2019年11月20日(水)
2018年インド旅行記・9
旅行記×41
2月12日
ゴアからは一気に空路でハイデラバードまで移動した。
やはり飛行機で短時間の移動は、肉体的な負担が少ない。
ハイデラバードは私の想像を超える大都会であった。
車道が片側3車線や4車線あり、車がすごいスピードでビュンビュン行き交っている。
この街はケバブ屋がやたらと多いのに、ミールスの食べられる店を見かけない。
それでも探し当て、ハイデラバードのミールスを食す。
細かい料理の名前はわからなかったが、野菜料理やカレーも今まで食べてきたものと違いを感じる。
見た目は異なるハイデラバードのミールスだが、滋味深い味わいは南インド共通だった。
しばらく脂っこいカレーばかり食べていたので、菜食メニューは正直ホッとする。
2月13日
せっかくなので旧市街にある有名なチャルミナールへ行った。
4本の大きな尖塔が立つ場所で、ハイデラバードでは一番知られた観光スポットかもしれない。
ここハイデラバードはムスリム(イスラム教)色の強い街であり、今まで旅した南インドの地域と明らかに違いを感じる。
女性の服装は戒律に則り、黒いニカブで顔も体も隠して歩いている。
少女が母親と並んで歩いていたのだが、布で覆われている少女の顔が大きくふくらんでいた。
よく観察すると、彼女はアイスを食べながら歩いているのだった。
アイス?
屋台でインドの国民的アイス・クルフィが売っていた。
その場で食べると、私が店で出しているものと全く同じ味がした。
いやいや、ちょっと待て。
やはりビリヤニを食べなくてはならない。
ビリヤニは南インド名物で、簡単に言うとスパイスの炊き込みご飯だ。
最近になって日本のインド料理店でも提供する店が増えてきている。
ビリヤニといえば、ここハイデラバードが本場なのだ。
私は本場のビリヤニがどうしても食べてみたかった。
それも、とびっきり美味しいやつを。
そのために飛行機を使って、わざわざハイデラバードに来たんだから。
事前に調べておいたビリヤニ店が旧市街にあったので、チャルミナール見物のあとに行ってみた。
期待していたのだが、サービス悪い・値段高い・味がイマイチ・肉の量が少ない、と色々と残念な店でテンションが落ちていく。
本場の実力が、こんなものではないはずだ。
2月14日
気を取り直して、ランチタイムにハイデラバードの周辺地域(アンドラプラデシュ州)の料理がバイキング形式で食べられるレストランに行ってみたが、満席で入店を断られた。
どうにも歯車がうまく噛み合わない。
「あー面倒くさい、もう何でもいいや」
猛暑の中を歩いていると頭がクラクラしてくる。
宿に戻る途中にケンタッキーフライドチキンがあったので、冷房目当てで入る。
半ば、やけくそである。
チキンバーガー、フライドポテト、チキンナゲット、コーラをオーダーしてカウンター席に座った。
日本では滅多に食べないファーストフード。
「あれ?ウマいな・・・」
インドで食べると、なぜか美味しく感じてしまう。
そして敗北感も、ちょっと感じる。
「どこから来たの?へえー日本から」
隣に座っていた地元の若者が話しかけてきた。
「ビリヤニを食べるためにハイデラバードに来たのに・・・なんかイマイチなんだよね」
私は初対面の若者に愚痴をこぼした。
「そうなんだ・・・それなら、僕のオススメの店を教えます」
「本当に?」
若者は3軒ほど店をリストアップして、私のメモ帳に店名を書いてくれた。
「君が実際に食べて美味しいと思う店なの?」
「もちろんです」
宿に戻った私は、若者から教えてもらったビリヤニの店を調べることにした。
ネット検索して住所を特定し、宿から一番近そうな店に行くことに決めた。
つづく
ゴアからは一気に空路でハイデラバードまで移動した。
やはり飛行機で短時間の移動は、肉体的な負担が少ない。
ハイデラバードは私の想像を超える大都会であった。
車道が片側3車線や4車線あり、車がすごいスピードでビュンビュン行き交っている。
この街はケバブ屋がやたらと多いのに、ミールスの食べられる店を見かけない。
それでも探し当て、ハイデラバードのミールスを食す。
細かい料理の名前はわからなかったが、野菜料理やカレーも今まで食べてきたものと違いを感じる。
見た目は異なるハイデラバードのミールスだが、滋味深い味わいは南インド共通だった。
しばらく脂っこいカレーばかり食べていたので、菜食メニューは正直ホッとする。
2月13日
せっかくなので旧市街にある有名なチャルミナールへ行った。
4本の大きな尖塔が立つ場所で、ハイデラバードでは一番知られた観光スポットかもしれない。
ここハイデラバードはムスリム(イスラム教)色の強い街であり、今まで旅した南インドの地域と明らかに違いを感じる。
女性の服装は戒律に則り、黒いニカブで顔も体も隠して歩いている。
少女が母親と並んで歩いていたのだが、布で覆われている少女の顔が大きくふくらんでいた。
よく観察すると、彼女はアイスを食べながら歩いているのだった。
アイス?
