社会生活(51)
2007年2月17日(土)
山田悠子の就職活動
2006年12月28日(木)
『子育てコラム』 より2題をご紹介します
社会生活×51
以前ご紹介した『子育てコラム』の中の2題をご紹介します。
※リンクを張っても良かったですが、そのままお読み下さい。
私は、とても分かりやすく、又、自分の思っている事に近い内容だったので、そのまま引用させていただきました。
男らしさ、女らしさ
先日、仙台へ行って来ました。幼稚園についての講演を頼まれて、2時間お話しをさせてもらいました。2時間というと、映画なみ。長かったぁ・・・。
企業の経営者が100名ほどお集まりでした。男性がほとんどでしたが、もちろん女性もいらっしゃいました。女性もその能力を存分に発揮し、また女性らしい発想で会社を経営されている姿はとてもすばらしいものです。
最近、社会の様々な面で女性が活躍されることが多くなってきました。大変よい風潮だと思います。能力はあるのに「女性だから…」という理由で差別されることも段々と少なくなってきました。
でも、「女らしさ、男らしさ」という言葉まで「差別だ」といってしまうのはどうか、と私は思っています。ジェンダーフリーというこの活動。極端な場合、「男らしくしなさい」と男の子にいうことをも「差別だ、抑圧だ」と決めてしまう。私は男らしさや女らしさ、というのは、その国や地方における文化だ、と考えたいのです。それは文化的な性差に対する認識で、それまでを否定してしまうことは日本の文化をも否定することにつながるような気がするのです。
もちろん、発展途上国と呼ばれる国の中には女性に対してとんでもない扱いをしている国もあります。それは正すべきでしょう。しかし、今の日本に、その理屈をそのまま当てはめて男女の性差までもなくしてしまうのはどうかと思うのです。
子育ての現場にいて肌で感じるのは、やはりお母さんの、お母さんならではの深い愛情に包まれ、お父さんならではの厳しい愛情で接していただくことの大切さです。母性と父性がそれぞれ役割分担をしていただくことが、子どもたちの豊かな人間性を育てるポイントになると思っています。本能的に違うはずではないでしょうか。いくら頑張ったって男に子どもは産めないのですから…。
進歩的な方々は、時に日本の文化を「悪い」「遅れている」と決め付け、他の国の制度をそのまま取り入れよう、とされる。しかし、文化の基盤が違うのです。そこを知っておかないと、結局ひずみを生んでしまうこともあるのです。
極端すぎます「ジェンダーフリー」
一年程前に「男らしさ、女らしさ」というテーマで「ジェンダーフリー」についての疑問を書きました。
そもそも、「ジェンダー」という性別を表す文法用語と、「フリー」という言葉で解放を表そうとしたまったくの和製英語で、ほんの最近に作り出された活動です。
どんな主張なのか、文部科学省委嘱事業の「新子育て支援 未来を育てる基本のき」(発行 財団法人 日本女性学習財団)というパンフレットをのぞいて見ましょう。
まず、出産祝いに、女の子にはピンクの産着、男の子には水色の産着をプレゼントすることは「押し付け」、ひな祭りを女の子の節句として祝い、端午の節句を男の子の節句として祝うのもだめ。
なぜなら、その時点で大人の考える「男らしさ、女らしさ」を押し付けてしまい、型にはめ込んで、「子どもの個性を押しつぶしてしまう」からだそうです。
そして、「色白で優しそう」とほめられ、赤いランドセル、「○○さん」と呼ばれて育つ女の子は高校生の頃には
「好きな人にはつくしたい。おしゃれがしたい。もっとやせたい」
となり、「たくましい元気な子」とほめられ、黒いランドセル、「○○くん」と呼ばれて育つ男の子は「好きな人を守らねば。スポーツ万能になりたい。きちんとした職業につかないと」と考える子になってしまい、本来の個性と可能性が伸ばせなくなってしまうとのこと。
どうなんですかね、これ。
昨年、私が参加したパネルディスカッションで、会場から「ジェンダーフリーについて、幼稚園でどのような取り組みを?」と質問を受けました。
「男らしさ、女らしさはある面で日本人が継承してきた伝統であり、文化です。ひな祭りや端午の節句なども、私たちには伝統行事としてしっかり教えていく役割があると考えています」と私は答えました。
そもそも各家庭や個人が決める「らしさ」に口をだすこと自体、傲慢です。
※リンクを張っても良かったですが、そのままお読み下さい。
私は、とても分かりやすく、又、自分の思っている事に近い内容だったので、そのまま引用させていただきました。
男らしさ、女らしさ
先日、仙台へ行って来ました。幼稚園についての講演を頼まれて、2時間お話しをさせてもらいました。2時間というと、映画なみ。長かったぁ・・・。
