2019年10月31日(木)
2015年インド旅行記⑨
旅行記×41
ケララ州に戻った私は、コーチンに戻る前に、トリヴァンドラムに滞在することにした。
トリヴァンドラムはケララの州都ではあるものの、小ぢんまりした印象を受ける街だ。
バスの移動が続いて疲れが溜まっていたので、安宿はやめて中級のビジネスホテルに泊まることにした。
ホテルのフロントには、細面で神経質そうな雰囲気の男性マネージャーがいた。
料金前払いのシステムだと彼が言うので、私はインドにおける最高額の紙幣1000ルピー(2019年現在は廃止)を出した。
「!!!」
マネージャーの顔色が変わり、他の細かい紙幣がないか聞いてきた。
どうやら、お釣りが足りないようだ。
「ノー。これしかないです」
私は首を振った。
しかし、これは演技である。
本当のことを言えば、私は細かい紙幣を持っていた。
とぼけて出さなかったのだ。
この1000ルピーは、とても使いにくい紙幣だ。
航空機や鉄道のチケット、そして宿代といった大きな買い物の支払いでしか使う機会がない。
日本の紙幣には存在しないが、使っていて5万円札や10万円札のような感覚があった。
インド国内における普段の買い物は、100・50・10ルピーの紙幣で用を足すのがほとんどである。
その中でも最も使い勝手がよかったのは10ルピー札だった。
食事、リキシャーの運賃、チャイ、ミネラルウォーターなどを買うとき、とても重宝するのだ。
だから1000や500ルピー札が自分の所に廻ってきたら、できるだけ早く手放そうとするし、逆に10ルピー札は常に自分の手元にストックしておくよう意識していたのだ。
「そうですか・・・わかりました。お釣りを用意するまで少し待っていてください」
マネージャーが、ロビーの隅で控えていた小柄の中年男性を呼び出した。
この男性は、ラフな身なりから雑役夫と思われた。
「すみませんが、至急両替に行ってもらえませんか」
ここで雑役夫が、まさかのリアクションをする。
「そんなの無理だよ。嫌がられるのに決まっている。俺は行きたくねぇな」
現地語での会話だったが、彼は明らかに両替に行くのを渋っているのが見ていてわかった。
「行ってください」
「嫌だね。他の奴に頼めないのか?」
しばらく両者は押し問答をしていたが、とうとうマネージャーの堪忍袋の尾が切れてしまった。
「あんた、俺の言うことが聞けないのか!」
インド人がマジ切れするのを見たのは久し振りだ。
「今すぐ両替に行け。今すぐだッ!!」
そんなにヒステリックに叫ばなくてもいいのに、と思うくらいの大声だった。
雑役夫は飄々として聞いている。
「わかった、わかった。行けばいいんでしょ」
柳に風と受け流している。
緊迫した状況のはずだが、漫才やコントのように見えてしまう。
傍から見ていると、面白くてしょうがない二人のやりとり。
私は不謹慎ながらもニヤニヤした表情をしながら、事の推移を見守っていた。
雑役夫は私と目が合うとニヤッと笑い、ウインクをして出て行った。
「今の見ていただろう?参ったぜ」と言っているように感じた。
15分ほどロビーで待っていると、雑役夫が戻ってきてマネージャーに両替を渡した。
私がマネージャーから受け取った釣銭は、ホッチキスで無造作に止められた10ルピーの札束だった。
あれば便利な10ルピーだが、なんとも極端である。
こんな過剰さが、たまらなくインド的だ。
ホテルでは一悶着あったが、その後は変わったことも起きず食事を終え、就寝。
翌日になって急に気が変わり、コヴァラムに寄る事にした。
トリヴァンドラムからバスに乗って小一時間で行ける、ビーチリゾート地だ。
ここも以前に長期滞在したことがある所だった。
コヴァラムに着いて宿探しをするのだが、ピンと来る部屋がなかなか見つからない。
ウロウロしていると、客引きの男が寄って来て「いい宿があるから、俺について来い」と言う。
面倒くさくなっていた私は、男に言われるままついて行くことにした。
表通りから中に入り、細い小路を抜けると中庭のような広場があり、コテージが6個並んでいた。
とても静かな環境で、長期滞在に向きそうな宿だった。
別棟に調理場があり、キッチンや冷蔵庫を自由に使えるので自炊もできる。
私は一発でここが気に入り、泊まることを決めた。
客引きと思っていた男は、宿の管理人だった。
宿に荷物を置いた私は、海辺を散策することにした。
砂浜を歩いている最中に、違和感を感じた。
ズボンの中に入れているマネーベルト、貴重品を入れる腹巻。
いつもより軽い。
胸騒ぎがした。
手を入れてみても、あるはずのものがない。