屋台でインドの国民的アイス・クルフィが売っていた。
その場で食べると、私が店で出しているものと全く同じ味がした。
いやいや、ちょっと待て。
やはりビリヤニを食べなくてはならない。
ビリヤニは南インド名物で、簡単に言うとスパイスの炊き込みご飯だ。
最近になって日本のインド料理店でも提供する店が増えてきている。
ビリヤニといえば、ここハイデラバードが本場なのだ。
私は本場のビリヤニがどうしても食べてみたかった。
それも、とびっきり美味しいやつを。
そのために飛行機を使って、わざわざハイデラバードに来たんだから。
事前に調べておいたビリヤニ店が旧市街にあったので、チャルミナール見物のあとに行ってみた。
期待していたのだが、サービス悪い・値段高い・味がイマイチ・肉の量が少ない、と色々と残念な店でテンションが落ちていく。
本場の実力が、こんなものではないはずだ。
2月14日
気を取り直して、ランチタイムにハイデラバードの周辺地域(アンドラプラデシュ州)の料理がバイキング形式で食べられるレストランに行ってみたが、満席で入店を断られた。
どうにも歯車がうまく噛み合わない。
「あー面倒くさい、もう何でもいいや」
猛暑の中を歩いていると頭がクラクラしてくる。
宿に戻る途中にケンタッキーフライドチキンがあったので、冷房目当てで入る。
半ば、やけくそである。
チキンバーガー、フライドポテト、チキンナゲット、コーラをオーダーしてカウンター席に座った。
日本では滅多に食べないファーストフード。
「あれ?ウマいな・・・」
インドで食べると、なぜか美味しく感じてしまう。
そして敗北感も、ちょっと感じる。
「どこから来たの?へえー日本から」
隣に座っていた地元の若者が話しかけてきた。
「ビリヤニを食べるためにハイデラバードに来たのに・・・なんかイマイチなんだよね」
私は初対面の若者に愚痴をこぼした。
「そうなんだ・・・それなら、僕のオススメの店を教えます」
「本当に?」
若者は3軒ほど店をリストアップして、私のメモ帳に店名を書いてくれた。
「君が実際に食べて美味しいと思う店なの?」
「もちろんです」
宿に戻った私は、若者から教えてもらったビリヤニの店を調べることにした。
ネット検索して住所を特定し、宿から一番近そうな店に行くことに決めた。
つづく
2019年11月19日(火)
2018年インド旅行記・8
旅行記×41
2月10日
パロレムのあと、私が次に向かったのは、マルガオ。
これといった大きな特徴がない、南ゴアの地方都市である。
再訪した理由は2つ。
美味しい郷土料理のレストランと、質のよい料理本を売っている本屋があるからだ。
ポークビンダルー(豚肉の煮込みカレー)
チキンシャクティ(チキンカレー)
フィッシュバルチャオ(魚カレー)
ベビンカ(ココナッツ風味のケーキ)
そしてキングフィッシャービール。
お気に入りのレストランで舌鼓を打つ。
ポークビンダルーとチキンシャクティは、自分の店でも提供していて結構人気がある。
本場と自分の作る料理はどこが違うのか?
探るように食べていく。
味は自分の料理と比べてかなり近く感じたが、酸味と辛さは圧倒的に本場が上だ。
やはり自分の料理は日本人好みに抑えている、と再確認。
原型を知っていて加えるアレンジなら、なにも問題はない。
そして、ゴア北部の州都パンジムへ移動。
今回はビーチに行かないで、郷土料理をパンジムでしっかり食べておこうと決めていた。
ところが、どこへ行っても宿が満室と断られる。
ちょうどパンジムは今、お祭りの期間で観光客が集中する時期だった。
なかなか宿が決まらずウロウロ周囲を歩いていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「おおーーっ、ビンセントじゃないか」
フランスの若者と予期せぬ再開。
「ビンセント、パロレムには行ったのかい?」
「行きませんでした。ゴカルナから、まっすぐ来てしまいました」
「そうなんだね。実は宿が見つからなくて困っているんだ」
彼も宿探しに協力してくれた。
