2009年10月5日(月)
中川昭一さんの死去に思う
日記×703
昨日中川昭一さんの突然の訃報に驚かされた。
2月のもうろう会見以来、氏の政治生命に大きな陰りが見えたわけだが、今日の状況を想像した人はいないだろう。
謹んでご冥福をお祈りします。
昨夜から今にかけて、マスコミは中川氏を高く評価する内容ばかりが目に付く。
今頃こんな風に持ち上げるのなら、2月の時点で少しは弁護してあげるべきだったと思うのは僕だけではあるまい。
そうすれば、彼は死なずにすんだのかも知れない。
思えば27年前、お父さんの中川一郎さんが自民党総裁選挙に立候補し、富山県にも遊説にやって来た。
当時僕は21歳で、少なからず中川代議士と、ここで中川さんを代議士と呼ぶのは、氏が人から「先生」と呼ばれることを嫌い、呼ぶなら「代議士」と呼ぶように、そう言っておられたことを思い出したからです、その中川代議士少なからずご縁があり、石川県の小松空港に降り立った氏と共に、故郷の福光町への墓参からその後の富山市での一日をご一緒した事がありました。
すでに敗色の濃い情勢ながら、笑顔を絶やさない温厚な人柄からか、富山でも人気はとてもありました。
当時まだ筆頭秘書だった鈴木宗雄氏も若くてツヤツヤの頃で、手を差し伸べられれば拒まない代議士の愛想の良さに、スケジュールは押しまくり、どうしても乗らなければならない特急列車を駅長室に駆け込んでお願いし、出発を停めてもらった事も昨日のことのようです。
当時はまだ国鉄の時代。駅長さんは今と違って力のあった時代です。一つ返事で特急もストップ。かっこよかった。
随行のスタッフや記者達と、なだれ込むように改札を抜けてゆく際に、いつもの見慣れたポーズで右手を挙げてこちらをちらりと見て目で合図をされて行ったことを思い出します。
当時青嵐会として、石原新太郎や浜田幸一など、今回の政権交代ですべて消えていってしまった政治家の集団があったことを覚えておられる人も多いだろう。
中川一郎代議士57歳、中川昭一氏56歳、
くしくも同年齢でこの世を去って行った二人の政治家がこれからも記憶に残ることはあるまい。
広尾に芽を出した政治家を志した種は、中川家2代の国会議員を輩出した。
今は静かに生まれ故郷に帰って行ったのだと思いたい。
改めてご冥福をお祈りします。
合掌
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