旅行記(41)


2019122(月)

2018年インド・スリランカ旅行記・21


2018年インド・スリランカ旅行記・21

7月某日 PM22:00頃。

帯広市内の屋台でカレー屋のおっさんとフランスの若者が、めんどくさい政治談議をしていた。
酔った私が質問したのは、第二次世界大戦中のフランスの「ヴィシー政権」について。
なぜビンセントが沈黙し「この話は、フランス国内ではタブー」と言ったのか。

ビンセントが言葉を選びながら説明を始めた。
タブーである一番の理由は、ユダヤ問題が関係しているのだという。
「ユダヤだって!?」
それは知らなかった。
私の無知のなせる質問だったのだ。

彼の説明によると、ヴィシー政権時代に、ナチスの強制ではなく、フランス人自身でユダヤ人狩りを行い、ホロコーストのため強制収容所に送り込んだのが問題なのである。
忌まわしい歴史の暗部ということらしい。
「最近になって、大統領も公式にユダヤ民族に対して謝罪をしました」
(後日調べてわかったことだが、2012年オランド大統領が確かに公式に謝罪していた)

すっかり空気が重たくなってしまった。
「・・・ビンセント。家に戻って飲みなおそうか?」
「そうですね」
翌朝になり、迎えに来た男性にお礼を言って、ビンセントと別れた。


そして1週間後。
知床からビンセントが戻ってきた。
また要領よくヒッチハイクをして、帯広の私の店まで自力でやってきた。
今回も私の所で一泊することになった。

この日は営業中だったので、彼には店の中で好きにいてもらった。
「せっかくなので食べていきます。お金も払います」
「そうだな。労働の対価として、今回は受け取ろう」
ビンセントは、ポークビンダルーとチーズクルチャを食べた。
「本場ゴアより、うまいだろ?」
ポークビンダルーは私たちが知り合った場所インド・ゴア州の名物カレーなのだ。
私が冗談を言ったら、彼は右手の親指を立てていた。

翌朝
朝食を用意している間、ビンセントは手紙を日本語で書いていた。
「ヒッチハイクでお世話になった人に送ります。日本語の文章が間違っていないか、ちょっと見てもらえませんか?」
「いいよ」

私は作業の手を休め、彼の手紙を読み始めた。
漢字も使って日本語で書いてある。
一年しか日本に滞在していないのに、たいしたものだ。

だが、日本語としては怪しい言葉遣いや表現が見受けられた。
手紙を受け取った人は完璧な文章を読むよりも、間違った表現や文字があったほうが「外国人が日本語で一生懸命に手紙を書いた」リアリティを感じるし、嬉しいのではないだろうか、と私は思った。
私は明らかな漢字の誤り以外の訂正をせず、手紙を返した。
「ビンセント、ばっちりだ。完璧。これで出しなよ」
「本当?ありがとう」

朝食をとりながら、彼は本日中に札幌方面に行きたいと言ってきた。
「店の営業もあるし、さすがに札幌は無理だな。次の休みまで待てるなら連れていくけど。それまで帯広にいてもいいぞ?」
「青森のねぷた祭りに行きたいので、スケジュール的に難しいです」
「そうか、じゃあしょうがないな」
「それにあと2週間で日本の滞在は終わり。フランスに帰らなければなりません」
「時間がないんだな。さて、どうするかな・・・」

しばらくスマホに触れたあと、ビンセントは十勝清水に行く、と言い出した。
「ここは峠越えで札幌方面に向かうドライバーが多いと思う。ヒッチハイクしやすい」
スマホを見ながら、彼はこういうことを言う。
本当に頭がキレる若者だ。

「なるほど。確かに都市部よりも可能性があるな。そうだ!JRで十勝清水までいける」
私がネットでJRの運航ダイヤを調べてみたら、最寄り駅から1時間後に十勝清水行きの列車が出発することがわかった。
開店前の準備を慌ただしく終えて、車で駅に向かった。

車中での会話。
「なぜ日本人は、私にお金を払わせないのでしょうか?」
ビンセントがヒッチハイクで同乗中、その時々の運転手は飲み物や食べ物を彼に無償で与え、ホテルの宿泊代まで援助してくれた人がいたのだという。
私にはよく理解できる。
彼にお金を払わせなかった人たちの気持ちが。

「もしあなたがフランスに来たら、自分の支払いは必ずさせられます」
納得いかない表情のビンセント。
「そうか。でも私が旅をしたアジアや中南米は同じだったよ」
「どちらと?日本?フランス?」
「日本とだよ」
「そうなんですか・・・」
彼はショックを受けている様子。