企業の経営者が100名ほどお集まりでした。男性がほとんどでしたが、もちろん女性もいらっしゃいました。女性もその能力を存分に発揮し、また女性らしい発想で会社を経営されている姿はとてもすばらしいものです。
最近、社会の様々な面で女性が活躍されることが多くなってきました。大変よい風潮だと思います。能力はあるのに「女性だから…」という理由で差別されることも段々と少なくなってきました。
でも、「女らしさ、男らしさ」という言葉まで「差別だ」といってしまうのはどうか、と私は思っています。ジェンダーフリーというこの活動。極端な場合、「男らしくしなさい」と男の子にいうことをも「差別だ、抑圧だ」と決めてしまう。私は男らしさや女らしさ、というのは、その国や地方における文化だ、と考えたいのです。それは文化的な性差に対する認識で、それまでを否定してしまうことは日本の文化をも否定することにつながるような気がするのです。
もちろん、発展途上国と呼ばれる国の中には女性に対してとんでもない扱いをしている国もあります。それは正すべきでしょう。しかし、今の日本に、その理屈をそのまま当てはめて男女の性差までもなくしてしまうのはどうかと思うのです。
子育ての現場にいて肌で感じるのは、やはりお母さんの、お母さんならではの深い愛情に包まれ、お父さんならではの厳しい愛情で接していただくことの大切さです。母性と父性がそれぞれ役割分担をしていただくことが、子どもたちの豊かな人間性を育てるポイントになると思っています。本能的に違うはずではないでしょうか。いくら頑張ったって男に子どもは産めないのですから…。
進歩的な方々は、時に日本の文化を「悪い」「遅れている」と決め付け、他の国の制度をそのまま取り入れよう、とされる。しかし、文化の基盤が違うのです。そこを知っておかないと、結局ひずみを生んでしまうこともあるのです。
極端すぎます「ジェンダーフリー」
一年程前に「男らしさ、女らしさ」というテーマで「ジェンダーフリー」についての疑問を書きました。
そもそも、「ジェンダー」という性別を表す文法用語と、「フリー」という言葉で解放を表そうとしたまったくの和製英語で、ほんの最近に作り出された活動です。
どんな主張なのか、文部科学省委嘱事業の「新子育て支援 未来を育てる基本のき」(発行 財団法人 日本女性学習財団)というパンフレットをのぞいて見ましょう。
まず、出産祝いに、女の子にはピンクの産着、男の子には水色の産着をプレゼントすることは「押し付け」、ひな祭りを女の子の節句として祝い、端午の節句を男の子の節句として祝うのもだめ。
なぜなら、その時点で大人の考える「男らしさ、女らしさ」を押し付けてしまい、型にはめ込んで、「子どもの個性を押しつぶしてしまう」からだそうです。
そして、「色白で優しそう」とほめられ、赤いランドセル、「○○さん」と呼ばれて育つ女の子は高校生の頃には
「好きな人にはつくしたい。おしゃれがしたい。もっとやせたい」
となり、「たくましい元気な子」とほめられ、黒いランドセル、「○○くん」と呼ばれて育つ男の子は「好きな人を守らねば。スポーツ万能になりたい。きちんとした職業につかないと」と考える子になってしまい、本来の個性と可能性が伸ばせなくなってしまうとのこと。
どうなんですかね、これ。
昨年、私が参加したパネルディスカッションで、会場から「ジェンダーフリーについて、幼稚園でどのような取り組みを?」と質問を受けました。
「男らしさ、女らしさはある面で日本人が継承してきた伝統であり、文化です。ひな祭りや端午の節句なども、私たちには伝統行事としてしっかり教えていく役割があると考えています」と私は答えました。
そもそも各家庭や個人が決める「らしさ」に口をだすこと自体、傲慢です。
2006年12月24日(日)
子育てコラム
2006年12月22日(金)
方言いろいろ 関西~富山~とかち
社会生活×51
テレビ番組のご当地モノは、よりそれらしくしたいが為に方言を交える事が多いですが、そこに住む者が聞いて耳を疑う言葉使いも多いものです。
以前大阪で、とても有名な自動車会社の社長さん(おっさん)との会話。
※注)おっさんのしゃべるスピードは、ネコ撫で声のスローです
お(おっさん)「なぁ、自分とこ、車買わへんか~? ええのがなぁ、あんねん」
僕(maikyon) 「社長、どんな車でスか」
お「う・ぶ・な 車 や ね ん~♪」
僕「うぅ、うぶって、どないな車ですスぅ~?」
※このあたりでこっちもおかしくなってきています
お「あんな ぁ~、エンジンがな ぁ~、ピンクやねん」
関西地区は、住民がほとんど吉本化していますから、この程度はザラです。
道行く女性に、指でピストルを撃つ仕草「パきゅ~ん!」とやっても、
50%以上の女性が撃たれた真似か、逆に「心の準備してからにして~」なんて切り替えしてくるのが関西です。
同じような関西弁のネタに、
「これ、チャウチャウちゃう?」 (この犬はチャウチャウ犬ではないですか?)