なんとか宿をみつけ荷物を降ろした後、二人一緒にお祭り会場へ向かった。
街は祝祭ムード一色で、どこを歩いても物凄い人だ。
屋台料理にシャクティ、カフレアル、ビンダルーといったゴアの代表的なカレーが並んでいて、チョリーソ(ソーセージ)もゴア名物だ。
片っ端から注文して、食べていく。
屋台料理をつまみながら、ビールをガバガバ飲む。
ビンセントもかなり酒を飲めることがわかった。
顔色が全然変わらない。
イベント会場では黒山の人だかりが出来ていた。
インド人バンドが、Kool&The Gangの「Get down On It」を熱演中だった。
観衆は熱狂して踊りまくっている。
私も自分の好きな音楽が生演奏で聴けてノリノリ。
インド人も欧米の音楽を楽しんでいると知り、がぜん親近感が湧いてくる。
彼らだって、いつもシタール音楽を聴いている訳ではないのだ。
「明日ムンバイ行きのバスに乗ります」
ビンセントの旅は残り1週間。
「そうか、元気でね」
お互い酔いが回り、喧噪の中で二人はそれぞれの宿へ戻っていった。
ところが・・・
「おっ!また会ったね」
翌日に朝食に行ったレストランで、またまたビンセントと再開。
これも何かの縁と思い、夕方にムンバイ行きのバスが来るまでの間、一日彼と行動をともにしてみようと思った。
特にあてもなく、二人でぶらぶら街歩きをする。
昼食は混んでいるレストランに入り、ターリーと呼ばれるカレー定食とビールをオーダーした。
ゴアのターリーは、いわゆる南インドのミールスと盛り合わせが似ているが、菜食にこだわらず、干しエビの入った野菜炒めや魚のフライが入っている。
昼間から、どこでも、誰でも、気軽にビールを飲みながら食事ができる。
インドで酒を飲める場所は欧米人が多く来る高級レストランがほとんどである。
だから私は開放的な雰囲気のゴアが大好きだ。
食事をしながら、ビンセントの話を色々聞いた。
一緒に過ごす時間が多いせいで信用されたのか、彼はかなり個人的な話を私にしてきた。
父親は建設会社の管理職で、そこそこ上の役職らしい。
ビンセントはカナダにも留学経験があり、そこで英語を習得したとのことだ。
カナダと日本。
留学を2回もしている。
彼の実家は裕福なのかもしれない。
彼に日本での学生生活の話を聞いてみたのだが、表情が曇っている。
「私は日本人学生との交流を積極的にしなくて、留学生仲間と頻繁に会っていました」
「そうなの?」
日本語よりも英語で話すほうが楽だったからなのかな、と私は思った。
「私の留学は失敗だったかもしれません・・・」
ポツリと言うビンセント。
夕方まで街歩きをした後にバスターミナルへ行った。
ベンチに座ってバスが来るのを待ち続けるが、定刻になっても到着しない。
ビンセントは貧乏ゆすりをずっとしている。
「チャイでも飲みなよ、ここはインドだ」
インド人が言うようなセリフを私が言った。
チャイを飲みながら、時間が過ぎるのを待つ。
1時間遅れでバスが到着。
今度こそ、本当にお別れの時間だ。
「日本に戻ったら、あなたのお店に遊びに行ってもいいですか?」
ハグをしながらビンセントが言った。
「もちろん。いつでも大歓迎だよ」
実際このようなやりとりをしても、彼と再会する機会はやってこないだろう。
私は経験上わかっていた。
「See you,good luck」
バスを見送りながら、私と時間を共有して彼が喜んでくれたのなら、その気持ちだけで十分だと思った。
つづく
パロレムのあと、私が次に向かったのは、マルガオ。
これといった大きな特徴がない、南ゴアの地方都市である。
再訪した理由は2つ。
美味しい郷土料理のレストランと、質のよい料理本を売っている本屋があるからだ。
ポークビンダルー(豚肉の煮込みカレー)
チキンシャクティ(チキンカレー)
フィッシュバルチャオ(魚カレー)
ベビンカ(ココナッツ風味のケーキ)
そしてキングフィッシャービール。
お気に入りのレストランで舌鼓を打つ。
ポークビンダルーとチキンシャクティは、自分の店でも提供していて結構人気がある。
本場と自分の作る料理はどこが違うのか?
