2012年1月25日(水)
とかち意外史 「ジンギスカンなべ」の始まりは…?
文化×22
↑「大阪屋」店内に飾られている北海道新聞夕刊「とかち意外史」の切り抜き。
先日、鹿追町の煮込みジンギスカンのお店「大阪屋」さん から自宅に帰り、酔っぱらいながら書いたブログ「煮込みジンギスカン 鹿追町「大阪屋」」。
煮込みジンギスカン 鹿追町「大阪屋」(2012年1月19日)
そのブログの中で「実は、ジンギスカン鍋の発祥の地が鹿追町であるという話もあります。この話は、明日以降にご紹介します」と書いた手前、ずっと気になっていました。
酔っぱらっていても、約束は約束。
少し遅くなりましたが、今回「鹿追町」と「ジンギスカンなべ」について紹介させていただきます。
もう随分前の話になりますが、1990年(平成2年)7月20日北海道新聞 夕刊(十勝版)の「とかち意外史」でジンギスカンなべの始まりについて書かれました。
記事の中では、十勝で最初に綿羊を手がけたのは鹿追町の方だったこと、また十勝で最初に「ジンギスカンなべ」の店として営業したのが鹿追町の「大阪屋」であったことが紹介されているのです。
今回のブログを書くにあたって私が保管していたはずの記事のコピーが、どこにしまったか行方知らず。
それで、記事の写真に登場している現・神田日勝記念美術館館長である菅訓章さんに聞いてみたところ、引っ越しの際に処分してしまったとのこと。
困っていたところ、「大阪屋」さんの店内に額に入って飾られていることを思い出し、撮影させていただいたのが「メイン画像」です。
いまでは、図書館などに保管されている以外では、非常に貴重なものになっています。
しかも、コピーのため字面が見づらくなっているものもあり、内容の照会のため帯広市図書館のレファレンス担当の方にもお世話になりました。再度お礼を申し上げます。
さて、次のとおり「とかち意外史」の文面をご紹介させていただきます。
記事の中の「大阪屋」さんですが、2代目の仁三さんは既に亡くなられ、現在は奥さんと息子さんがお店を引き継いでおられます。
車道からは看板が目印です
「大阪屋」の外観
「大阪屋」のジンギスカンなべ
この記事を書かれた合田一道さんは、現在もノンフィクション作家として活躍されている方です。
合田さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
今回、十勝の綿羊やジンギスカンについて調べてみましたが、当時の政府などの方針と非常に関連していたことが分かりました。
すると、クラーク博士像で有名な札幌市の観光地「さっぽろ羊ヶ丘展望台」にも同じような背景があったのでは…とさらに興味がわいてきました。
くわしく調べてみると面白そうですね。
先日、鹿追町の煮込みジンギスカンのお店「大阪屋」さん から自宅に帰り、酔っぱらいながら書いたブログ「煮込みジンギスカン 鹿追町「大阪屋」」。
煮込みジンギスカン 鹿追町「大阪屋」(2012年1月19日)
そのブログの中で「実は、ジンギスカン鍋の発祥の地が鹿追町であるという話もあります。この話は、明日以降にご紹介します」と書いた手前、ずっと気になっていました。
酔っぱらっていても、約束は約束。
少し遅くなりましたが、今回「鹿追町」と「ジンギスカンなべ」について紹介させていただきます。
もう随分前の話になりますが、1990年(平成2年)7月20日北海道新聞 夕刊(十勝版)の「とかち意外史」でジンギスカンなべの始まりについて書かれました。
記事の中では、十勝で最初に綿羊を手がけたのは鹿追町の方だったこと、また十勝で最初に「ジンギスカンなべ」の店として営業したのが鹿追町の「大阪屋」であったことが紹介されているのです。
今回のブログを書くにあたって私が保管していたはずの記事のコピーが、どこにしまったか行方知らず。
それで、記事の写真に登場している現・神田日勝記念美術館館長である菅訓章さんに聞いてみたところ、引っ越しの際に処分してしまったとのこと。
困っていたところ、「大阪屋」さんの店内に額に入って飾られていることを思い出し、撮影させていただいたのが「メイン画像」です。
いまでは、図書館などに保管されている以外では、非常に貴重なものになっています。
しかも、コピーのため字面が見づらくなっているものもあり、内容の照会のため帯広市図書館のレファレンス担当の方にもお世話になりました。再度お礼を申し上げます。
