どうぶつ「観察日記」_6(202)


201246(金)

「いのち」の循環をみつめて


「いのち」の循環をみつめて

 犬猫を処分する業務に携わる人たちが仕事に割り切れなさを感じている理由の一つとして、安楽死させた犬猫の体がただちに重油で焼却されていることもあげられるかもしれない。




 彼らの死によって人の役にたつ物が作られるのであれば意義を見出しやすいが、焼却されて後には骨灰しか残らない。実際は地域社会の安全と良好な環境が生み出されているのだが、それらは目に見えないから意義を実感しにくいのである。



 大半の施設が焼却後の骨灰をゴミとして最終処分場に捨てている中で、福岡県動物管理センターは有機農法のグループに肥料として無償で譲渡している。せめて焼いた後の骨だけでも役立ててやりたいとの思いから。



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夏の一日、そのグループの農園を訪ねた。
「年に軽トラック五台分くらいもらってくるかな。死んだもんは土に還って、また新たな命を生む。それが宇宙の法則だから。犬猫の骨ということには何のわだかまりもありません。キリッとした甘味の出る最高のリン酸カルシウム肥料ですよ」




グループのリーダーはそう言って、日に焼けて真っ黒になった顔をくしゃくしゃにする。その彼も事情を知った女性から、「そんなもんで育てた野菜は食いきらん」と言われた経験がある。



消費者からの同様の拒絶反応を警戒して、
犬猫の骨を肥料にしていることを公にはしていない。
ほとんどの施設の骨灰が利用されずに捨てられているのも、そうした世間の意識が背景にあってのことだ。


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 犬猫の骨を土に還して利用することさえ拒絶しようとする
このグループはもらってきた骨灰を粉砕器にかけて粉状にして、
堆肥や米ぬかと混ぜて熟成させたボカシ肥料にして畑に施している。
「骨灰のまま入れても、土の中の鉄やアルミナに吸着されて四十日ぐらいしか効きません。堆肥のフミン酸でくるんでやると吸着されにくくなるから長く効きます。ボカシにする時になじんだ土壌菌が一番です」



骨灰はそこまでこだわり抜いて使われているのだった。



我々は「死」を身の周りから遠ざけてきたのだと同様に、「死」を「生」に変える土を「汚いもの」として疎んじ、土から離れた生活を追い求めてきた。





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それは我々が「いのち」の循環性に目を向けず、一回限りの「自我の生」のみにこだわった文明を育ててきたということを物語っている。


グループのリーダーは「死んでも、次の役目がありますから。私らの年齢になると、死の床に就いている年寄を見舞いにいくことも多いです。腹割って話すと、みんな『死にたくない』って言います。




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その時、いつも言うのです。何を言っている。死ぬんじゃなくて、次に生まれ変わるんでしょう。体は一度、世の中にお返しして、また生まれ変わってくるんでしょう。




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するとみんな『そうだね』と言いますよ。」
彼の案内で、骨灰を肥料にして施した畑を見て回った。除草剤を使っていないため雑草の海と化した畑の中で、茎やつるを伸ばしたナスやトマト、スイカなどが見事な実をつけている。


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小屋の前に黒い育苗ポットが並んでいた。

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見ると、芽生えたばかりのキュウリの双葉が、空に向かって広げ、太陽の光をいっぱいに浴びていた。その土にも犬猫の骨が肥料として施されている。


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死んだ彼らのいのちが
新しいいのちとなって、
確かにそこに息づいていた。