探るように食べていく。
味は自分の料理と比べてかなり近く感じたが、酸味と辛さは圧倒的に本場が上だ。
やはり自分の料理は日本人好みに抑えている、と再確認。
原型を知っていて加えるアレンジなら、なにも問題はない。
そして、ゴア北部の州都パンジムへ移動。
今回はビーチに行かないで、郷土料理をパンジムでしっかり食べておこうと決めていた。
ところが、どこへ行っても宿が満室と断られる。
ちょうどパンジムは今、お祭りの期間で観光客が集中する時期だった。
なかなか宿が決まらずウロウロ周囲を歩いていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「おおーーっ、ビンセントじゃないか」
フランスの若者と予期せぬ再開。
「ビンセント、パロレムには行ったのかい?」
「行きませんでした。ゴカルナから、まっすぐ来てしまいました」
「そうなんだね。実は宿が見つからなくて困っているんだ」
彼も宿探しに協力してくれた。
なんとか宿をみつけ荷物を降ろした後、二人一緒にお祭り会場へ向かった。
街は祝祭ムード一色で、どこを歩いても物凄い人だ。
屋台料理にシャクティ、カフレアル、ビンダルーといったゴアの代表的なカレーが並んでいて、チョリーソ(ソーセージ)もゴア名物だ。
片っ端から注文して、食べていく。
屋台料理をつまみながら、ビールをガバガバ飲む。
ビンセントもかなり酒を飲めることがわかった。
顔色が全然変わらない。
イベント会場では黒山の人だかりが出来ていた。
インド人バンドが、Kool&The Gangの「Get down On It」を熱演中だった。
観衆は熱狂して踊りまくっている。
私も自分の好きな音楽が生演奏で聴けてノリノリ。
インド人も欧米の音楽を楽しんでいると知り、がぜん親近感が湧いてくる。
彼らだって、いつもシタール音楽を聴いている訳ではないのだ。
「明日ムンバイ行きのバスに乗ります」
ビンセントの旅は残り1週間。
「そうか、元気でね」
お互い酔いが回り、喧噪の中で二人はそれぞれの宿へ戻っていった。
ところが・・・
「おっ!また会ったね」
翌日に朝食に行ったレストランで、またまたビンセントと再開。
これも何かの縁と思い、夕方にムンバイ行きのバスが来るまでの間、一日彼と行動をともにしてみようと思った。
特にあてもなく、二人でぶらぶら街歩きをする。
昼食は混んでいるレストランに入り、ターリーと呼ばれるカレー定食とビールをオーダーした。
ゴアのターリーは、いわゆる南インドのミールスと盛り合わせが似ているが、菜食にこだわらず、干しエビの入った野菜炒めや魚のフライが入っている。
昼間から、どこでも、誰でも、気軽にビールを飲みながら食事ができる。
インドで酒を飲める場所は欧米人が多く来る高級レストランがほとんどである。
だから私は開放的な雰囲気のゴアが大好きだ。
食事をしながら、ビンセントの話を色々聞いた。
一緒に過ごす時間が多いせいで信用されたのか、彼はかなり個人的な話を私にしてきた。
父親は建設会社の管理職で、そこそこ上の役職らしい。
ビンセントはカナダにも留学経験があり、そこで英語を習得したとのことだ。
カナダと日本。
留学を2回もしている。
彼の実家は裕福なのかもしれない。
彼に日本での学生生活の話を聞いてみたのだが、表情が曇っている。
「私は日本人学生との交流を積極的にしなくて、留学生仲間と頻繁に会っていました」
「そうなの?」
日本語よりも英語で話すほうが楽だったからなのかな、と私は思った。
「私の留学は失敗だったかもしれません・・・」
ポツリと言うビンセント。
夕方まで街歩きをした後にバスターミナルへ行った。
ベンチに座ってバスが来るのを待ち続けるが、定刻になっても到着しない。
ビンセントは貧乏ゆすりをずっとしている。
「チャイでも飲みなよ、ここはインドだ」
インド人が言うようなセリフを私が言った。
チャイを飲みながら、時間が過ぎるのを待つ。
1時間遅れでバスが到着。
今度こそ、本当にお別れの時間だ。
「日本に戻ったら、あなたのお店に遊びに行ってもいいですか?」
ハグをしながらビンセントが言った。
「もちろん。いつでも大歓迎だよ」
実際このようなやりとりをしても、彼と再会する機会はやってこないだろう。
私は経験上わかっていた。
「See you,good luck」
バスを見送りながら、私と時間を共有して彼が喜んでくれたのなら、その気持ちだけで十分だと思った。
つづく
2019年11月18日(月)
2018年インド旅行記・7
旅行記×41
2月8日
南ゴアのパロレム。
おそらく日本ではほとんど知られていないビーチリゾート地だ。
だからこそ、つい行ってみたくなってしまうのが私の性分。
ここは欧米人の旅行者がとても多い。
そして日本人はおろか、インド人以外のアジア系人種を全くみかけない。
街を散策していると、誇らしげな看板が立っているのを見つけた。
「ロンリープラネット推薦!ラウルの料理教室」
ロンリープラネットとは、英語で書かれた欧米人御用達の旅行ガイドブックである。
私は英語があまり読めないけれども、地図が正確なので、この本を購入して持ち歩いていた。
自分の持っているロンリープラネットで確認してみると、確かに「ラウルの料理教室」が載っていた。
ちなみに、このガイドの推薦する宿やレストランへ行くと欧米人と頻繁に遭遇する。
海外旅行で「地球の歩き方」のおすすめの店に行くと日本人と頻繁に遭遇するのと同じである。
気になったので料理教室に参加することを決めた。
事務所を訪問してみると、先生のラウルに会うことが出来た。
彼にメニュー構成を聞いてみたら、あくまでも欧米人観光客向けのわかりやすさを重視したものらしい。
私は可能ならば、ゴア地方の伝統的な料理も加えてほしい、とリクエストした。
翌日。
料理教室が始まった。
参加者は15人。
私以外の東洋人はいない。
アウェー感の強い空間である。
4人一組で協力して料理を作るようだ。
調理は玉ねぎをスライスしてみじん切りにすることから始まった。
しかし参加者の調理スピードの遅さに閉口する。
誰もがスローモーション再生映像のような包丁の動きである。
玉ねぎ一個切るのに5分くらいかかっている。
ここの参加者は調理経験がないのだろうか?