命の次に大切な、パスポートがない。
つづく
トリヴァンドラムはケララの州都ではあるものの、小ぢんまりした印象を受ける街だ。
バスの移動が続いて疲れが溜まっていたので、安宿はやめて中級のビジネスホテルに泊まることにした。
ホテルのフロントには、細面で神経質そうな雰囲気の男性マネージャーがいた。
料金前払いのシステムだと彼が言うので、私はインドにおける最高額の紙幣1000ルピー(2019年現在は廃止)を出した。
「!!!」
マネージャーの顔色が変わり、他の細かい紙幣がないか聞いてきた。
どうやら、お釣りが足りないようだ。
「ノー。これしかないです」
私は首を振った。
しかし、これは演技である。
本当のことを言えば、私は細かい紙幣を持っていた。
とぼけて出さなかったのだ。
この1000ルピーは、とても使いにくい紙幣だ。
航空機や鉄道のチケット、そして宿代といった大きな買い物の支払いでしか使う機会がない。
日本の紙幣には存在しないが、使っていて5万円札や10万円札のような感覚があった。
インド国内における普段の買い物は、100・50・10ルピーの紙幣で用を足すのがほとんどである。
その中でも最も使い勝手がよかったのは10ルピー札だった。
食事、リキシャーの運賃、チャイ、ミネラルウォーターなどを買うとき、とても重宝するのだ。
だから1000や500ルピー札が自分の所に廻ってきたら、できるだけ早く手放そうとするし、逆に10ルピー札は常に自分の手元にストックしておくよう意識していたのだ。
「そうですか・・・わかりました。お釣りを用意するまで少し待っていてください」
マネージャーが、ロビーの隅で控えていた小柄の中年男性を呼び出した。
この男性は、ラフな身なりから雑役夫と思われた。
「すみませんが、至急両替に行ってもらえませんか」
ここで雑役夫が、まさかのリアクションをする。
「そんなの無理だよ。嫌がられるのに決まっている。俺は行きたくねぇな」
現地語での会話だったが、彼は明らかに両替に行くのを渋っているのが見ていてわかった。
「行ってください」
「嫌だね。他の奴に頼めないのか?」
しばらく両者は押し問答をしていたが、とうとうマネージャーの堪忍袋の尾が切れてしまった。
「あんた、俺の言うことが聞けないのか!」
インド人がマジ切れするのを見たのは久し振りだ。
「今すぐ両替に行け。今すぐだッ!!」
そんなにヒステリックに叫ばなくてもいいのに、と思うくらいの大声だった。
雑役夫は飄々として聞いている。
「わかった、わかった。行けばいいんでしょ」
柳に風と受け流している。
緊迫した状況のはずだが、漫才やコントのように見えてしまう。
傍から見ていると、面白くてしょうがない二人のやりとり。
私は不謹慎ながらもニヤニヤした表情をしながら、事の推移を見守っていた。
雑役夫は私と目が合うとニヤッと笑い、ウインクをして出て行った。
「今の見ていただろう?参ったぜ」と言っているように感じた。
15分ほどロビーで待っていると、雑役夫が戻ってきてマネージャーに両替を渡した。
私がマネージャーから受け取った釣銭は、ホッチキスで無造作に止められた10ルピーの札束だった。
あれば便利な10ルピーだが、なんとも極端である。
こんな過剰さが、たまらなくインド的だ。
ホテルでは一悶着あったが、その後は変わったことも起きず食事を終え、就寝。
翌日になって急に気が変わり、コヴァラムに寄る事にした。
トリヴァンドラムからバスに乗って小一時間で行ける、ビーチリゾート地だ。
ここも以前に長期滞在したことがある所だった。
コヴァラムに着いて宿探しをするのだが、ピンと来る部屋がなかなか見つからない。
ウロウロしていると、客引きの男が寄って来て「いい宿があるから、俺について来い」と言う。
面倒くさくなっていた私は、男に言われるままついて行くことにした。
表通りから中に入り、細い小路を抜けると中庭のような広場があり、コテージが6個並んでいた。
とても静かな環境で、長期滞在に向きそうな宿だった。
別棟に調理場があり、キッチンや冷蔵庫を自由に使えるので自炊もできる。
私は一発でここが気に入り、泊まることを決めた。
客引きと思っていた男は、宿の管理人だった。
宿に荷物を置いた私は、海辺を散策することにした。
砂浜を歩いている最中に、違和感を感じた。
ズボンの中に入れているマネーベルト、貴重品を入れる腹巻。
いつもより軽い。
胸騒ぎがした。
手を入れてみても、あるはずのものがない。
命の次に大切な、パスポートがない。
つづく
2019年10月30日(水)