作者はうれしくなって、





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カメラのシャッターを何度もきった。




いつか冷たい雨が
雪が降る
駅の片隅で
誰にもいたずら
されないように
うずくまっている年老いた犬
パンをあげても見てるだけ
時が来れば汽車に乗る私

泣くことのほか
何もしてあげられない私

広い道路の真ん中で
ひかれてしまった三毛猫
その上を何台もの車が
通り過ぎてゆく

思わず目を閉じてしまった
私を許して下さい

みんなだって
そう思っていると
信じたいのです

うしやとりやおさかなも
「人間のためにあるのよ
さあ残さずに食べなさい」
そんなふうに言う
おかあさんには
なりたくありません

でも私だって食べて
育ってきたのだし
虫だって殺したことも
あります

だから
だから
お願いです
もう 役にたたなくなったら
捨ててしまったり
自分本位でかわいがったり
小さな檻に閉じ込めて
バカにしたり
汚がったり
人間だけが偉いんだ
なんてことだけは
思はないで下さい
人間以外の
ものたちにも
もっと優しくして下さい
同じ時を
生きているのだから
朝が来れば 
夜も来るし
生まれて
そして死んで行く
私が土になったら
お花たちよ
そこから咲いてください


by イルカ


この記事のURL2012-04-06 18:36:44

201246(金)

ねじれた視線


ねじれた視線

「聖」から「賤」へ、


「人間社会でしか生きられないペットが人間社会からはじき出されたら、それは寿命が尽きたということ。その寿命を全うさせてやるのが我々の仕事だと思っています」




「いのちを奪うのはしのびないですが、その動物が持っていた寿命なんだと考えることにしています」





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 これを自分の仕事を正当化するための勝手な言い分と聞く人もいるかもしれない。けれど突き詰めて考えると、それがとても核心を突いた言葉であることに気づく。



 自然界の中で生きる野生動物の数は、弱肉強食の厳しい掟によって調節される。シマウマを捕えて食べるライオンや、ウサギを捕食するキツネがいるからこそ数のバランスは保たれており、彼らがいなければ食べられる側の動物が増えすぎ、環境悪化で多くの生物は種の保存すら危ぶまれることになる。




 それゆえ我々は捕食行動を「悪」とは言わないし、食べられた動物については寿命が尽きたのだと受け止める。


一方、人間界で生きるペットの数は、人が調節してやるしかない。


動物を人間に置き換えて考えた時にとんでもない人権侵害となる強制的な去勢や避妊が、動物愛護の名の下にむしろ推奨されるという矛盾が許容されているのも、数を調節する手段としては殺すよりも人の心の痛みが小さい。


 そしてそれらの方法でも十分に数をコントロールできない以上、あぶれたものを処分する作業がどうしても必要になってくる。でなければ、社会の許容限度をこえて数が増え、環境も安全も保てまい。


 自由が尊重されるこの社会の中で、人がペットを飼い続ける限り、処分という現実は避けては通れない。




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大切のこころは、むやみに生き物を殺すのはいいことではない。


しかし社会のため、自分や家族が生きるために、心の痛みをこらえて生き物を絶つ「強さ」を持つことは、とても神聖で尊いことだと私は思う。



 しかし優しさだけがもてはやされる風潮の中で、これらの仕事に向ける世間の眼差しのねじれは、むしろ隠ぺいに増幅されているように感じられる。そのねじれを正し、本来の畏敬の気持ちを呼び戻すことはできないのだろうか。ある処分施設で研修したペット専門家の学生らの感想文を二年分読ませてもらった。





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「毎日犬が死んでゆくのを見て涙が出なくなるのは心がマヒしているからですか?犬をカワイイとか素直に見れますか?というのが私の気持ちです」
「こんな近くで残酷なことが起こっているということを知りませんでした」・・・・・
職員のため息が聞こえるような記述が続く。



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気がめいっていた時、用紙の欄外にははみ出して書かれた文に目が留った。「職員のみなさん、いつもお仕事ごくろうさまです。誰かがしなければならない仕事を責任もってなさっているみなさま方をすごく尊敬しています」





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涙が出た。


この記事のURL2012-04-06 14:07:51

201246(金)

徹底した排除の後に


徹底した排除の後に

 福岡県の動物管理センターには、一般の動物棟とは別に子犬舎があります。



不要として飼い主が持ち込んだ子犬のうち、生後二、三ヶ月の雄で、見た目がかわいい中型犬という条件を備えているものを選んで、予防注射や病気治療を行いながら飼育しているのだ。子犬は月に一、二回開かれる譲渡会で、希望する一般家庭にもらわれていく。