遅れているグループは、ラウル先生や調理助手がアシストに入り、時間を調整していく。
先生の指示した量の玉ねぎをフライパンに入れ、ざっくり切ったトマト、みじん切りの生姜やニンニク、青唐辛子を炒めながらカレーを作っていく。
同じテーブルで調理していた隣の若い女性が、アルゼンチン出身ということがわかった。
「Hola,soy de Japon.Mucho gusto」(どうも。日本から来ました、よろしくね)
彼女にスペイン語で挨拶したら、とても喜んでくれた。
私は中南米に2回行った経験があり、ほんの少しスペイン語が話せるのだ。
調理台の対面にいた初老の女性が「私はチリのアタカマ砂漠に行ったことあるわよ」と話しに入ってきて、料理そっちのけで南米話で盛り上がる。
「・・・・」
私たちの様子を見て、やれやれ、と困った顔をするラウル先生。
1時間半で料理は完成した。
チキンシャクティ、これはラウル先生が私のリクエストに応じたメニューだ。
ほうれん草カレー
マッシュルームカレー
チャパティ
待ちに待った食事の時間だ。
しかし・・・
私たちに快く思わない人物が一人いた。
料理教室に参加せず、調理室の様子を窓越しに見学していた人物。
アルゼンチン女性の彼氏、エクアドル人男性である。
彼氏は試食が始まり調理室の中に呼ばれると、私とアルゼンチン女性の間の席に割り込んで入ってきた。
私と彼女に話をさせたくないのだ、と感じた。
彼氏は料理教室が終了したあと、周囲に見せつけるように彼女にキスをしまくっていた。
それを見ていた欧米人たちは、冷ややかな表情。
私は以前、南米の飛行機に乗った時に、同じような体験をしたことがある。
偏見かもしれないが、今回の件で南米の男は嫉妬深いな、と私は確信したのである。
カルナタカ州で崩した体調も戻りつつあり、食欲も回復しつつあった。
翌日、同じく南ゴアのマルガオに移動することになった。
つづく
南ゴアのパロレム。
おそらく日本ではほとんど知られていないビーチリゾート地だ。
だからこそ、つい行ってみたくなってしまうのが私の性分。
ここは欧米人の旅行者がとても多い。
そして日本人はおろか、インド人以外のアジア系人種を全くみかけない。
街を散策していると、誇らしげな看板が立っているのを見つけた。
「ロンリープラネット推薦!ラウルの料理教室」
ロンリープラネットとは、英語で書かれた欧米人御用達の旅行ガイドブックである。
私は英語があまり読めないけれども、地図が正確なので、この本を購入して持ち歩いていた。
自分の持っているロンリープラネットで確認してみると、確かに「ラウルの料理教室」が載っていた。
ちなみに、このガイドの推薦する宿やレストランへ行くと欧米人と頻繁に遭遇する。
海外旅行で「地球の歩き方」のおすすめの店に行くと日本人と頻繁に遭遇するのと同じである。
気になったので料理教室に参加することを決めた。
事務所を訪問してみると、先生のラウルに会うことが出来た。
彼にメニュー構成を聞いてみたら、あくまでも欧米人観光客向けのわかりやすさを重視したものらしい。
私は可能ならば、ゴア地方の伝統的な料理も加えてほしい、とリクエストした。
翌日。
料理教室が始まった。
参加者は15人。
私以外の東洋人はいない。
アウェー感の強い空間である。
4人一組で協力して料理を作るようだ。
調理は玉ねぎをスライスしてみじん切りにすることから始まった。
しかし参加者の調理スピードの遅さに閉口する。
誰もがスローモーション再生映像のような包丁の動きである。
玉ねぎ一個切るのに5分くらいかかっている。
ここの参加者は調理経験がないのだろうか?