列車が定刻通り到着し、ここでお別れ。
「いつかまた来たいですね、帯広に」
ビンセントはこの街を気に入ってくれたようだ。
「ああ、いつでも。官僚になって出世したら私をフランスに呼んでくれよ、文化交流とかの口実でさ。あはははは」
ハグしたあと、彼は列車に乗った。
見えなくなるまで手を振り続ける。



私はビンセントが北海道に行きたいと連絡をくれたとき、彼の面倒を徹底的にみようと決めた。
かつて自分自身が東南アジアや中南米で、たくさんの人たちに助けてもらい旅をしたことを思い出したのだ。

今度は私の番だ。
私が旅人の世話をする番が回ってきたのだ。
今まで自分が旅先で受けた恩を今回はビンセントに少し返しておこう。

ビンセントがフランスに戻ったら、北海道の話や帯広の話をするのだろうか?
もし彼の話を聞いたフランス人が北海道に興味を持ってくれて、遊びにきてくれたら面白いな。
そしてビンセントも、いつの日かフランスに来た旅人の面倒をみるかもしれない。
そうなったら面白いな!
そんなことを考えると、私は愉快でたまらない気分になってくるのだ。

誰かが誰かに善意のバトンを手渡していくように、世界はグルグル回っている。
そんな世界もある。
私は信じている。

2018年インド・スリランカ旅行記 終わり

長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
特に、最初から続けて読んでくださった、あなた。
感謝してます、ありがとう。

合掌



2019121(日)

2018年インド・スリランカ旅行記・20


2018年インド・スリランカ旅行記・20

以下は帰国後の余談である。

2018年7月下旬。
インド・スリランカの旅から戻り、4ヶ月が経過した。
季節は夏へと変わった。
私は地元の北海道・帯広市でカレー屋の営業をいつもの通り行っていた。
そんなある日のことである。

「おっ!」
facebookメッセンジャーにメールが入った。
送信元を見て、意外な人物からの連絡に驚く。
インド旅行中に出会った若者・ビンセントだ。

彼は東京の大学に留学している。
「来週北海道に遊びに行きます。あなたのお店に寄ります」
と、メールに書いてある。
そうか、あいつ北海道に遊びに行きたいって言ってたな。
本当に来るんだ。
安い飛行機のチケットが取れたのかな。
楽しみだ。


あと一週間あるな、と呑気に構えていたら、なんと連絡から3日後に彼は現れた。
ヒッチハイクで東京から陸路で北上し、青森から函館間をフェリーを使って、北海道の帯広まで来たという。
ヒッチハイクが予想以上にうまくいって、旅が早く進んだらしい。

北海道は函館から札幌まで行き、札幌で停車中の自動車の中から帯広ナンバーを探して、片っ端からドライバーに声をかけていったら、乗せてくれる親切なドライバーが現れたのだという。
帯広という漢字が読めるのか・・・ビンセントの頭のキレと行動力に驚嘆する私。

私の店がタイミングよく定休日だったので、久しぶりに繁華街に行き、彼のリクエストに応えジンギスカンを食べることにした。
食事をしながら、今後の予定をビンセントに聞く。
今日は私のところで一泊し、翌日知床へ向かうという。

「知床までヒッチハイクで行くつもりなの?」私が聞いた。
「今日ここまで送ってくれた方が、明日仕事で斜里まで行くので、また乗せてもらうことになっています」
「君はツイているな。斜里から知床は目の前だよ」
食事の会計時に、彼は自分の食べた分を払おうとするが、私は受け取らない。
ヒッチハイクで私に会いにきた若者に支払わせるわけにはいかない。

二次会は屋台で串揚げを食べる。
ビンセントはチーズの包み揚げが好みのようで、次から次へと追加オーダー。
酒も強く、気持ちよく飲んで食べてくれる。

以前彼との会話で日本の政治に興味があるといっていたことを思い出した。
詳しく話を聞いてみると、現代政治ではないようだ。
話が混み合ってきたので、彼はスマホの翻訳アプリを使って正確に伝えようとしていた。
どうやら幕末から明治時代の日本の政治に興味がある、と彼は言っているのだ。
なぜか?
日本史に詳しい人なら当然ご存じだろうが、フランスは幕末の日本に大きく関わっている。
特に幕府側の支援をしていたのがフランス。
薩長(薩摩藩・長州藩)の倒幕側を支援したのがイギリス。