「すべて救えればいいですが、成長後、その犬や産んだ子が不要犬や捨て犬として戻ってきたら意味がないですから」
 子犬を選別する条件も「現実」との兼ね合いの中で導き出されたものなのである。



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 Fさんのセンターでは、譲渡会の子犬と模範犬として飼育している四匹の成犬を保育園や幼稚園に派遣する「ふれあい教室」を、2000年七月から始めた。



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マンションなどの集合住宅で暮らし、犬を飼えない子供たちに犬との付き合い方を教え、いのちについて考えさせるのが狙いだ。教室では、子犬の心臓の音を聴診器で聴いてみる、仕種や表情から犬の感情を読み取る方法などを教える。教室は好評で、派遣要請は相次いでいる。


 このセンターにかつて、ある動物愛護家が処分前の犬をもらい受けに通ってきた時期がある。しかしあまりの多さに、やがて音を上げた。「動物の顔を見ると助けたくなるから、もう来ないようにします」そう言ってその人は訪ねて来なくなったという。




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安楽死処分を行いながら、
その現実の中で「生」をはぐくんでいる人々と、
現実から目をそらし、
「優しさ」の中に安住している我々と、真に讃えられるべきは果たしてどちらだろうか。

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 センターの運営を県から任せられている会社の社長が何気なく漏らした言葉が耳によみがえる。

 「二、三日前にラジオでこんなことを言っていた。ある家で年寄が死んだ時、その孫が言った。



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『わっ、汚い』

そういうことが今、現実にありえる」


 我々は快適さのために、身の周りからから汚いもの、臭いもの、イメージの悪いものを排除してきた。その最右翼が「死」だ。


そして本物の「死」を徹底的に遠ざける一方で、
メディアが提供する


無色無臭の「バーチャルの死」と
ばかり親しんできた。


その結果、ついに心の痛みまで感じられなくなりつつあるのではないか。


 「死」を見つめることで、哀れや人の痛みを知る。
そういうことは確かにある。


この記事のURL2012-04-06 08:40:30

201245(木)

事件と動物虐待との関連性(事件簿)


動物虐待に関する事件簿


1997年 神戸連続児童殺害事件

当時中学3年生男子が小学生男児を殺害、学校の門に頭部を置く。
同一男子が女児一人を殴打(死亡)一人を刺す。

動物虐待の過去
小学校高学年から10匹以上の猫を殺害。友人に切り取った猫の舌を見せるなど動物虐待を誇示。男児の頭部を置いた校門の同じ場所に数日前に猫数匹を切り裂き置く。女児を殴打した数日前に近隣の猫をやはり殴打して死亡させている。母親がBB弾で庭に入ってきた猫を撃っていたことから猫殺しの罪悪感や違和感が希薄となり、庭にいた猫に石を投げて痙攣(けいれん)死させたことが、猫殺しの発端となった。




1998年 連続幼女殺害事件

女児4名を誘拐・殺害

動物虐待の過去
小学校高学年の時に何十匹ものトンボの羽を毟(むし)っていた。飼い犬の首を針金でしめる。鳥を捕まえて半生に焼いて飼い犬にたべさせようとした。スズメを石で落として、食べようとした猫を冷蔵庫の後ろへ追い込み、熱湯をかけ、冷蔵庫を押し圧死させた。母親の供述「すぐカッとなる性格で気に入らないことがあると窓ガラスを割ったり、イヌやネコを虐待したこともありました」