遅れているグループは、ラウル先生や調理助手がアシストに入り、時間を調整していく。
先生の指示した量の玉ねぎをフライパンに入れ、ざっくり切ったトマト、みじん切りの生姜やニンニク、青唐辛子を炒めながらカレーを作っていく。
同じテーブルで調理していた隣の若い女性が、アルゼンチン出身ということがわかった。
「Hola,soy de Japon.Mucho gusto」(どうも。日本から来ました、よろしくね)
彼女にスペイン語で挨拶したら、とても喜んでくれた。
私は中南米に2回行った経験があり、ほんの少しスペイン語が話せるのだ。
調理台の対面にいた初老の女性が「私はチリのアタカマ砂漠に行ったことあるわよ」と話しに入ってきて、料理そっちのけで南米話で盛り上がる。
「・・・・」
私たちの様子を見て、やれやれ、と困った顔をするラウル先生。
1時間半で料理は完成した。
チキンシャクティ、これはラウル先生が私のリクエストに応じたメニューだ。
ほうれん草カレー
マッシュルームカレー
チャパティ
待ちに待った食事の時間だ。
しかし・・・
私たちに快く思わない人物が一人いた。
料理教室に参加せず、調理室の様子を窓越しに見学していた人物。
アルゼンチン女性の彼氏、エクアドル人男性である。
彼氏は試食が始まり調理室の中に呼ばれると、私とアルゼンチン女性の間の席に割り込んで入ってきた。
私と彼女に話をさせたくないのだ、と感じた。
彼氏は料理教室が終了したあと、周囲に見せつけるように彼女にキスをしまくっていた。
それを見ていた欧米人たちは、冷ややかな表情。
私は以前、南米の飛行機に乗った時に、同じような体験をしたことがある。
偏見かもしれないが、今回の件で南米の男は嫉妬深いな、と私は確信したのである。
カルナタカ州で崩した体調も戻りつつあり、食欲も回復しつつあった。
翌日、同じく南ゴアのマルガオに移動することになった。
つづく
2019年11月17日(日)
2018年インド旅行記・6
旅行記×41
カルナタカ州西の港町マンガロールは食の都として知られており、海鮮料理が評判らしかった。
とても訪問を楽しみにしていたのだが、同じホテルでまる2日寝こんでしまうことになる。
バンガロールで崩した体調が戻らないのだ。
料理も軽食や果物、ルームサービスのスープ類しか体が受け付けない。
ここで長居を続けると、予約していたフライトに乗れない可能性が出てくる。
今回の旅の目的地に、ハイデラバードがあった。
インドはあまりにも広大なので、全て陸路で移動すると日程的に無理が生じてしまう。
ゴアからハイデラバード、ハイデラバードからチェンナイの区間を空路で移動するしかないと私は考えていた。
こうして国内線のフライトを予約して日時が確定していたため、一か所に長く滞在できない事情があった。
2月7日
マンガロール滞在最後の日。
バスの出発時間に少し余裕があったので、庶民的な食堂に行ってみた。
英語のメニューがないので、自分の隣で食べている客と同じものを出してほしい、と店員にリクエスト。
魚のフライがついた定食が出てきた。
2日ぶりに食べたスパイス料理は、とびきり美味しく感じ、強く印象に残った。
もっとマンガロールの料理を食べたかったな・・・
カルナタカ州の旅は途中で体調を崩してしまい、悔いが残る形で終わってしまった。
いつかまた、ここへ来よう。
マンガロールからゴアまでの区間は、想像以上に交通事情がよくなかった。
ゴア行のバスの本数が極端に少ないのだ。
うまくバスを乗り継いでも、当日中にはゴアには行けないことがわかってきた。
途中どこかでの一泊を覚悟した。
地図で見る分には近く見えても、現地に行くと道路事情が悪く、遠回りしたほうが目的地に早く着いてしまうことがある。
わかっていたとはいえ、インドの旅はなかなか思惑通りに進まない。
ゴアに向かう旅の途中、乗り継ぎのため寄った小さな町のバスターミナル。
私はベンチに腰掛け、バスの発車を待っていた。
「あなたは日本人ですか」
日本語で話しかけられた。
私の目の前に、長身の白人青年が立っていた。
フランス人の若者、ビンセントである。
彼もゴアに行く途中だったので同じバスに乗った。
彼は日本語で話したがっていたので、ある程度までは付き合い、意味が通じていない表情をしているときに英語で意味を補足した。
車内で日本語と英語のチャンポン会話が始まった。
ビンセントはフランス東部の都市、ストラスブール出身。
東京の大学に留学中で、日本語が半分くらいわかる。
彼は日本の政治や歴史に興味があるので、もっと深く勉強したくて留学を決めた。
フランスに戻ったら公務員試験を受ける予定となっており、将来官僚になるために勉強しているということだ。
「さっき日本語で話しかけてきたよね。なぜ、私が日本人だとわかったの?」
先ほど感じた疑問を彼に聞いてみた。
「一人で旅行している東洋人は、たいてい日本人です。他国の東洋人は必ずグループで行動しますから」
「そうなのか。そんな風に見えるんだ」
よく見ているな、と感心する。
結局、ゴカルナという田舎街で一泊することになった。
夕食をビンセントと一緒に取った。
「明日、南ゴアのパロレムに行こうと思っている」と私が言った。
「私も行ってみたいです。でも、ここにビーチがあるので2~3日滞在していきます」と彼が言うので、握手をして別れたのだった。
つづく
とても訪問を楽しみにしていたのだが、同じホテルでまる2日寝こんでしまうことになる。
バンガロールで崩した体調が戻らないのだ。
料理も軽食や果物、ルームサービスのスープ類しか体が受け付けない。
ここで長居を続けると、予約していたフライトに乗れない可能性が出てくる。
今回の旅の目的地に、ハイデラバードがあった。
インドはあまりにも広大なので、全て陸路で移動すると日程的に無理が生じてしまう。
ゴアからハイデラバード、ハイデラバードからチェンナイの区間を空路で移動するしかないと私は考えていた。
こうして国内線のフライトを予約して日時が確定していたため、一か所に長く滞在できない事情があった。
