2011721(木)

宗谷発進!ヤマトっぽく(・∀・)ノ


宗谷発進!ヤマトっぽく(・∀・)ノ

トップ画像の「白いお台場」は
船の科学館に併設されたショップで販売されていました
石屋製菓は無関係のようで…インスパイヤw?


近畿地方なんとか台風の直撃は免れました~っ
しかし数日間旦那さまもご在宅でご飯、ご飯、またご飯の
嵐の日々でしたw

それでは、宗谷のつづきです今回は
「熱意が物を生み出した編」かな?なんて思います。


宗谷の出航が迫る中で永田氏は
またもや立ちはだかる問題に頭を悩ませていた

(。-`ω´-)。oO(悩)
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よくよく考えると日本隊は皆研究者ばかりでヒョロヒョロ~ッ
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登山経験者なんてゼロ
ましてや冬山など登ったことなどあるはずもなく
このままでは南極に辿り着けたとしても…
この隊員を引っ張ってくれる頼りになる人間が
絶対に必要だ…

じりりり~ん!!
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昔の黒電話ってビクッΣ(ll゜Д゜ノ)ノとしましたw

電話をかけてきたのは
ネパールの山々にも遠征したという
いかにもタフな感じのする男からの
南極行きへの協力の申し出でした。

これは行ける!!

永田氏は期待に胸膨らませその男と
数日後に会う約束を交わします

ワクワク(^▽^*)

約束の日
目の前に現れたのは

(`д´;ノ)ノ


西堀栄三郎53歳
元東芝の技術者


もっと若い人かと…
ガック――(っω`- )――リな永田氏

しかしこの初老を過ぎた西堀氏
優雅な京都弁で冬山について語りだしたとたん
その豊かな経験と知識そして
何ともいえない魅力的な笑顔に
ぐいっと引き込まれてしまいました。

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ポポポ(*゜Д゜(*゜Д゜(*゜Д゜*)゜Д゜*)゜Д゜*)ポポッ

そう
この山をこよなく愛する男
登山界で知らない者はいないという
探検のカリスマだったのです
またしても凄い人の登場です!

誰もが一度は耳したことでしょぅ
♪雪よ~岩よ~その先ふふふ~んヾ(-ε-o)ォィォィ


『雪山賛歌』の作詞をしたり

語学堪能でアインシュタインの来日の際に
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3日間通訳を務めた博学多才な人物でありました。


この西堀氏が副隊長に任命されました。


西堀氏の南極行きは瞬く間に山男達の噂となりました。
さすがカリスマです

「西堀さんが南極に行くそうだぞ!」

「なんだって!?」

未知の世界への強い憧れ
日本の未来がかかっている重要な任務
生死の補償はなかった…残された家族…
しかし居ても立ってもいられない…
しかし山男達は西堀氏の元に
駆けつけてきました。


こうして熱血永田隊長、カリスマ西堀副隊長は
隊員30人を率いて氷点下20度で強風の吹きつける
北海道網走に入り装備の耐寒テストを始めました。

=昭和31年1月=

網走の強風の前に
あっけなく吹き飛ばされてしまうテント
無線機のバッテリーは直ぐに上がり
発電機もオイルが固まり動かなくなりました

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南極で予想する氷点下50度
100mのブリザード…
耐えられるはずもない
厳しい現実が突きつけられます


そのころ宗谷は…

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なんと水漏れ(;゜д゜)!!

改造を始めると
オンボロ船体はゆがみだし
ジワジワと水が漏れてきたのです
こっちを直すとあっちからジワ

あの人呼んでもだめかなぁ…

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ヾノ・´ω`・)


強い心で宗谷に立ち向かう彼ら
しかし徹夜続き
このままでは…

浅野ドックは横浜中の職人に声をかけました

ジワジワと漏れ続ける水
出航まで3ヶ月

宗谷の危機を救う為に職人達が
続々と集まってきました

「職人魂を見せるんだ!」

一方、網走でテストに失敗した装備の問題で
激務が重なった永田隊長は吐血する程体調を崩していました

(っω`- )…胃が…

そこへある会社の社員が発電機を持って現れました

「これ見て下さい!」

それはオイルが凍る心配の無い『風力発電機』でした

おおぉ(゜Д゜ノ)ノ!!

「価格は…」

「いえ、社長が張り切っているんです!お金は一切いりません」


その会社は浜松から東京に出てきたばかりの小さな
オートバイメーカーでした。
そしてその会社の社長は

本田宗一郎だったのです!