2015年インド旅行記⑧
旅行記×41
南インド最大の街チェンナイにやってきたが、私は気分が今ひとつ乗らない。
散策するには街の規模が大きすぎるし、尋常ではない人の多さに辟易してくる。
都会は買い物には便利だが、長く滞在する気分になれなかった。
私はチェンナイで料理本の購入や有名レストランでの食事をしたあと、バスに乗って以前訪問したことのあるマハーバリプラムへ向かった。
マハーバリプラムは、チェンナイから南に60kmほど下った小さな町だ。
石窟の町として知られ、世界遺産の史跡がある。
石細工のアクセサリーや石像が定番の土産品となっている。
ビーチが目の前にあり、欧米人の旅行者が多い観光地でもある。
都会のように洗練されていない分、土着的で地元色が強い印象を受ける。
前回訪問時に長期滞在していたこともあり、私にとって思い入れのある町だった。
バスから降りた私は、バススタンド近くの食堂で、カレー定食・ミールスを注文した。
テーブルの上にバナナの葉がはらりと敷かれ、数種類のカレーや副菜、米が次々と盛られていく。
私はぎこちない手つきでカレーを米と混ぜ合わせ、手ですくい上げながら口に運ぶ。
辛味。甘味。酸味。
サラサラの米に複数のカレーの味が混ざり、どんどん味が立体的になっていく。
南インドに来てよかった、と実感する瞬間だ。
食事を終えた私は安宿の客引きにつかまり、あっさりと宿を決めた。
荷物を部屋に置き散策をしていると、私を呼び止める声。
「おい、アンタ」
土産物店の入り口に座り込んでいた、六十代くらいの男が叫んでいる。
どうせ呼び込みだ。
興味もないし、と通り過ぎようとした瞬間、
「アンタは以前に見たことがある。随分前だが、ここに来たことがあるだろう?」
親父は気になる台詞を言った。
確かに1999年の旅で訪問していたから、2度目の訪問だ。
この親父が本当に私を記憶していたとは思えなかった。
こんな客引きをされたのは初めてだったし、直感的にこの親父は面白い人だと感じた。
私は足を止め、親父の話に付き合うことにした。
店内には、シバ・ガネーシャ・ラクシュミ・クリシュナ・・・
ヒンズー教の神々が石像として数多く陳列されていた。
親父の作品以外に、土産用として価格の安い作者不詳の小さな石像も揃えてある。
その小さい石像を手に取り眺めていると、
「アンタはインドの神では誰が好きなのか」
と親父が聞いてくる。
「やっぱり、商売の神であるガネーシャですかね」
と私は答えた。
「ベリーグッド。私が作ったガネーシャの石像はこれだよ」
棚から石像を取って、私に手渡す。
安物と比較すると、彫りが細かいのが一目でわかった。
「これは立派な石像ですね。製作には時間がかかったのでしょう?」
「そう、2週間かかったな。他の私の作品を見たいか?」
そう言って、次から次へと私に自作の石像を見せていく親父。
「ほおおー!これはスゴイですね」
「ありがとう。チャイでも飲むか?」
「はっきり言って、これはワシの最高傑作だと思うな」
チャイを飲みながら親父が指差したのは、全長1メートルの黒光りしたガネーシャ像。
製作に3ヶ月かかったという、親父の渾身作だ。
よく見ると、体中に小さい文字で経文が彫られている。
確かに素晴らしい出来だ。
しかし価格は日本円で20万円相当、と非常に高額な商品だった。
これだけ石像が大きいと重さも半端ではなく、手荷物として携行できるものではない。
「ちゃんと木箱に入れて国際郵便で日本へ送る。ノープロブレムだ」
親父の頭の中では、私とのやりとりは大きな商談成立に向かっているようで、異様なほどテンションが高い。
「どうするんだ?」
どうする、と言われても・・・
もともと私は買う気が全くないのである。
「せっかくですが、無理です。そんな大きな石像は必要ありません」
「そうか・・・」
憑き物が落ちたようになり、ガックリうなだれる親父。
それを見ていた私は、申し訳ないような気分になってしまった。
「じゃあ、これを一つ・・・」
私は作者不詳の小さなガネーシャの石像を一つ買った。
つづく
散策するには街の規模が大きすぎるし、尋常ではない人の多さに辟易してくる。
都会は買い物には便利だが、長く滞在する気分になれなかった。
私はチェンナイで料理本の購入や有名レストランでの食事をしたあと、バスに乗って以前訪問したことのあるマハーバリプラムへ向かった。
マハーバリプラムは、チェンナイから南に60kmほど下った小さな町だ。
石窟の町として知られ、世界遺産の史跡がある。
石細工のアクセサリーや石像が定番の土産品となっている。
