氏
優雅な京都弁で冬山について語りだしたとたん
その豊かな経験と知識そして
何ともいえない魅力的な笑顔に
ぐいっと引き込まれてしまいました。
ポポポ(*゜Д゜(*゜Д゜(*゜Д゜*)゜Д゜*)゜Д゜*)ポポッ
そう
この山をこよなく愛する男
登山界で知らない者はいないという
探検のカリスマだったのです
またしても凄い人の登場です!
誰もが一度は耳したことでしょぅ
♪雪よ~岩よ~その先ふふふ~んヾ(-ε-o)ォィォィ
『雪山賛歌』の作詞をしたり
語学堪能でアインシュタインの来日の際に
3日間通訳を務めた博学多才な人物でありました。
この西堀氏が副隊長に任命されました。
西堀氏の南極行きは瞬く間に山男達の噂となりました。
さすがカリスマです
「西堀さんが南極に行くそうだぞ!」
「なんだって!?」
未知の世界への強い憧れ
日本の未来がかかっている重要な任務
生死の補償はなかった…残された家族…
しかし居ても立ってもいられない…
しかし山男達は西堀氏の元に
駆けつけてきました。
こうして熱血永田隊長、カリスマ西堀副隊長は
隊員30人を率いて氷点下20度で強風の吹きつける
北海道網走に入り装備の耐寒テストを始めました。
=昭和31年1月=
網走の強風の前に
あっけなく吹き飛ばされてしまうテント
無線機のバッテリーは直ぐに上がり
発電機もオイルが固まり動かなくなりました
南極で予想する氷点下50度
100mのブリザード…
耐えられるはずもない
厳しい現実が突きつけられます
そのころ宗谷は…
なんと水漏れ(;゜д゜)!!
改造を始めると
オンボロ船体はゆがみだし
ジワジワと水が漏れてきたのです
こっちを直すとあっちからジワ
あの人呼んでもだめかなぁ…
ヾノ・´ω`・)
強い心で宗谷に立ち向かう彼ら
しかし徹夜続き
このままでは…
浅野ドックは横浜中の職人に声をかけました
ジワジワと漏れ続ける水
出航まで3ヶ月
宗谷の危機を救う為に職人達が
続々と集まってきました
「職人魂を見せるんだ!」
一方、網走でテストに失敗した装備の問題で
激務が重なった永田隊長は吐血する程体調を崩していました
(っω`- )…胃が…
そこへある会社の社員が発電機を持って現れました
「これ見て下さい!」
それはオイルが凍る心配の無い『風力発電機』でした
おおぉ(゜Д゜ノ)ノ!!
「価格は…」
「いえ、社長が張り切っているんです!お金は一切いりません」
その会社は浜松から東京に出てきたばかりの小さな
オートバイメーカーでした。
そしてその会社の社長は
本田宗一郎だったのです!
・・カッコ・・インテグラ。+゜(⊃ω・`)゜+。
これからも我が家の車はホンダにしますよぉ!
そしてまたある日、東京通信工業という小さな会社が
寒さでもバッテリーが上がらない
小型受信機を製造して持ってきました
どうぞ( *´▽`)_旦
こちらは後のSONYです。
いやぁ…
大きく成長した会社って本当に物づくりに情熱的ですよね!
日本隊は国民に見守られていたんですね
失敗しても更に優れた物を手にすることが出来ました。
さて、これで装備はいけそう
しかし残された大きな問題がありました
観測隊の命がかかった
「住居」
テントは飛んじゃぅし
あっても中で人間がカッチカチになっちゃいます
「-50度に耐えられて~」
「大工さんが要らなくて~」
「隙間風が入らなくて~」
「持ち運びも出来て~」
「あと3ヶ月で~」
そんなお家が~(♯`Д´)=○)゜з゜)・∵.
隊員がこんな無謀な住宅建設の注文を引提げて
建設会社を回りました。
そして一社だけが
「うちがやろう」と申し出てくれました。
東京タワーを建設した竹中工務店でした。
1mmの隙間でも命取りになってしまう
3ヶ月という短い期間で完璧な建物が必要となります
日本中が注目する中…
責任重大の仕事に担当者も
氷点下50度級の震えです((;゜ェ゜;))ちびりそぅ
釘も使えないという問題は
日本古来の木組みの技術でクリア出来ました
その他諸々の注文は思考錯誤の末に
素人の隊員が激しいブリザードの中でも組み立てられて
持ち運びも可能なパネル式の建物が考案されました。
見事に「想いをかたち」にした建物の完成
これが日本初の「プレハブ住宅」の誕生になりました。
『南極観測隊の住居を造った竹中工務店』
東京ドームも大阪ドームもココの会社です
コソ(*`ノз´)近年は不祥事もあったけどね
そして肝心の船…
あのスクラップ同然のオンボロ船だった宗谷は
「戦艦大和」の匠:牧野茂氏の妥協の無い設計と
浅野ドックと横浜の職人達の手により
ピカピカな鋼鉄の鎧に身を包み
見事に南極観測船へと生まれ変わったではありませんかぁ
と、言いたいところですが実際は
昭和31年10月10日納期に間に合わず引き渡した後に
横浜の職人達が東京の晴海埠頭に通い作業を続け
完成させたそうです。
すっごぃ大変だったんですねぇ…
昭和31年11月8日 東京 晴海埠頭
桟橋は日本の旗を降る1万人の大群衆で埋め尽くされました
がんばれ!!
お父さん元気でね!!いってらっしゃーい!!
( ´∀`)(っω`- ) ゜Д゜)・∀・)´ω`゜)゜´_ゝ`)ノ
大歓声を受ける第一次南極観測隊員53名と
乗組員を合わせて計130名
そして後にあまりにも有名になったタロとジロを含む
カラフト犬22頭
「日本隊に胸を張っていって欲しい!」
ホンダやソニーだけでなく1000社を超える企業が
煮えたぎる熱い思いで南極観測日本隊を応援したのです。
゜*。(*゜ェ゜ノノ゛すごぃ…日本の技術の宝石箱宝船やぁ~っ
宗谷がどれくらい小さい船かっていうとですね
全長:83.3m 100mないんですΣ(=Д=ノ)ノ
出力:4,800馬力(同時代アメリカの砕氷艦バートンアイランド号は13,000馬力)
大人と子供ほどの差がありました。
永田隊長は力強く群衆に向かい言いました。
「冷静に科学的に合理的に全ての任務を果たしてきます」
この小さな船に日本国民の夢と
積みきれない希望を乗せて宗谷は出航します。
この船出を祝福し無事を祈り
港中の船が汽笛を鳴らし続けました。
日本を旅立った宗谷
ひたすら南を目指すこと50数日…
ごごごぉーーーっん!!!
凄まじい大音響と衝撃が隊員達を襲いました
壮絶な氷との闘いが幕を開けた瞬間でした
南極までの2万キロは、近づけば近づくほど
過酷なものとなりました。
あ、ご飯の支度の時間です(=´▽`)ゞ
誤字脱字があるかもしれませんが
アップしちゃいます
ちょこちょこ直しますがお見逃しくださいませ
続きはまた…
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