「留学中に、これを勉強していました」と私にスマホの画面を見せる。
スマホの翻訳アプリで表示されているのが「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の文字。
ものすごくザックリ説明すると、明治時代に行われた仏教への弾圧運動である。
「凄いこと勉強しているな、ビックリだ。日本人でも理解していない人は多いと思う」
やはりインテリは考えていることが違う。

ならば、インテリのビンセント君に、あえて聞いてみよう。
「私は君の国、つまりフランスのヴィシー政権の時代に興味があるんだ。君はどう思っているの?」
ヴィシー政権とは、第二次世界大戦中のナチス占領下のフランスのことである。
私はこの時代のフランスについて、自国の若者がどのような教育を受けているか興味があったのだ。

欧米人にナチスについて触れることは失礼な行為だったかもしれない。
そして占領下の自国について質問されたら愉快な気分はしないだろう。
初対面の外国人には絶対しない質問だ。

でも大丈夫だろう。
ある程度の人間関係が両者にできていると、私は考えていた。
フランス人は議論好きだと噂を聞いているし、こうした踏み込んだやり取りの結果、人間関係がより深まるものだと思っていた。
それに、ここはビンセントの自国フランスではないし、自国語で話すわけではないので、政治的な話をしてもリスクは少ないのでは、と私は思ったのだ。

沈黙の時間が流れた。
騒がしい店の中での会話だから、聞こえていなかったかと思い、私は同じ台詞をもう一度繰り返した。
「大丈夫、聞こえています。あなたの言っていること、わかります」
考え込んでいるビンセント。
「じゃあ、なぜ・・・」
「どう説明すればよいのか、考えていました」
「・・・」
「この話題は、フランス国内ではタブーなのです」
深刻な表情でビンセントが答えた。
「タブー?」
私はやはり、地雷を踏んでしまったようである。

つづく



20191130(土)

2018年インド・スリランカ旅行記・19


2018年インド・スリランカ旅行記・19

3月7日

40日の旅程を終え、日本への帰路に着くことになった。
空港での搭乗手続きも滞りなく終わり、フライトの遅延はないとの情報。
ここまで順調である。

乗り込んだスリランカ航空の機内で、面白い出会いがあった。
私の隣に座った男はパキスタン国籍で、日本で働くパキスタン料理のシェフだったのだ。
スリランカ航空はコロンボを中継地として、パキスタンにも路線がたくさんある。
だからスリランカ人以外に、パキスタン人がたくさん乗ってくる。

彼の日本語はペラペラ。
「私も料理人で北海道でカレー屋やってます」と彼に言うと「ホントに?」と驚いていた。
彼は入国カードの書き方を教えてほしい、と私に話かけてきた。
書いてある内容が理解できないのかと思ったが、詳しく話を聞くと自由に読み書きができないようなのである。
私が代筆してあげたら、彼はとても喜んでくれた。

飛行機の離陸後に機内サービスが始まり、乗客に食事と飲み物が配られ始める。
私はビールをオーダーした。
「アサヒ スーパードライ」
久しぶりの日本のビールにテンションが上がる。
おや?
隣のパキスタンの彼も、スーパードライをオーダーした。
私はあっという間にビールを飲み干し、キャビンアテンダントにビールを追加オーダーする。
隣を見ると、彼は上機嫌で赤ワインを追加でオーダーしている。

どうも彼はムスリム(イスラム教徒)のように見えるが、飲酒は問題ないのか?
疑問に思ったので、ズバリ本人に聞いてみた。

「この機内では周りにムスリムがいないようだ。誰も私の飲酒を見ていないから、問題はないのです」
「えーーー!そういうものなのですか!?」驚く私。
ムスリムにも戒律を厳格に守る人もいるし、彼のように柔軟に解釈する人もいる。
あくまでも個人差があるということか。

「誰も見ていないからOK・・・でもね、私は思うのです。あなたの神さま、アッラーは飲酒するあなたのことを見ているんじゃないのかな?」
軽い冗談のつもりで、でも鋭いツッコミを彼に入れてみた。

「・・・・・・アッラーも見ていない、問題ないね」
はっきりと断言した。
しかし彼は私からの視線を逸らしていたのだ!






ほぼ定刻通りに飛行機は成田空港に到着した。
入国手続きを終えた私がまずやること・・・・
麺料理を食べたくてしょうがない。
ラーメン、そば、うどん。
汁気のある麺料理を、なんでもいいから無性に食べたい。

このあと国内線を乗り継いで北海道に戻らなければいけない。
地元に戻って食べればいいじゃないか、と理性では思う。
しかし・・・それまで待てない、我慢できない。
それにしても3年前の帰国時は、ここまで食のホームシックにかかった記憶がない。


私は空港内で一番最初に目に入ったうどん屋に入った。
オーダーは天ぷらうどんだ。
だしの香り。
ネギのシャリ感、さくさくの天ぷらの食感も最高。
つるつる麺の、のど越し感もたまらない。
ズズーーーーー
ズズズーーーー

「ふーーーーっ」
美味いな・・・至福の時間。
あれ?
確か私は・・・カレーの勉強をしにインドまで行ったはずだが・・・
カレーの事は完全に脳裏から消えていた。

つづく?