2000年1月 新潟少女監禁事件

女児を9年に渡り、監禁していた

動物虐待の過去
猫を殺していたという目撃証言




2000年5月 佐賀バスジャック事件

乗っ取ったバス内で3人の女性を切りつけ、一人を殺害

動物虐待の過去
飼っていたハムスターの尻を持ってぶら下げたり、高いところから叩きつけて血を吐かせるなどの虐待。腹が立つと飼い犬を蹴り上げるなどの暴力。



2000年8月 大分一家6人殺傷事件

当時15歳の少年が一家6人を殺害3人死亡

動物虐待の過去
残虐なテレビゲーム・ホラー映画を好み、猫を苛(いじ)める姿が目撃されていた。犯行2ヶ月前に子猫を水につけて、水死させようとしているところを近隣の人に注意を受け、引き上げて子猫を蹴るなどの行為をした(終始、冷静な表情)。




2000年9月 千葉金槌事件

当時中学3年の少年が通りがかりの中学一年生の男児の頭を金槌(かなづち)で殴る。

動物虐待の過去
少年が残したメモ「これが許されるならば、私はどんどん人を殺す」「猫を殺すことによってやすらぎを得る」「いつかは人もやるつもり」いづれも末尾に「殺人猫」と署名。




2000年12月 歌舞伎町のビデオ店に手製爆弾

当時高校2年生(17歳)の少年による犯行。

動物虐待の過去
数年前から部屋に引きこもりがち。小動物をエアガンで虐待し、「安楽死・・」など口走る異常な行動がみられた。少年がイヌやネコ・鳥をエアガンの標的にすることは一部の級友達の間では有名だった。




2001年6月 池田小学校乱入児童殺傷事件


動物虐待の過去
少年期の頃から障害・恐喝・放火未遂・詐欺・動物虐待などを繰り返し、兄も自殺に追い込む。中学生の頃に、猫を虐待、水死、焼き殺すなどの問題行動を繰り返し起こしていた。




2003年9月 新潟少女誘拐監禁事件

中3の少女を車ではねてから誘拐、監禁

動物虐待の過去
引きこもり、動物虐待や家庭内暴力を起こしていた。




2004年6月 新宿高田馬場幼児突き落とし事件

中2の少女が5歳の男児を突き落とす

動物虐待の過去
母の母国マレーシアから転向後、学校飼育動物(ハムスター・魚・鶏)を次々と殺害。




2004年11月 奈良少女誘拐事件

当時36歳新聞販売員が女児を誘拐・殺害

動物虐待の過去
弱いものイジメ、対象は年少者・障害を持つ同級生。動物販売店で飼っている犬を殴るなど虐待を繰り返していたことを近隣の住民が目撃。




2005年11月 母親毒殺未遂

当時16歳の女子高生が母親をタリウムで毒殺しようとした。

動物虐待の過去
家族が警察に「少女が以前にも猫を殺したことがあり、母親の容態がおかしい」と不審を抱き相談したことから事件が発覚。以前から小動物で毒殺の実験をしていた。




2005年4月 大阪ハンマー事件

17歳の少年が4歳の児童をハンマーで殴る

動物虐待の過去
死体などを扱ったインターネットを見たことがきっかけ。動物虐待を繰り返していると周囲に話していた。「人を殺したい」「自宅近くの公園にいた猫をナイフで殺した」「エアガンで猫を撃った」など動物虐待を友人に自慢していた。2004年から2005年のはじめにかけて少年の供述を裏付けるかのように、周囲の大阪の公園では猫の虐殺死が問題になり度々新聞で取り上げられていた。




2005年4月 青森祖母殺害事件

89歳の祖母を孫が灯油をかけて殺害

動物虐待の過去
32歳の無職男性が飼い犬に火をつけて虐待していたところを祖母が止めに入り、祖母に灯油をかけて火をつけて殺害。




2006年12月 コンクリ詰め遺体事件

交際相手の男性(66歳)を殺害し、コンクリで埋め同居の男と長女を連れてその連れてその家で団欒

動物虐待の過去
加害者の女性(40)が長女と同居の男性の前でペットの犬を刺殺し、自分を身の危険を感じた同居の男が警察に駆け込み、事件が発覚。




2007年3月 千葉毒殺未遂

レストラン経営女性(55)が係争中の知人男性を毒殺未遂

動物虐待の過去
2002年6月ごろに毒物を入手。隣の家の犬の餌に毒物を混入して致死量を計算し犬を毒殺。飼い主は被害届を出していた。2006年8月に知人毒殺を決行するが未遂に終わる。