ビーチが目の前にあり、欧米人の旅行者が多い観光地でもある。
都会のように洗練されていない分、土着的で地元色が強い印象を受ける。
前回訪問時に長期滞在していたこともあり、私にとって思い入れのある町だった。
バスから降りた私は、バススタンド近くの食堂で、カレー定食・ミールスを注文した。
テーブルの上にバナナの葉がはらりと敷かれ、数種類のカレーや副菜、米が次々と盛られていく。
私はぎこちない手つきでカレーを米と混ぜ合わせ、手ですくい上げながら口に運ぶ。
辛味。甘味。酸味。
サラサラの米に複数のカレーの味が混ざり、どんどん味が立体的になっていく。
南インドに来てよかった、と実感する瞬間だ。
食事を終えた私は安宿の客引きにつかまり、あっさりと宿を決めた。
荷物を部屋に置き散策をしていると、私を呼び止める声。
「おい、アンタ」
土産物店の入り口に座り込んでいた、六十代くらいの男が叫んでいる。
どうせ呼び込みだ。
興味もないし、と通り過ぎようとした瞬間、
「アンタは以前に見たことがある。随分前だが、ここに来たことがあるだろう?」
親父は気になる台詞を言った。
確かに1999年の旅で訪問していたから、2度目の訪問だ。
この親父が本当に私を記憶していたとは思えなかった。
こんな客引きをされたのは初めてだったし、直感的にこの親父は面白い人だと感じた。
私は足を止め、親父の話に付き合うことにした。
店内には、シバ・ガネーシャ・ラクシュミ・クリシュナ・・・
ヒンズー教の神々が石像として数多く陳列されていた。
親父の作品以外に、土産用として価格の安い作者不詳の小さな石像も揃えてある。
その小さい石像を手に取り眺めていると、
「アンタはインドの神では誰が好きなのか」
と親父が聞いてくる。
「やっぱり、商売の神であるガネーシャですかね」
と私は答えた。
「ベリーグッド。私が作ったガネーシャの石像はこれだよ」
棚から石像を取って、私に手渡す。
安物と比較すると、彫りが細かいのが一目でわかった。
「これは立派な石像ですね。製作には時間がかかったのでしょう?」
「そう、2週間かかったな。他の私の作品を見たいか?」
そう言って、次から次へと私に自作の石像を見せていく親父。
「ほおおー!これはスゴイですね」
「ありがとう。チャイでも飲むか?」
「はっきり言って、これはワシの最高傑作だと思うな」
チャイを飲みながら親父が指差したのは、全長1メートルの黒光りしたガネーシャ像。
製作に3ヶ月かかったという、親父の渾身作だ。
よく見ると、体中に小さい文字で経文が彫られている。
確かに素晴らしい出来だ。
しかし価格は日本円で20万円相当、と非常に高額な商品だった。
これだけ石像が大きいと重さも半端ではなく、手荷物として携行できるものではない。
「ちゃんと木箱に入れて国際郵便で日本へ送る。ノープロブレムだ」
親父の頭の中では、私とのやりとりは大きな商談成立に向かっているようで、異様なほどテンションが高い。
「どうするんだ?」
どうする、と言われても・・・
もともと私は買う気が全くないのである。
「せっかくですが、無理です。そんな大きな石像は必要ありません」
「そうか・・・」
憑き物が落ちたようになり、ガックリうなだれる親父。
それを見ていた私は、申し訳ないような気分になってしまった。
「じゃあ、これを一つ・・・」
私は作者不詳の小さなガネーシャの石像を一つ買った。
つづく
2019年10月29日(火)
2015年インド旅行記⑦
旅行記×41
かつて、ヒッピーの聖地と呼ばれたゴア。
海外から多数の観光客が訪れる、インドでも有数のビーチリゾート地である。
レイブと呼ばれるパーティーが毎夜いたるところで開催されており、このレイブ目当てにゴアを訪問する人も多いようだ。
また酒が免税となっているので、他州から酒好きのインド人が集まってくる。
私がゴアに来た目的。それは・・・
ビーチで寝そべり、水着姿の女性を見て鼻の下を伸ばすため・・・ではない。
私がゴアに来た目的。それは・・・
安いビールを昼間から飲んで上機嫌になるため・・・ではない。
私がゴアに来た目的は、あくまでも料理である。
インドでは禁忌とされる牛や豚の肉を使った料理、ビネガーを使った調理法。
ゴアは植民地時代にイギリスではなく、ポルトガルの統治下に置かれ、その影響が料理にも現れているのである。
私は、インドの中でも際立って個性的なゴア料理を一度本場で食べて見たい、と日本にいる頃から思っていたのだ。
しかし・・・
私が食事をしていたのは、地元の若者で混み合うファーストフード店の中であった!