2月7日
マンガロール滞在最後の日。
バスの出発時間に少し余裕があったので、庶民的な食堂に行ってみた。
英語のメニューがないので、自分の隣で食べている客と同じものを出してほしい、と店員にリクエスト。
魚のフライがついた定食が出てきた。
2日ぶりに食べたスパイス料理は、とびきり美味しく感じ、強く印象に残った。
もっとマンガロールの料理を食べたかったな・・・
カルナタカ州の旅は途中で体調を崩してしまい、悔いが残る形で終わってしまった。
いつかまた、ここへ来よう。
マンガロールからゴアまでの区間は、想像以上に交通事情がよくなかった。
ゴア行のバスの本数が極端に少ないのだ。
うまくバスを乗り継いでも、当日中にはゴアには行けないことがわかってきた。
途中どこかでの一泊を覚悟した。
地図で見る分には近く見えても、現地に行くと道路事情が悪く、遠回りしたほうが目的地に早く着いてしまうことがある。
わかっていたとはいえ、インドの旅はなかなか思惑通りに進まない。
ゴアに向かう旅の途中、乗り継ぎのため寄った小さな町のバスターミナル。
私はベンチに腰掛け、バスの発車を待っていた。
「あなたは日本人ですか」
日本語で話しかけられた。
私の目の前に、長身の白人青年が立っていた。
フランス人の若者、ビンセントである。
彼もゴアに行く途中だったので同じバスに乗った。
彼は日本語で話したがっていたので、ある程度までは付き合い、意味が通じていない表情をしているときに英語で意味を補足した。
車内で日本語と英語のチャンポン会話が始まった。
ビンセントはフランス東部の都市、ストラスブール出身。
東京の大学に留学中で、日本語が半分くらいわかる。
彼は日本の政治や歴史に興味があるので、もっと深く勉強したくて留学を決めた。
フランスに戻ったら公務員試験を受ける予定となっており、将来官僚になるために勉強しているということだ。
「さっき日本語で話しかけてきたよね。なぜ、私が日本人だとわかったの?」
先ほど感じた疑問を彼に聞いてみた。
「一人で旅行している東洋人は、たいてい日本人です。他国の東洋人は必ずグループで行動しますから」
「そうなのか。そんな風に見えるんだ」
よく見ているな、と感心する。
結局、ゴカルナという田舎街で一泊することになった。
夕食をビンセントと一緒に取った。
「明日、南ゴアのパロレムに行こうと思っている」と私が言った。
「私も行ってみたいです。でも、ここにビーチがあるので2~3日滞在していきます」と彼が言うので、握手をして別れたのだった。
つづく
2019年11月16日(土)
2018年インド旅行記・5
旅行記×41
2月2日
コーチンを出発して、カルナタカ州で最初に訪れた町はマイソール。
カルナタカ州は19年ぶりの訪問だった。
バスは8時間の長距離移動で、夜21:30に現地到着。
宿を探す前に腹ごしらえが先だ。
遅い夕食をバスターミナルの食堂で取っていたら、若い男性3人組に話しかけられる。
地元の若者ではなく、旅行者だった。
「今日の宿は決まっているの?」
彼らに聞いたらYESという。
これから予約している宿に行くというので、私もついて行っていいかと聞いてみた。
「えっ?俺たちの泊まるホテルは立派なところじゃないけれど、いいの?」
驚く若者たち。
「いいの、いいの。ノープロブレム」
ホテルに空室があったので、部屋を確保することができた。
私は安宿で予約したことがない。
いつも何とかなっている、と妙な自信がある。
翌日。
マイソールの街を歩いていると、やたらとBARの看板が目に付く。
久しぶりに昼酒でも楽しみたい気分になってきた。
ふらりと入ったBARは立ち飲みで一回ごとに清算して酒を買うシステムだった。
店内は昼間なのに、結構客で混みあっている。
私はキングフィッシャーのラガービール大瓶を頼んだ。
一人の男が近づいて話しかけてきた。
「お前日本人なのか?ふーん・・・マ〇ファナ買わないか?」
いきなり、である。
「いりません」
きっぱり断る。
「なんだ、チキン野郎だな。毎週この曜日に俺はここに来ている。ブツが欲しかったら声をかけてくれ」
男がすぐ立ち去ってくれて助かった。
この手の連中と関わるとロクなことがない。
夜は宿近くのレストランでミールスを食す。
味は洗練されていて美味しかった。
しかし見た目や味で、ケララやタミルで食べてきたものと大きな違いは感じなかった。
2月4日
困ったことに旅が始まってから1週間しか経っていないのに、カレー以外の食事をしたくなってきた。
マイソールから州都バンガロールに行く途中、チベット人の村バイラクッペに立ち寄る。
この村はインドで一番最初にチベットの難民キャンプが作られたところだそうだ。
欧米人の訪問が多く、チベット仏教の黄金寺院の参拝が目当てである。
私の目当ては寺院ではなく、寺の周辺にあるチベット料理店だった。
インドのスパイス料理に疲れたら、チベット料理へ逃げるのが一番だ。
中華料理や欧風料理のレストランもあるが、値段が高いし当たり外れが激しい。
チベット料理の店は値段もそれほど高くないし、どこで食べても外れたことがない。
私が一番食べたかったのは、チベット式うどんのトゥクパ。
スープはシンプルな塩味で、具材には野菜と鶏肉の小間切れが盛られる。
箸で麺を持ち上げ、ズルズルとすする。
レンゲで熱いスープをすくい、口へ運ぶ。
汁気のある麺料理が、たまらなく美味しい。
私の知る限り、伝統的なインド料理で汁気のある麺料理を見たことがない。
インドは手食文化ということも関係ありそうだ。
蒸し餃子のモモ。
これも日本の中華料理屋で食べるものと大差がなく、とても食べやすい。
チベタンブレッド、いわゆる蒸しパン。
余計なスパイス感がなく、シンプルな味わい。
毎日のスパイス料理で胃が疲れていたので、チベット料理は非常に美味しく感じてしまう。
この後の旅ではチベット料理の店に行く予定はなく、ずっとカレーの食事になるのが予想された。
気分がリフレッシュできたし、また明日からカレーを食べまくろう!
