201246(金)

ねじれた視線


ねじれた視線

「聖」から「賤」へ、


「人間社会でしか生きられないペットが人間社会からはじき出されたら、それは寿命が尽きたということ。その寿命を全うさせてやるのが我々の仕事だと思っています」




「いのちを奪うのはしのびないですが、その動物が持っていた寿命なんだと考えることにしています」





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 これを自分の仕事を正当化するための勝手な言い分と聞く人もいるかもしれない。けれど突き詰めて考えると、それがとても核心を突いた言葉であることに気づく。



 自然界の中で生きる野生動物の数は、弱肉強食の厳しい掟によって調節される。シマウマを捕えて食べるライオンや、ウサギを捕食するキツネがいるからこそ数のバランスは保たれており、彼らがいなければ食べられる側の動物が増えすぎ、環境悪化で多くの生物は種の保存すら危ぶまれることになる。




 それゆえ我々は捕食行動を「悪」とは言わないし、食べられた動物については寿命が尽きたのだと受け止める。


一方、人間界で生きるペットの数は、人が調節してやるしかない。


動物を人間に置き換えて考えた時にとんでもない人権侵害となる強制的な去勢や避妊が、動物愛護の名の下にむしろ推奨されるという矛盾が許容されているのも、数を調節する手段としては殺すよりも人の心の痛みが小さい。


 そしてそれらの方法でも十分に数をコントロールできない以上、あぶれたものを処分する作業がどうしても必要になってくる。でなければ、社会の許容限度をこえて数が増え、環境も安全も保てまい。


 自由が尊重されるこの社会の中で、人がペットを飼い続ける限り、処分という現実は避けては通れない。




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大切のこころは、むやみに生き物を殺すのはいいことではない。


しかし社会のため、自分や家族が生きるために、心の痛みをこらえて生き物を絶つ「強さ」を持つことは、とても神聖で尊いことだと私は思う。



 しかし優しさだけがもてはやされる風潮の中で、これらの仕事に向ける世間の眼差しのねじれは、むしろ隠ぺいに増幅されているように感じられる。そのねじれを正し、本来の畏敬の気持ちを呼び戻すことはできないのだろうか。ある処分施設で研修したペット専門家の学生らの感想文を二年分読ませてもらった。





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「毎日犬が死んでゆくのを見て涙が出なくなるのは心がマヒしているからですか?犬をカワイイとか素直に見れますか?というのが私の気持ちです」
「こんな近くで残酷なことが起こっているということを知りませんでした」・・・・・
職員のため息が聞こえるような記述が続く。



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気がめいっていた時、用紙の欄外にははみ出して書かれた文に目が留った。「職員のみなさん、いつもお仕事ごくろうさまです。誰かがしなければならない仕事を責任もってなさっているみなさま方をすごく尊敬しています」





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涙が出た。


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