インドの滞在が1週間を過ぎてくると、そろそろ香辛料の効いた料理以外のものを食べたくなってくる。
日本にいる頃には、めったに口にしないハンバーガー。
チキンナゲット。フライドポテト。コーラ。付属品のケチャップの下品な味。
異国の地で食べると何故か懐かしく感じられ、美味しいこと、美味しいこと。
2日連続でゴアでの昼飯は、ハンバーガーなのであった。
夕食はさすがに郷土料理を食べに行った。
ポークビンダルーといった日本でも知られた豚肉カレーや、エビやイカを使った海鮮料理を食べた。
どこのレストランに行っても、シャクティというカレーがオススメになっていた。
日本では聞いたことのない名前だった。
こちらの名物なのだろうか?
気になったので注文し食べてみたところ、今まで食べたことのない形容のし難い味。
しかも抜群に美味しく、私は衝撃を受けた。
日本で知られていないだけで、まだインドには無数の美味しい料理が存在するのだ、と実感できた。
これらの料理はスパイシーでとても辛いのだが、暑い気温の中でビールを飲みながら食べていると辛さも気にならなくなってくるのが不思議だ。
また食堂やレストランで提供されているカレー定食に発見があった。
ステンレス製の大皿の上にはたくさんの小皿が置かれ、中には色々な味付けのカレー料理が入っている。
南インドでは「ミールス」と呼ばれるもので菜食料理がメインなのだが、ここゴアでは「ターリー」と表示されており、具材に魚料理や肉が入っていた。
確かにゴアのカレーにはココナッツミルクやカレーリーフ(ハーブの一種・南インド料理で多用する)が使われており、南インド料理と共通する部分を感じるのだが、スパイスの使い方や素材が菜食にこだわらない点は、はっきり区別できそうだ。
やはり現地に来て、初めてわかることがある。
アンジュナビーチ・オールドゴア・州都パナジと滞在したあと、私はゴア南部の都市マルガオに向かった。
次の目的地は南インド・タミルナドゥ州の州都チェンナイと決めていた。
マルガオ発で、チェンナイへ直行する鉄道列車があるのだ。
マルガオは交通の要所ではあるが典型的な地方都市といった趣きで、観光客らしい欧米人を全くみかけない。
宿を決めた後で散策していると掘っ立て小屋が目に止まった。
BOOKSの看板があり、興味本位で中に入ってみた。
店内にはかなり良質の料理本が並べられており、私は大興奮。
料理本は現地でしか買えないものがあるので、本の内容と著者のプロフィールをチェックして大量購入する。
ゴア出身の著者が、ゴア料理の本を書いている。
当たり前のことだが、大切なことだ。
そして計量の数値(現地の料理本は、ざっくりした表示が多い)が明確で、調理の経過が詳しく説明されている本は、再現の成功率が高くなる。
なお、ここで買った料理本は、現在私がゴア料理を作る上で大いに参考にさせてもらっている。
やがて旅行代理店をみつけ、ふらりと中に入った。
「翌日発のチェンナイ行き。エアコン付き2等寝台を予約してください」
私は受付の女性に告げた。
外国人に接客するのは初めてだったのだろうか。
ずいぶん女性は慌てていたようだった。
すぐ手続きが済むと思っていたが、結局30分以上待たされチケットを購入した。
宿への帰り道に、パンジムで食べたのと同じファーストフード店があるのを発見する。
チェーン店だったのか。
店の前で逡巡する。
「あれ、美味しかったよなあ・・・」
私はまたしてもハンバーガーにパクつくのであった。
つづく
海外から多数の観光客が訪れる、インドでも有数のビーチリゾート地である。
レイブと呼ばれるパーティーが毎夜いたるところで開催されており、このレイブ目当てにゴアを訪問する人も多いようだ。
また酒が免税となっているので、他州から酒好きのインド人が集まってくる。
私がゴアに来た目的。それは・・・
ビーチで寝そべり、水着姿の女性を見て鼻の下を伸ばすため・・・ではない。
私がゴアに来た目的。それは・・・
安いビールを昼間から飲んで上機嫌になるため・・・ではない。
私がゴアに来た目的は、あくまでも料理である。
インドでは禁忌とされる牛や豚の肉を使った料理、ビネガーを使った調理法。
ゴアは植民地時代にイギリスではなく、ポルトガルの統治下に置かれ、その影響が料理にも現れているのである。
私は、インドの中でも際立って個性的なゴア料理を一度本場で食べて見たい、と日本にいる頃から思っていたのだ。
しかし・・・
私が食事をしていたのは、地元の若者で混み合うファーストフード店の中であった!