・・カッコ・・インテグラ。+゜(⊃ω・`)゜+。

これからも我が家の車はホンダにしますよぉ!




そしてまたある日、東京通信工業という小さな会社が
寒さでもバッテリーが上がらない
小型受信機を製造して持ってきました

どうぞ( *´▽`)_旦

こちらは後のSONYです。

いやぁ…
大きく成長した会社って本当に物づくりに情熱的ですよね!


日本隊は国民に見守られていたんですね
失敗しても更に優れた物を手にすることが出来ました。


さて、これで装備はいけそう
しかし残された大きな問題がありました
観測隊の命がかかった

「住居」

テントは飛んじゃぅし
あっても中で人間がカッチカチになっちゃいます

「-50度に耐えられて~」
「大工さんが要らなくて~」
「隙間風が入らなくて~」
「持ち運びも出来て~」
「あと3ヶ月で~」


そんなお家が~(♯`Д´)=○)゜з゜)・∵.

隊員がこんな無謀な住宅建設の注文を引提げて
建設会社を回りました。
そして一社だけが
「うちがやろう」と申し出てくれました。
東京タワーを建設した竹中工務店でした。

1mmの隙間でも命取りになってしまう
3ヶ月という短い期間で完璧な建物が必要となります
日本中が注目する中…

責任重大の仕事に担当者も
氷点下50度級の震えです((;゜ェ゜;))ちびりそぅ

釘も使えないという問題は
日本古来の木組みの技術でクリア出来ました
その他諸々の注文は思考錯誤の末に
素人の隊員が激しいブリザードの中でも組み立てられて
持ち運びも可能なパネル式の建物が考案されました。


見事に「想いをかたち」にした建物の完成
これが日本初の「プレハブ住宅」の誕生になりました。


『南極観測隊の住居を造った竹中工務店』外部リンク

東京ドームも大阪ドームもココの会社です
コソ(*`ノз´)近年は不祥事もあったけどね


そして肝心の船…
あのスクラップ同然のオンボロ船だった宗谷は
「戦艦大和」の匠:牧野茂氏の妥協の無い設計と
浅野ドックと横浜の職人達の手により
ピカピカな鋼鉄の鎧に身を包み
見事に南極観測船へと生まれ変わったではありませんかぁ

と、言いたいところですが実際は
昭和31年10月10日納期に間に合わず引き渡した後に
横浜の職人達が東京の晴海埠頭に通い作業を続け
完成させたそうです。
すっごぃ大変だったんですねぇ…



昭和31年11月8日 東京 晴海埠頭 

桟橋は日本の旗を降る1万人の大群衆で埋め尽くされました


がんばれ!!

お父さん元気でね!!いってらっしゃーい!!


( ´∀`)(っω`- ) ゜Д゜)・∀・)´ω`゜)゜´_ゝ`)ノ


大歓声を受ける第一次南極観測隊員53名と
乗組員を合わせて計130名
そして後にあまりにも有名になったタロとジロを含む
カラフト犬22頭

「日本隊に胸を張っていって欲しい!」

ホンダやソニーだけでなく1000社を超える企業が
煮えたぎる熱い思いで南極観測日本隊を応援したのです。


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゜*。(*゜ェ゜ノノ゛すごぃ…日本の技術の宝石箱宝船やぁ~っ


宗谷がどれくらい小さい船かっていうとですね
全長:83.3m 100mないんですΣ(=Д=ノ)ノ
出力:4,800馬力(同時代アメリカの砕氷艦外部リンクバートンアイランド号は13,000馬力)
大人と子供ほどの差がありました。



永田隊長は力強く群衆に向かい言いました。

「冷静に科学的に合理的に全ての任務を果たしてきます」

この小さな船に日本国民の夢と
積みきれない希望を乗せて宗谷は出航します。

この船出を祝福し無事を祈り
港中の船が汽笛を鳴らし続けました。


日本を旅立った宗谷
ひたすら南を目指すこと50数日…
ごごごぉーーーっん!!!
凄まじい大音響と衝撃が隊員達を襲いました
壮絶な氷との闘いが幕を開けた瞬間でした

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南極までの2万キロは、近づけば近づくほど
過酷なものとなりました。


あ、ご飯の支度の時間です(=´▽`)ゞ
誤字脱字があるかもしれませんが
アップしちゃいます
ちょこちょこ直しますがお見逃しくださいませ
続きはまた…







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