2007年5月 北区少年5人ホームレス襲撃事件

リーダー格A(当時17歳)は中学時代から猫の虐待などを繰り返し、「ホームレスは役に立っていない。イヌ・ネコと同じで死んでもいい」と供述。ホームレスは火ダルマとなり、大やけどを負う。



参考文献は
君はぼくの声になる
歩きはじめたそれぞれのこげんた物語(ストーリー)
by mimi(ハート出版)


ブログ4月5日
・無痛化が奪う「生」の実感

参考資料です。ピン芸人!


この記事のURL2012-04-05 16:19:55

201245(木)

無痛化が奪う「生」の実感


無痛化が奪う「生」の実感

人は殺される動物を見て「痛み」を感じる。

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なぜなら人間には、相手の身に自分を置き換えて考える想像力があるからだ。もしもその動物だったら、どんなに恐ろしく、切なく、つらく、無念だろうと。


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 動物を殺す行為を目の当たりにしなくて済むようになった今、
 我々はその行為に伴って感じなければならなかった心の痛みを、一切感じなくてよくなった。


それは動物のいのちを絶つ行為だけにとどまらず、あらゆる心身の痛みを伴う行為を極力回避する方向にこの文明は進んできた。




 だが、痛みを感じるということは生の証であり、痛みを感じないというのは、生の実感がないということに等しい。




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痛みを感じなくとも生きられる社会は、生を実感しにくい社会でもある


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 「人間の壊れやすさを確かめる実験」を行った神戸の少年も、「人を殺す経験をしてみたかった」十七歳も、突き詰めるとヒリヒリするような生の実感を求めていたのではなかったか。


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凶悪犯罪を起こした少年の何人もが、事件前に動物の惨殺や虐待をしている事実は、それを物語っているように思えてならない。



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神戸の少年は人を殺し、その遺体を切り刻んだが、その過程で痛みを取り戻すことはなかった。今の子どもたちが「どうして人を殺していけないのか」と真面目に問いを発するのも、殺される側の痛みを自分のものとして感じとることができないからにほかならない。


 我々は痛みを伴う行為を「悪」として、身の回りから排除し続けてきた。



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だが、そうやって痛みを感じずに生きられる社会になったがゆえに、わが身に置き換えて痛みを感じる想像力をも欠落させた人間を生みつつある。




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ただ、いくら痛みを伴う「悪」として隠ぺいしようとも、人が生きるために動物のいのちを絶たねばならない事実は厳然としてある。

だから、社会が隠したその場所では、我々に代わって日々動物たちの「死」に立ち会っている人たちがいるのだ。そしてその人たちはやはり、それらの動物たちと自分の身を置き換えて考え、「痛み」を感じてしまうのである。


 日々、動物のいのちを絶つということは、日々、自分が殺される気持ちを味わっているということでもある。もちろん常に深刻に考えていたのでは精神が持たないから、極力感情移入せず、「つらいとは思わんように」心掛けている。けれども多くの人は殺される側の哀しさを心のどこかで共有している。


だからこそ安楽死処分を行う装置を「ドリームボックス」と呼んだり、いったん「生かす」と決めて飼育し初めた動物は何とかして生かそうと力を尽す。その生かすことへの執着は並ではない。


 要請を受けて徘徊犬を捕獲に行った先で、若い母親が子どもを家の中に追い立てながら「あんたも勉強せんと、あげん仕事ばせんごとなるよ」と言うのを耳にした人もいる。


 自分が痛みを感じたくないがために、その痛みを伴う行為を人任せにした上で、その行為を悪と見下す。


そんなわれわれの胸の内にこそ、本当の悪は宿っている。

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この記事のURL2012-04-05 12:10:47

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