インドの滞在が1週間を過ぎてくると、そろそろ香辛料の効いた料理以外のものを食べたくなってくる。
日本にいる頃には、めったに口にしないハンバーガー。
チキンナゲット。フライドポテト。コーラ。付属品のケチャップの下品な味。
異国の地で食べると何故か懐かしく感じられ、美味しいこと、美味しいこと。
2日連続でゴアでの昼飯は、ハンバーガーなのであった。
夕食はさすがに郷土料理を食べに行った。
ポークビンダルーといった日本でも知られた豚肉カレーや、エビやイカを使った海鮮料理を食べた。
どこのレストランに行っても、シャクティというカレーがオススメになっていた。
日本では聞いたことのない名前だった。
こちらの名物なのだろうか?
気になったので注文し食べてみたところ、今まで食べたことのない形容のし難い味。
しかも抜群に美味しく、私は衝撃を受けた。
日本で知られていないだけで、まだインドには無数の美味しい料理が存在するのだ、と実感できた。
これらの料理はスパイシーでとても辛いのだが、暑い気温の中でビールを飲みながら食べていると辛さも気にならなくなってくるのが不思議だ。
また食堂やレストランで提供されているカレー定食に発見があった。
ステンレス製の大皿の上にはたくさんの小皿が置かれ、中には色々な味付けのカレー料理が入っている。
南インドでは「ミールス」と呼ばれるもので菜食料理がメインなのだが、ここゴアでは「ターリー」と表示されており、具材に魚料理や肉が入っていた。
確かにゴアのカレーにはココナッツミルクやカレーリーフ(ハーブの一種・南インド料理で多用する)が使われており、南インド料理と共通する部分を感じるのだが、スパイスの使い方や素材が菜食にこだわらない点は、はっきり区別できそうだ。
やはり現地に来て、初めてわかることがある。
アンジュナビーチ・オールドゴア・州都パナジと滞在したあと、私はゴア南部の都市マルガオに向かった。
次の目的地は南インド・タミルナドゥ州の州都チェンナイと決めていた。
マルガオ発で、チェンナイへ直行する鉄道列車があるのだ。
マルガオは交通の要所ではあるが典型的な地方都市といった趣きで、観光客らしい欧米人を全くみかけない。
宿を決めた後で散策していると掘っ立て小屋が目に止まった。
BOOKSの看板があり、興味本位で中に入ってみた。
店内にはかなり良質の料理本が並べられており、私は大興奮。
料理本は現地でしか買えないものがあるので、本の内容と著者のプロフィールをチェックして大量購入する。
ゴア出身の著者が、ゴア料理の本を書いている。
当たり前のことだが、大切なことだ。
そして計量の数値(現地の料理本は、ざっくりした表示が多い)が明確で、調理の経過が詳しく説明されている本は、再現の成功率が高くなる。
なお、ここで買った料理本は、現在私がゴア料理を作る上で大いに参考にさせてもらっている。
やがて旅行代理店をみつけ、ふらりと中に入った。
「翌日発のチェンナイ行き。エアコン付き2等寝台を予約してください」
私は受付の女性に告げた。
外国人に接客するのは初めてだったのだろうか。
ずいぶん女性は慌てていたようだった。
すぐ手続きが済むと思っていたが、結局30分以上待たされチケットを購入した。
宿への帰り道に、パンジムで食べたのと同じファーストフード店があるのを発見する。
チェーン店だったのか。
店の前で逡巡する。
「あれ、美味しかったよなあ・・・」
私はまたしてもハンバーガーにパクつくのであった。
つづく
2019年10月28日(月)
牡蠣(かき)カレー始まります
2019年10月28日(月)
2015年インド旅行記⑥
旅行記×41
私の次の行き先は、ゴアと決めていた。
インドは想像以上に広大な大陸である。
陸路で移動すると時間が膨大にかかることを、私は経験上わかっていた。
ゴア州に行く途中に通過するカルナタカ州も南インドである。
本当はこちらにも立ち寄りたかったのだが、時間の都合上今回の旅ではあきらめ、空路で直接ゴア州にアクセスすることにした。
宿の近くに旅行代理店があったので、翌日発のパンジム(ゴアの州都)行きの航空機チケットを購入した。
このチケットには問題が一つあった。
フライトの時間が早朝5:30だったのだ。
宿に戻りマルコスに相談したところ、4:00に宿を出発しないと間に合わないと言う。
この早朝時間に空港まで行ける公共交通機関はない。
「ちょっと待ってて。友人にオートリキシャーの運転手がいるから」
マルコスはそう言って、携帯電話で運転手と話し始めた。