「えぇ~、これチャウチャウちゃうんちゃう?」(えーっと、これはチャウチャウ犬ではないのではありませんか?)
「チャウチャウちゃうの?」(チャウチャウ犬ではないのですか?)
「チャウチャウちゃうわ!」(チャウチャウ犬ではないですね!)
こんなのも一時関西で流行ったみたいです。
でも、京都と並び称される関西弁も、若い人たちの中では、標準語に馴れている理由で、語尾、単語はともかく、イントネーションは随分ソフトになっています。
いわゆるベタベタの関西弁は、大阪のおばちゃんやおっさんしか話しません。
一昨日のボクシングの試合、兄弟がインタビューで話す関西弁は、おそらく関西の人が聞いても、かなり下品な、丁寧さのカケラもない話し方で、歳を考えれば、どうしたらあんな話し方が出来るのか、文化人類学的に調査が必要な程のしゃべり方。自分の倍ほどのジジイボクサーを殴っていい気になってるクソガキと、打たれたらイタチみたいに眼がしょぼくなるチャンピオンが、勝ったら言いたい放題なんて、不思議。
丁寧なしゃべり口でも、官舎に女性引っ張り込んでいる議員がいれば、チンピラの立ち話みたいなしゃべり方しか出来ないスポーツ選手を「礼儀正しい」などと擁護する、ご都合主義のグルグル巻き評論家や新聞記者もたくさんいます。
困ったものですね、ぽこぺん!
以前大阪で、とても有名な自動車会社の社長さん(おっさん)との会話。
※注)おっさんのしゃべるスピードは、ネコ撫で声のスローです
お(おっさん)「なぁ、自分とこ、車買わへんか~? ええのがなぁ、あんねん」
僕(maikyon) 「社長、どんな車でスか」
お「う・ぶ・な 車 や ね ん~♪」
僕「うぅ、うぶって、どないな車ですスぅ~?」
※このあたりでこっちもおかしくなってきています
お「あんな ぁ~、エンジンがな ぁ~、ピンクやねん」
関西地区は、住民がほとんど吉本化していますから、この程度はザラです。
道行く女性に、指でピストルを撃つ仕草「パきゅ~ん!」とやっても、
50%以上の女性が撃たれた真似か、逆に「心の準備してからにして~」なんて切り替えしてくるのが関西です。
同じような関西弁のネタに、
「これ、チャウチャウちゃう?」 (この犬はチャウチャウ犬ではないですか?)
「えぇ~、これチャウチャウちゃうんちゃう?」(えーっと、これはチャウチャウ犬ではないのではありませんか?)
「チャウチャウちゃうの?」(チャウチャウ犬ではないのですか?)
「チャウチャウちゃうわ!」(チャウチャウ犬ではないですね!)
こんなのも一時関西で流行ったみたいです。
でも、京都と並び称される関西弁も、若い人たちの中では、標準語に馴れている理由で、語尾、単語はともかく、イントネーションは随分ソフトになっています。
いわゆるベタベタの関西弁は、大阪のおばちゃんやおっさんしか話しません。
一昨日のボクシングの試合、兄弟がインタビューで話す関西弁は、おそらく関西の人が聞いても、かなり下品な、丁寧さのカケラもない話し方で、歳を考えれば、どうしたらあんな話し方が出来るのか、文化人類学的に調査が必要な程のしゃべり方。自分の倍ほどのジジイボクサーを殴っていい気になってるクソガキと、打たれたらイタチみたいに眼がしょぼくなるチャンピオンが、勝ったら言いたい放題なんて、不思議。
丁寧なしゃべり口でも、官舎に女性引っ張り込んでいる議員がいれば、チンピラの立ち話みたいなしゃべり方しか出来ないスポーツ選手を「礼儀正しい」などと擁護する、ご都合主義のグルグル巻き評論家や新聞記者もたくさんいます。
困ったものですね、ぽこぺん!
2006年11月3日(金)
ドクターのみなさまへ
社会生活×51
昨晩、年老いた母が、ちょっとした事件を起こしました。
僕よりも母自身が自信をなくすような事で、
小さい子供ならよくある事なのですが。
母は内科と整形外科に公立の大きな病院で定期的な診察を受けています。
そこから出される薬の量は半端ではありません。
痛み止めには必ず胃薬がついてきます。
こんなに薬を体に入れたら、健康な者でも体が排出できないような量です。
勉強不足お医者さん、さっさと医師を辞めなさい。
患者と話が出来ない虫みたいなお医者さん、よくもまあ、毎日出勤できますね。
若いお医者さん、チャラチャラとした髪型や服装で医者ずらして、検査に頼って薬を出しすぎないで下さい。
患者である私のほうが、自身の経験から適切な診断が出来る自信があります。
もちろん私はお医者さんじゃないけれど、治療には絶対的に経験が必要なはずです。
医療費抑制を掲げて、付随した胃薬だけで年間何百億も保険請求されている実態を皆さんはお気づきですか。