20191129(金)

2018年インド・スリランカ旅行記・18


2018年インド・スリランカ旅行記・18

3月5日

ヒッカドゥワ滞在最終日。
「レイコさんが時間の都合がついたって言っていたよ、遊びにいきましょう」
カオリさんと二人で、スリヤンガ宅に向かった。

「もう3年も経ちましたか?1年くらいかと思っていました」
レイコさんが笑って迎えてくれた。
お土産にS&Bゴールデンカレーを渡した。
前回と同じでカレーがお土産だったけれど、受け取った彼女は嬉しそうな表情。

スリヤンガは仕事の都合で残念ながら会えなかった。
私が急にやってきたのだから、それは仕方がない。
レイコさんは昼食を私のために用意してくれていて感謝しかない。
彼女の作る伝統的なスリランカ料理は、素晴らしく美味しかった。

まずレイコさんに、前回のホームステイのお礼を言った。
「私の店でスリランカの家庭料理を提供していますが、とても評判がいいです。
お世話になり、ありがとうございました」
レイコさんはとても喜んでくれた。
「その後、プロの料理人はこちらへ訪問していますか?」
と私が聞くと、
「料理を習いに来た人が何人かいましたが、プロとは言っていませんでしたね」

私の旅の話の中で、北部の町・ジャフナの話は、特にレイコさんの興味を引いたようである。
彼女もスリヤンガも、ジャフナには今まで一度も行ったことがないそうだ。
戦争が終わって10年も経っているのに、まだ恐怖感が残っているのだろうか。
「戦争の爪痕は、まだ残っているようでしたか」と彼女から聞かれる。
「いえ、観光客としてなら、感じることはないですね、ただ・・・」
「何か気になることでも?」
「タミル人の他に、シンハラ人もたくさん住んでいる感じでした」
「ああ、それは政府がシンハラ人に、ジャフナへの移住を勧めているからです」
博識な彼女はスリランカのことなら、なんでも知っている。

私は以前から感じていた疑問を彼女に尋ねてみることにした。
「タミル側から不満分子というか、戦争をもう一度起こそうという動きはないのですか」
「それは、もうないと思います」
断言するレイコさん。
「なぜですか」
「戦争の指導者が全員殺されて内戦が終結しています。末端の兵士達は厭戦気分で戦争をやめたがっていましたから」
「そうなんですか、すっきりしました」
彼女は本当になんでも知っている。

「ジャフナで色々食べたのですが、南インドそっくりでしたね」
私はスリランカ北部・タミル料理の感想を言った。
「ヌワラエリアが面白いと思いますよ。植民地時代に強制労働で連れてこられたタミル人の子孫が結構住んでいて、食文化もシンハラ人のものとミックスしているようです」
と、レイコさんが教えてくれた。
紅茶で有名なヌワラエリアだが、私は料理の勉強のため、将来ここを訪問することになりそうだ。
「いやーー勉強になります。それは興味深いですね」
彼女は本当になんでも知っている。

レイコさんから、いつまでもスリランカの話を聞いていたい気分だったが、コロンボ行きのバスに乗らなければならない。
ありがとう、レイコさん。

レイコさんに別れを告げ、カオリさんの車でバス亭まで送ってもらった。
「またヒッカドゥワに遊びにきてくださいね」
ありがとう、カオリさん。
お世話になったカオリさんに深々と日本式お辞儀をしたら、ニコニコ笑って手を振っていた。
「じゃあ、また来ますね!」



やはり、またスリランカに来なくてはならないようだ。
スリランカ料理の勉強は終わりそうもない。
知れば知るほどわからないことが増え、調べなければいけないことが増えていく。
でも、そこがいい。
自分が好きでやっている仕事だから。

つづく



20191128(木)

2018年インド・スリランカ旅行記・17


2018年インド・スリランカ旅行記・17

3月3日

ヒッカドゥワでの滞在中、私はカオリさんの部屋にちょくちょく顔を出し、世間話につきあってもらった。
日本語でたっぷり会話ができるのが心地よいし、カオリさんは関西出身ということもあって、サービス精神旺盛で話をして楽しいのだ。

