2008年12月22日(月)
NHKの医療問題番組を視て
日記×703
たった今終ったNHKの医療問題を取り上げた番組を視ていた人も多いのではないだろうか。
僕も視ていたんですが、かなり我慢が必要な番組でした。
番組の内容もさることながら、スタジオに集められた人達が、広く現在の実情にあった意見が聞ける面子かな?って。
僕は考え方古い方です。
職業に合った服装や髪型が求められる事は社会人として当たり前だと考える人間です。
その僕が見た研修医の姿に、かなり不満を感じました。
不満と言うより、憤りに近いね。
お医者さんにはお医者さんらしい、学校の先生にはそのような服装や髪型が必要です。
それは何か規定があるわけではないけれど、上司、先輩が手本を示す事で作り上げられるものだと思っています。
現実の社会に、キムタクや福山マサヒロみたいな医師はいらないんです。
今じゃ「服装の乱れは心の乱れ」が「人を外見で判断するな」に駆逐されてしまいました。
大人がそんなだから、中高校生が制服を滅茶苦茶にしても注意も叱る事も出来ないんです。
医師の世界は出身大学の医局制度によって徒弟制度のようのものがありました。過去形なのかな?
若いうちは下働きで経験を積み、医師としての技量を身につける、お給料は安い、時間も長い、あったりまえの事です。
それが我慢できないからと、自由に研修先を見つけたい、待遇の良い職場を求め、楽しみが多いからと都会での生活を望む。
大多数ではないと思うが、その方が得だと思う研修医が増えていることは確かです。
ツヤツヤとファション誌に出てるようなイタリア物のスーツを着てるような医者に、医者ばかりじゃなくて政治家もそうだけど、ロクな奴はいない。
見かけばかりに話が偏ったけれど、そればかりじゃありません。
若い勤務医が、病院での当直などの長時間勤務や低賃金、20万程と言ってましたが、開業してしまうなんて。
そりゃもちろん、かかろうとする患者がいるから出来るんだろうけど、世の中舐めてるぜ。
僕の住む町に、年老いた開業のお医者さんがいました。
僕は子供の頃、小児喘息とアレルギー体質で結構体が弱かったのです。
そのお医者さんにはとてもお世話になりました。
自転車に乗って往診にも来て下さいました。雨の日は合羽を着て。
祖母の臨終を看取って下さったのもその先生です。
東大の医学部を卒業して国立病院の院長まで勤めた先生でしたが、3人のお子さんを大学まで行かせる為にと開業されたそうです。
自宅の一部が診察室をなっている小さな医院でした。パートで来てくれる看護婦さんが一人だけ。
亡くなるその日まで、医師として現役でした。
勉強家で、山のような医学書の中にいて、テレビとラジオを常に2つ聴いてるような人でした。経済問題や政治にも詳しかった。
玄関には趣味の園芸で咲かせたきれいな花が絶える事がありませんでした。きれいな小さな花、ランタナと言うそうですが、僕が褒めると小さな鉢を分けて下さった思い出があります。
野鳥の会の活動も熱心で、市が進める運河のコンクリート化にも最後まで反対していました。
その運河も今じゃ藻で覆われて夏には異臭を放し、定期的な藻や堆積物の排除が必要で、泳いでいる鴨たちも市で放している状態です。
あれだけ立派な先生でさえ、贅沢とは無縁な生活でした。
しかし、小さな医院に集まる患者さんには年老いてちょっと見には分からなかったけれど、大きな会社の元会長や市長や県知事もいました。
立派な先生にはお金はなくとも尊敬は集まっていました。
携帯も留守番電話もなかった時代です。黒電話の。
「何時でも電話してきなさい」
この言葉にどれだけの安心感を患者がいただいたか説明もできないくらいです。
先生が亡くなって、奥さんから家の片付けを頼まれ伺った時のことです。
玄関にいつも停められてあった古い自転車の処分を託されました。
古い形の、フレームが三角形になってるタイプって分かりますか?スタンドも大きくて、ブレーキもワイヤーじゃないヤツです。
僕は奥さんに、往診に使っていた自転車のハンドルとサドルをつなぐフレームに跨るように掛かっていた黒い革鞄もいただけないかとお願いしました。奥さんは僕がもらってくれたら主人も喜ぶわ、と喜んでお譲りいただきました。
その自転車も鞄も、主はいないけれど、ハートは我が家で静かに眠っています。
僕がお医者さんに先生の影を求めるのは無理な相談なのでしょうか?