と、ここまでは順調だったのだが・・・
州都バンガロールで、排気ガスで喉をやられて咳が出始めた。
つづく
コーチンを出発して、カルナタカ州で最初に訪れた町はマイソール。
カルナタカ州は19年ぶりの訪問だった。
バスは8時間の長距離移動で、夜21:30に現地到着。
宿を探す前に腹ごしらえが先だ。
遅い夕食をバスターミナルの食堂で取っていたら、若い男性3人組に話しかけられる。
地元の若者ではなく、旅行者だった。
「今日の宿は決まっているの?」
彼らに聞いたらYESという。
これから予約している宿に行くというので、私もついて行っていいかと聞いてみた。
「えっ?俺たちの泊まるホテルは立派なところじゃないけれど、いいの?」
驚く若者たち。
「いいの、いいの。ノープロブレム」
ホテルに空室があったので、部屋を確保することができた。
私は安宿で予約したことがない。
いつも何とかなっている、と妙な自信がある。
翌日。
マイソールの街を歩いていると、やたらとBARの看板が目に付く。
久しぶりに昼酒でも楽しみたい気分になってきた。
ふらりと入ったBARは立ち飲みで一回ごとに清算して酒を買うシステムだった。
店内は昼間なのに、結構客で混みあっている。
私はキングフィッシャーのラガービール大瓶を頼んだ。
一人の男が近づいて話しかけてきた。
「お前日本人なのか?ふーん・・・マ〇ファナ買わないか?」
いきなり、である。
「いりません」
きっぱり断る。
「なんだ、チキン野郎だな。毎週この曜日に俺はここに来ている。ブツが欲しかったら声をかけてくれ」
男がすぐ立ち去ってくれて助かった。
この手の連中と関わるとロクなことがない。
夜は宿近くのレストランでミールスを食す。
味は洗練されていて美味しかった。
しかし見た目や味で、ケララやタミルで食べてきたものと大きな違いは感じなかった。
2月4日
困ったことに旅が始まってから1週間しか経っていないのに、カレー以外の食事をしたくなってきた。
マイソールから州都バンガロールに行く途中、チベット人の村バイラクッペに立ち寄る。
この村はインドで一番最初にチベットの難民キャンプが作られたところだそうだ。
欧米人の訪問が多く、チベット仏教の黄金寺院の参拝が目当てである。
私の目当ては寺院ではなく、寺の周辺にあるチベット料理店だった。
インドのスパイス料理に疲れたら、チベット料理へ逃げるのが一番だ。
中華料理や欧風料理のレストランもあるが、値段が高いし当たり外れが激しい。
チベット料理の店は値段もそれほど高くないし、どこで食べても外れたことがない。
私が一番食べたかったのは、チベット式うどんのトゥクパ。
スープはシンプルな塩味で、具材には野菜と鶏肉の小間切れが盛られる。
箸で麺を持ち上げ、ズルズルとすする。
レンゲで熱いスープをすくい、口へ運ぶ。
汁気のある麺料理が、たまらなく美味しい。
私の知る限り、伝統的なインド料理で汁気のある麺料理を見たことがない。
インドは手食文化ということも関係ありそうだ。
蒸し餃子のモモ。
これも日本の中華料理屋で食べるものと大差がなく、とても食べやすい。
チベタンブレッド、いわゆる蒸しパン。
余計なスパイス感がなく、シンプルな味わい。
毎日のスパイス料理で胃が疲れていたので、チベット料理は非常に美味しく感じてしまう。
この後の旅ではチベット料理の店に行く予定はなく、ずっとカレーの食事になるのが予想された。
気分がリフレッシュできたし、また明日からカレーを食べまくろう!
と、ここまでは順調だったのだが・・・
州都バンガロールで、排気ガスで喉をやられて咳が出始めた。
つづく