彼女から、夫であるキンスリーの話を色々聞くことができた。
キンスリーは筋トレが趣味である。
彼は私と年齢が同じなのだが、細マッチョでスタイルがよく、非常に若々しく見える。

「ちょっと聞いてくれます?キンスリーが私を最初にデートに誘ったとき、なんて言ったか」
おかしくてたまらない表情をするカオリさん。
「なんて言ったんですか、彼は」
「僕と一緒に浜辺でトレーニングしないか、よ」
「マジですかw」
「あっはは。ウケるでしょう?」
「それで、一緒にやったんですか。トレーニング」
「うん、でも毎朝6時から始まるのよ」
「マジですかwww」

カオリさんの話によると、キンスリーは苦労人だ。
今でこそ大きなゲストハウスの経営者だが、若いころイタリアで出稼ぎした金をもとに部屋2つの小さなゲストハウスを始めた。
彼の人柄が信用され、欧米からの長期客が増加し、少しずつ増築して現在の大きなゲストハウスになった。

そしてキンスリーは日本人が好きらしい。
他のシンハラ人と比較すると、彼の顔は濃くない。
子供のころ、日本人みたいな顔と言われ、彼は嬉しかったそうだ。
カオリさんと結婚したあと日本で生活した経験があるが、和食が全く合わなかったらしく、
いつも自分でカレーを作って食べていたようである。


夕方に、カオリさんが私の部屋をノックする。
「キンスリーがマトンカレー作ったから、食べに来ないかって言ってるよ」
マトンカレーだと!?
「行きます行きます。絶対行きます」
スリランカ人が作るマトンカレーは、今まで一度も食べたことがない。
まさに千載一遇のチャンスだ。

初めて目にするマトンカレー。
羊肉はキンスリーが、わざわざゴールの町まで買いに行ったそうだ。
ゴールはムスリム(イスラム教徒)人口の多い町だから、羊肉の需要があるのだ。

お皿にライスが乗り、マトンカレー、豆カレー、サラダが盛りつけられている。
これが目をひんむくくらい美味かった。
マトンカレーは、カルダモンとブラックペッパーが強烈に自己主張している。
臭み消しのジンジャーも良い風味だ。
「美味いよ!キンスリー、美味い」
夢中になってガツガツ食べていく。
キンスリーも満足気な表情で嬉しそう。

「どんなスパイスを使っているの?」
キンスリーに作り方を根掘り葉掘り聞いた。
これは絶対に店に戻ってから、メニューに加えなけらばならない。



3月4日

時間があったので観光地のゴールへ行った。
欧米人、アジアからも観光客がたくさん来ていた。
観光の見どころは城塞跡だが、周辺も含め半日あれば十分。
私が次回ゴールへ来るときは、観光ではなく、ムスリム料理を勉強するために訪問することになるだろう。

ゴールから戻った私は、宿の近くにあるスーパーマーケットへ出かけた。
外食に飽きてきたので、久しぶりに自炊をしようと思ったのだ。
夕食は久し振りにパスタを調理した。
香辛料は塩胡椒のみのシンプルな味付けだが、非常に美味しく感じた。
冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを出して、グビグビ飲む。

カオリさんがマトンカレーを持って部屋に遊びに来た。
「キンスリーが友達に自慢してたよ。俺のカレーは日本の料理人に褒められたって」
「そうなんだ。ほんとに美味しかったからね」

「そういえば、キンスリーは仕事があるはずなのに、なんか私の所にずっといようとするんだよね」
カオリさんは不思議そうな顔をする。
「そりゃそうですよ、久しぶりにカオリさんがスリランカに戻ってきたのだから」
「そう?」
「絶対そうですって」

スリランカではアーユルヴェーダの施設を立ち上げ、オフシーズンには南インドでヨガの修行をしている。
人生を謳歌する自由人のカオリさん。
前回の旅ではスリヤンガ・レイコ夫妻にお世話になったが、今回はキンスリー・カオリ夫妻と深く関わることになった。
人の縁とは、本当に面白いと思う。

つづく



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 ABOUT
sansara
旅が好き、音楽が好き、そしてカレーが大好きで、カレー店を始めることになりました。どうぞよろしくお願いします。

性別
年齢50代
エリア帯広市
属性事業者
 GUIDE
SPICE CURRY&CAFE SANSARA(サンサーラ)
住所帯広市西16条北1丁目1-112(北一線通り)
TEL0155-35-5799
営業11:30 - 15:00
ラストオーダー 各30分前
17:00 - 20:30
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