さて、次のとおり「とかち意外史」の文面をご紹介させていただきます。
北海道新聞 夕刊(十勝版) 1990年(平成2年)7月20日
とかち意外史 ー49ー 合田一道ジンギスカンなべの始まり ~ 鹿追昭和32年に1号店
独特の煮込み製法が好評毛肉兼用種を導入
十勝におけるジンギスカンなべの始まりは鹿追町なのだという。
同町には「羊が丘」の地名があるように、早くから綿羊が飼育されていた。
それにしても十勝の綿羊の数がかつては上川支庁に次ぐ2番目だったとは。
道内の綿羊飼育は大正初期に札幌、滝川など官立の牧場ができて本格化した。
大正7年(1918年)になって政府は、綿羊奨励計画を立て、農家に飼育を呼びかけ、生産された羊毛は陸軍の被服廠(しょう)が1ポンド50銭の奨励金付きで買い上げた。
十勝で最初に綿羊を手がけたのは鹿追の増田作平(元村会議員)ら3人で、大正12年、農林省滝川綿羊場からシロップシャーという毛肉兼用種を10匹導入した。
当時は綿羊といえば羊毛だっただけに、毛肉兼用の綿羊を飼育しだしたことは注目に値する。
だが、実際に食肉にされたのはもう少し後だ。「羊が丘」の名 残る
大正15年春、小室道郎が鹿追のヌプカウシヌプリ山麓(さんろく)に綿羊牧場を設置した。
小室は滝川綿羊場の技師だったが、前年に退職、音更村=当時=で300匹の綿羊の飼育を始めたが、鹿追の草原に着目し、ここへ移ってきたのだった。
小室はここで3年間にわたり綿羊を飼育するが、結局は成功せず引き上げていく。原因は積雪が多く、飼料を野草だけに頼ったので十分に与えられなかったため、といわれる。
これにより山麓に「羊が丘」の名だけが残った。
ジンギスカンなべを始めたのはこの時期だ。
小室は豪放らいらく、むとんちゃくな性格だけに、けがでもした綿羊を生かしておくにしのびず、肉にして食べたのだろう。
次女の七戸ケイ子さん=札幌市在住=は「父は料理が上手で、よくジンギスカンを食べたものです」と述懐している。
小室のエピソードは数多いが、愉快なのは嫁募集の新聞広告を出し、応募した女性を妻にし、そのうえに生まれた子に「羊太郎」と命名した話だ。“不要扱い” に注目
しかし綿羊の肉はくさみがあって食用に合わず、しかも戦後は羊毛の利用度も減って綿羊はしだいに不要扱いにされだした。
そこに注目したのが十勝で最初にジンギスカンなべを経営した鹿追の「大阪屋」。
先代の早川定吉が昭和32年、丸形のなべで煮込みジンギスカンをはじめたところ、地元の若い自衛隊員に評判となった。
以来、「大阪屋」ののれんは、煮込みなべの店として多くの固定客を持つようになった。
2代目、仁三さんは元自衛隊員で、先代にほれられて養子になった。
「これぞジンギスカンの神髄」と独特の煮込み製法の継承に意欲満々だ。
(北海道新聞編集委員)
記事の中の「大阪屋」さんですが、2代目の仁三さんは既に亡くなられ、現在は奥さんと息子さんがお店を引き継いでおられます。
車道からは看板が目印です
「大阪屋」の外観
「大阪屋」のジンギスカンなべ
この記事を書かれた合田一道さんは、現在もノンフィクション作家として活躍されている方です。
合田さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
合田一道(ごうだ・いちどう)氏
ノンフィクション作家。長く北海道新聞に勤務し、『定山坊行方不明の謎』で第一回北海道ノンフィクション賞大賞を受賞。主な著書は『裂けた岬』(幻冬舎) 『開拓団壊滅す』(北海道新聞社)『日本人の死に際』(小学館)『日本史の現場検証』(扶桑社)など。退職後は札幌大学講師に。
今回、十勝の綿羊やジンギスカンについて調べてみましたが、当時の政府などの方針と非常に関連していたことが分かりました。
すると、クラーク博士像で有名な札幌市の観光地「さっぽろ羊ヶ丘展望台」にも同じような背景があったのでは…とさらに興味がわいてきました。
くわしく調べてみると面白そうですね。
概観 | |
---|---|
分類タグ | 焼肉・ジンギスカン |
住所 | 鹿追町栄町1丁目9 |
TEL | 0156-66-2115 |
営業時間 | 11:00 - 22:00 |
定休日 | 月曜・祝日 |
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