201245(木)

無痛化が奪う「生」の実感


無痛化が奪う「生」の実感

人は殺される動物を見て「痛み」を感じる。

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なぜなら人間には、相手の身に自分を置き換えて考える想像力があるからだ。もしもその動物だったら、どんなに恐ろしく、切なく、つらく、無念だろうと。


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 動物を殺す行為を目の当たりにしなくて済むようになった今、
 我々はその行為に伴って感じなければならなかった心の痛みを、一切感じなくてよくなった。


それは動物のいのちを絶つ行為だけにとどまらず、あらゆる心身の痛みを伴う行為を極力回避する方向にこの文明は進んできた。




 だが、痛みを感じるということは生の証であり、痛みを感じないというのは、生の実感がないということに等しい。




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痛みを感じなくとも生きられる社会は、生を実感しにくい社会でもある


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 「人間の壊れやすさを確かめる実験」を行った神戸の少年も、「人を殺す経験をしてみたかった」十七歳も、突き詰めるとヒリヒリするような生の実感を求めていたのではなかったか。


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凶悪犯罪を起こした少年の何人もが、事件前に動物の惨殺や虐待をしている事実は、それを物語っているように思えてならない。



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神戸の少年は人を殺し、その遺体を切り刻んだが、その過程で痛みを取り戻すことはなかった。今の子どもたちが「どうして人を殺していけないのか」と真面目に問いを発するのも、殺される側の痛みを自分のものとして感じとることができないからにほかならない。


 我々は痛みを伴う行為を「悪」として、身の回りから排除し続けてきた。



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だが、そうやって痛みを感じずに生きられる社会になったがゆえに、わが身に置き換えて痛みを感じる想像力をも欠落させた人間を生みつつある。




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ただ、いくら痛みを伴う「悪」として隠ぺいしようとも、人が生きるために動物のいのちを絶たねばならない事実は厳然としてある。

だから、社会が隠したその場所では、我々に代わって日々動物たちの「死」に立ち会っている人たちがいるのだ。そしてその人たちはやはり、それらの動物たちと自分の身を置き換えて考え、「痛み」を感じてしまうのである。


 日々、動物のいのちを絶つということは、日々、自分が殺される気持ちを味わっているということでもある。もちろん常に深刻に考えていたのでは精神が持たないから、極力感情移入せず、「つらいとは思わんように」心掛けている。けれども多くの人は殺される側の哀しさを心のどこかで共有している。


だからこそ安楽死処分を行う装置を「ドリームボックス」と呼んだり、いったん「生かす」と決めて飼育し初めた動物は何とかして生かそうと力を尽す。その生かすことへの執着は並ではない。


 要請を受けて徘徊犬を捕獲に行った先で、若い母親が子どもを家の中に追い立てながら「あんたも勉強せんと、あげん仕事ばせんごとなるよ」と言うのを耳にした人もいる。


 自分が痛みを感じたくないがために、その痛みを伴う行為を人任せにした上で、その行為を悪と見下す。


そんなわれわれの胸の内にこそ、本当の悪は宿っている。

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