「運転手は800(ルピー)と言っているが、構わないか?」
今までリキシャーの移動に800ルピーは使ったことがない金額だが、空港まで1時間近くかかることや早朝の時間帯でもあり、法外な金額と思えなかった。
「それで構わないよ」
これで手配が全て終わり一安心、あとは食事だ。
私は行きつけのレストランに向かった。
フォートコーチン滞在中は、毎日のように通っていた。
前回訪問時から、私にとってお気に入りの店だったのだ。
見晴らしのよい2階席に座り、食事とドリンクをオーダーする。
食事をしながら、価格も味も以前と変わっていないと感じた。
私はカレー屋の店主になったので、自分の作るカレーが本場と比較して味はどうなのか常日頃関心を持っている。
こちらインドの飲食店では、自分の店で出しているメニューと同じものを注文し、本場の料理人が作るものと、自分の店で作るものとを比較していた。
自分の作る味とほとんど同じだと感じたり、違いのあるものは、どこが違うのか探るように食べていた。
しかし、この店はお客が全然来ない。
価格設定が観光客用なので、地元のインド人は最初から来ない。
頼みの綱である欧米人観光客が全然来ないのだ。
味が良くても、それだけでは生き残れない。
自分も飲食店を経営しているので、この切ない状況は痛いほどよくわかる。
商売の厳しさはインドも日本も変わらない。
つくづく実感した。
食事を終えた私は荷物をバックパックにまとめ、早めに就寝した。
目覚まし時計で起床し、宿の玄関前に立った。
早朝4:00。
まだ周囲は真っ暗だ。
時間きっかりにオートリキシャーが迎えに来た。
運転手が車から降りてきて、わざわざマルコスを部屋まで呼びに行った。
マルコスは眠たげな目をこすりながら見送りをしてくれた。
1時間ほどの長距離ドライブ。
抜け道なのだろうか、運転手は狭い道を好んで走っていく。
やがて幹線道路に入り、リキシャーのスピードが上がっていった。
運転手はテンションが高く、気合が入っているようだった。
リキシャーの運賃相場は、近場のチョイ乗りで30~50ルピーだった。
だから今回のドライブは、一回でおそらく通常の一日以上の稼ぎができる、彼にとっては大チャンスなのである。
30分ほど走り続けたあと、運転手は行きつけのチャイ屋に寄った。
こんな早朝の時間でも営業している店があるのだ。
「まだフライトまで余裕がある。一休みしよう」
インドの朝焼けを見ながら飲んだチャイの味は格別だった。
チャイをすすりながら運転手は言った。
「マルコスは昔、神学校に通っていた。そして将来は神父になるはずだった」
彼は確かに献身的なところがあった。
それは神学校で培われたのだろうか。
だが彼は現在安宿のマネージャーで、毎日コマネズミのようにパタパタ動き回り働いている。
私は核心に触れる質問をした。
「何故マルコスは神父にならなかったのですか?」
彼は質問には答えず、「本人に会ったとき、聞いてみたらどうだ」と言った。
「本人に・・・ですか」
チャイを飲み終えたあと、10分ほどで空港に到着。
空港前で約束の金800ルピーを運転手に支払った。
彼は両手で紙幣を受け取ると頭上に高々とあげ、神への感謝を口にしていた。
やはり、インド人には大金なのである。
私は空港のロビーでフライトを待ちながら、マルコスの過去について思いをめぐらせていた。
彼の過去に何があったのだろうか。
私は彼に関する一つの情報を思い出した。
前回のインド訪問時にマルコスと出会い、帰国後facebookの申請をして繋がった。
Facebookの個人プロフィール欄には、自分の信仰する宗教を記入する欄がある。
彼の宗教欄には「無宗教」と書いてあったのだ。
神父を志していた人間が、わざわざ「無宗教」と書くからには、相当の理由があるのに違いない。
信仰を捨てる決定的な出来事があったのだろうか。
これは大変デリケートな問題で、不用意に踏み込んでいいものではない。
私は彼に質問することはないだろうな、と思った。
他人に対して無遠慮に聞いてはいけないことがある。
それは日本でも、インドでも同じである。
つづく
インドは想像以上に広大な大陸である。
陸路で移動すると時間が膨大にかかることを、私は経験上わかっていた。
ゴア州に行く途中に通過するカルナタカ州も南インドである。
本当はこちらにも立ち寄りたかったのだが、時間の都合上今回の旅ではあきらめ、空路で直接ゴア州にアクセスすることにした。
宿の近くに旅行代理店があったので、翌日発のパンジム(ゴアの州都)行きの航空機チケットを購入した。