先生が生きていたら、番組を視てなんとおっしゃるだろう、そんな風に思いました。
僕も視ていたんですが、かなり我慢が必要な番組でした。
番組の内容もさることながら、スタジオに集められた人達が、広く現在の実情にあった意見が聞ける面子かな?って。
僕は考え方古い方です。
職業に合った服装や髪型が求められる事は社会人として当たり前だと考える人間です。
その僕が見た研修医の姿に、かなり不満を感じました。
不満と言うより、憤りに近いね。
お医者さんにはお医者さんらしい、学校の先生にはそのような服装や髪型が必要です。
それは何か規定があるわけではないけれど、上司、先輩が手本を示す事で作り上げられるものだと思っています。
現実の社会に、キムタクや福山マサヒロみたいな医師はいらないんです。
今じゃ「服装の乱れは心の乱れ」が「人を外見で判断するな」に駆逐されてしまいました。
大人がそんなだから、中高校生が制服を滅茶苦茶にしても注意も叱る事も出来ないんです。
医師の世界は出身大学の医局制度によって徒弟制度のようのものがありました。過去形なのかな?
若いうちは下働きで経験を積み、医師としての技量を身につける、お給料は安い、時間も長い、あったりまえの事です。
それが我慢できないからと、自由に研修先を見つけたい、待遇の良い職場を求め、楽しみが多いからと都会での生活を望む。
大多数ではないと思うが、その方が得だと思う研修医が増えていることは確かです。
ツヤツヤとファション誌に出てるようなイタリア物のスーツを着てるような医者に、医者ばかりじゃなくて政治家もそうだけど、ロクな奴はいない。
見かけばかりに話が偏ったけれど、そればかりじゃありません。
若い勤務医が、病院での当直などの長時間勤務や低賃金、20万程と言ってましたが、開業してしまうなんて。
そりゃもちろん、かかろうとする患者がいるから出来るんだろうけど、世の中舐めてるぜ。
僕の住む町に、年老いた開業のお医者さんがいました。
僕は子供の頃、小児喘息とアレルギー体質で結構体が弱かったのです。
そのお医者さんにはとてもお世話になりました。
自転車に乗って往診にも来て下さいました。雨の日は合羽を着て。
祖母の臨終を看取って下さったのもその先生です。
東大の医学部を卒業して国立病院の院長まで勤めた先生でしたが、3人のお子さんを大学まで行かせる為にと開業されたそうです。
自宅の一部が診察室をなっている小さな医院でした。パートで来てくれる看護婦さんが一人だけ。
亡くなるその日まで、医師として現役でした。
勉強家で、山のような医学書の中にいて、テレビとラジオを常に2つ聴いてるような人でした。経済問題や政治にも詳しかった。
玄関には趣味の園芸で咲かせたきれいな花が絶える事がありませんでした。きれいな小さな花、ランタナと言うそうですが、僕が褒めると小さな鉢を分けて下さった思い出があります。
野鳥の会の活動も熱心で、市が進める運河のコンクリート化にも最後まで反対していました。
その運河も今じゃ藻で覆われて夏には異臭を放し、定期的な藻や堆積物の排除が必要で、泳いでいる鴨たちも市で放している状態です。
あれだけ立派な先生でさえ、贅沢とは無縁な生活でした。
しかし、小さな医院に集まる患者さんには年老いてちょっと見には分からなかったけれど、大きな会社の元会長や市長や県知事もいました。
立派な先生にはお金はなくとも尊敬は集まっていました。
携帯も留守番電話もなかった時代です。黒電話の。
「何時でも電話してきなさい」
この言葉にどれだけの安心感を患者がいただいたか説明もできないくらいです。
先生が亡くなって、奥さんから家の片付けを頼まれ伺った時のことです。
玄関にいつも停められてあった古い自転車の処分を託されました。
古い形の、フレームが三角形になってるタイプって分かりますか?スタンドも大きくて、ブレーキもワイヤーじゃないヤツです。
僕は奥さんに、往診に使っていた自転車のハンドルとサドルをつなぐフレームに跨るように掛かっていた黒い革鞄もいただけないかとお願いしました。奥さんは僕がもらってくれたら主人も喜ぶわ、と喜んでお譲りいただきました。
その自転車も鞄も、主はいないけれど、ハートは我が家で静かに眠っています。
僕がお医者さんに先生の影を求めるのは無理な相談なのでしょうか?
先生が生きていたら、番組を視てなんとおっしゃるだろう、そんな風に思いました。
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