2012211(土)

「いのち」の連鎖を学ぶ


「いのち」の連鎖を学ぶ

またまたおひさしぶりです。

だんだんと続けることが
大変な(億劫)ことである事に
再確認している今日この頃です

よく しいく1さん しいく3さん は
サイゴまで続けてきたなぁ~


私にはマネできないですね(やっぱり!!)

最近はいない人はいない人
生き方も価値観も元々違うし
別々の生き方をして
別々の道を歩くのは
すごく自然なことであって

今は過去である
ただ それだけ

だからこそ

今は

こちらはこちらで
自分の道を
信じる道を
見つけたいと思っています

その道がいま
どこにあるかは
分かりませんが

さて、

途中で方向転換をして

ほどほど に 自分のペースでと
思っていると ずるずる 毎日が過ぎてしまった

あっ
追伸
ホッキョクグマが好きなひと
私のブログは
ホッキョクグマは出てきませんよ

ゾウも
そんなに出てきませんから

ごめんなさい!!
それ以外に関心を持っている人
・・・・

私の
ブログの後半戦
3月末まで
お付き合いよろしく




しかし 2月に入ってから 仕事は関係ないが
イイ趣味を見つけてしまったことは確かであった

最近 クレイモア?にはまっています
 テレサ? ミリア? シンシア? ガラテア?
(誰)
 がんばれクレア? ・・・プリシア?は強すぎる

と横道にそれたが・・・はい!そこのキミ!

   今の話は忘れてね!

 ブログも後半戦ってことで
 たまには出しますぐらいで行きますよ

途中までですけど、6月企画展を引っ張りに引っ張って
3月終わりころまでひっぱちゃおうかな?
旅は?・・・心の旅ということで 決めていない矢!!

さて、
動物園の動物は野生動物であって展示動物でもある

今日はその野生動物でもあり展示動物でもある肉食獣の
エサとして私たち動物園動物が使用している家畜動物(畜産動物)の写真を調理室から提供します


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下のバケツ
アザラシ、ペリカン ちなみにアシカ、ウミネコのバケツがある練ですが、


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ホッケを食べます
最近はニシンをアシカは食べています


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こちらも「いのち」ですよ


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こちらは牛肉です

ライオン、トラ、ホッキョクグマ、猛禽類、小獣(キツネなど)が動物園動物が食べているエサです
私たち人間も普段から好んで食べる牛肉です


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鶏肉です
コンドル、ライオン、トラ、ホッキョクグマが毎日ではありませんがエサとして使用しています

人間もフライドチキンは大好きですね


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こちらは ひよこです

ホッケ、牛肉、ニワトリもそうですが
冷凍して販売しているものを
数日前に冷凍庫から出して
自然解凍やホッケなど魚類は
水に移して明日の準備に備えます


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解凍して

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ひよこ
百五十以上二百匹ぐらいが板状で
凍って保存されています

こちらも「いのち」

このいのちをたべて
コンドル、オオワシ、フクロウ類は
「いのち」を今日まで消さないで
輝いている、あるいは保っているのです。



この事はわすれないで!!



六月企画展(昨年の)

展示はしなかったが
良い文章があったので
ブログで載せます

是非、お読み下さい
私は、子どもたちの
素直な気持ち、こころの中にこそ
大切な何か、人間としての何かが
あると思う
少なくとも
生きていくための教育であると思う


「いのち」の連鎖を学ぶ
肉をつくる現場が身の周りから排除、隠ぺいされてきた結果、私たちのいのちが多くの生き物の「死」によって支えられてるいという「いのちの連鎖」を実感できなくなって久しい。それが食べ物を大切にしないことにつながり、ひいては自分や他人のいのちをいのちをも軽んずる今の風潮を生んでいる遠因ではないか。そう考え、切れた鎖をつなぐ試みを始めたところも、わずかではあるが現れ始めた。
 ここに一人の女性教師が書いた文章がある。
〈小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べ物を捨てるということが、わたしには納得いかないのだ。わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単調な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気でたべられる」という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない〉
その問題意識から出発した鳥山敏子氏は、当時勤めていた東京の公立小学校の四年生たちに朝から絶食させ、稲刈りや水遊びをさせた後、二羽の鶏を河川敷に放ち、捕まえて屠鳥し、食べるという授業を行った。
さらに屠畜した豚を丸ごと一頭もらい受け、教室で解体、調理して食べる授業を展開していく。
その様子は彼女の著書『いのちに触れるー生と性と死の授業』に詳しいが、そこに紹介された子どもたちの作文が実にいい。
〈「バカバカバカっ、れい血人間」。なんどもなんどもさけびました。でも、もうだめでした。ほとんど殺されていました。大きい柱の後ろで、声も出さないで鳴きました。「も、もう、わたし、なんにも食べない」そう、わたしは言いました。でも、ほんとうはとってもおなかがすいていました。さっき、わたしがいったようなことをいった人も、しまいには「わたし、鳥の肉だけ食べない」といっています。なんだかなさけない気持ちです。でも、わたしもソーセージを二本、食べました。〉
〈私は、殺された豚を見てなきました。でも、できあがった肉は、ないたことなんか、すっかりわすれて食べていました。私がないたのは、見せかけだけのなき方だったと思います。もし、本当にないていたら、肉なんか見る気にもなれなかったと思います。私は、あの時、なぜないたかふしぎです。かわいそうでないたのか、それとも、自分をやさしく見せかけようとしてないたのかもしれません。〉

私たち人間はそういう生き物であり、だからこそ子孫を残して生き永らえてきた。
つまり、人が生きるために絶った他の生き物のいのちは、人の体の中で生き続け、子孫に受け継がれてきたのである。
人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。
いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。なのにそれが混同されている。その混同が差別や偏見を育て、混同にもとづく「死」の隠ぺいが、食べ物を粗末にし、いのちをないがしろにする今の風潮や自然破壊的な文化を助長してきた。
 その混同から脱すれば、「死」を生かし、肯定できるものにするためにはどうすればいいのかが見えてくるはずだ。


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