このチケットには問題が一つあった。
フライトの時間が早朝5:30だったのだ。
宿に戻りマルコスに相談したところ、4:00に宿を出発しないと間に合わないと言う。
この早朝時間に空港まで行ける公共交通機関はない。
「ちょっと待ってて。友人にオートリキシャーの運転手がいるから」
マルコスはそう言って、携帯電話で運転手と話し始めた。
「運転手は800(ルピー)と言っているが、構わないか?」
今までリキシャーの移動に800ルピーは使ったことがない金額だが、空港まで1時間近くかかることや早朝の時間帯でもあり、法外な金額と思えなかった。
「それで構わないよ」
これで手配が全て終わり一安心、あとは食事だ。
私は行きつけのレストランに向かった。
フォートコーチン滞在中は、毎日のように通っていた。
前回訪問時から、私にとってお気に入りの店だったのだ。
見晴らしのよい2階席に座り、食事とドリンクをオーダーする。
食事をしながら、価格も味も以前と変わっていないと感じた。
私はカレー屋の店主になったので、自分の作るカレーが本場と比較して味はどうなのか常日頃関心を持っている。
こちらインドの飲食店では、自分の店で出しているメニューと同じものを注文し、本場の料理人が作るものと、自分の店で作るものとを比較していた。
自分の作る味とほとんど同じだと感じたり、違いのあるものは、どこが違うのか探るように食べていた。
しかし、この店はお客が全然来ない。
価格設定が観光客用なので、地元のインド人は最初から来ない。
頼みの綱である欧米人観光客が全然来ないのだ。
味が良くても、それだけでは生き残れない。
自分も飲食店を経営しているので、この切ない状況は痛いほどよくわかる。
商売の厳しさはインドも日本も変わらない。
つくづく実感した。
食事を終えた私は荷物をバックパックにまとめ、早めに就寝した。
目覚まし時計で起床し、宿の玄関前に立った。
早朝4:00。
まだ周囲は真っ暗だ。
時間きっかりにオートリキシャーが迎えに来た。
運転手が車から降りてきて、わざわざマルコスを部屋まで呼びに行った。
マルコスは眠たげな目をこすりながら見送りをしてくれた。
1時間ほどの長距離ドライブ。
抜け道なのだろうか、運転手は狭い道を好んで走っていく。
やがて幹線道路に入り、リキシャーのスピードが上がっていった。
運転手はテンションが高く、気合が入っているようだった。
リキシャーの運賃相場は、近場のチョイ乗りで30~50ルピーだった。
だから今回のドライブは、一回でおそらく通常の一日以上の稼ぎができる、彼にとっては大チャンスなのである。
30分ほど走り続けたあと、運転手は行きつけのチャイ屋に寄った。
こんな早朝の時間でも営業している店があるのだ。
「まだフライトまで余裕がある。一休みしよう」
インドの朝焼けを見ながら飲んだチャイの味は格別だった。
チャイをすすりながら運転手は言った。
「マルコスは昔、神学校に通っていた。そして将来は神父になるはずだった」
彼は確かに献身的なところがあった。
それは神学校で培われたのだろうか。
だが彼は現在安宿のマネージャーで、毎日コマネズミのようにパタパタ動き回り働いている。
私は核心に触れる質問をした。
「何故マルコスは神父にならなかったのですか?」
彼は質問には答えず、「本人に会ったとき、聞いてみたらどうだ」と言った。
「本人に・・・ですか」
チャイを飲み終えたあと、10分ほどで空港に到着。
空港前で約束の金800ルピーを運転手に支払った。
彼は両手で紙幣を受け取ると頭上に高々とあげ、神への感謝を口にしていた。
やはり、インド人には大金なのである。
私は空港のロビーでフライトを待ちながら、マルコスの過去について思いをめぐらせていた。
彼の過去に何があったのだろうか。
私は彼に関する一つの情報を思い出した。
前回のインド訪問時にマルコスと出会い、帰国後facebookの申請をして繋がった。
Facebookの個人プロフィール欄には、自分の信仰する宗教を記入する欄がある。
彼の宗教欄には「無宗教」と書いてあったのだ。
神父を志していた人間が、わざわざ「無宗教」と書くからには、相当の理由があるのに違いない。
信仰を捨てる決定的な出来事があったのだろうか。
これは大変デリケートな問題で、不用意に踏み込んでいいものではない。
私は彼に質問することはないだろうな、と思った。
他人に対して無遠慮に聞いてはいけないことがある。
それは日本でも、インドでも同じである。
つづく