2016年4月6日(水)
2015年 インド旅行記⑫

インド滞在の最終日となった。
私はスニの勤務するブティックに向かった。
買い物を終えた後で荷物をまとめ、空港行きの直行バスに乗る予定だった。
ブティックで、しばらく物色する。
Tシャツ。
マグカップ。
布製バッグ。
コースター。
キッチュでカラフルな雑貨類は、エスニック色を残しつつ洗練されている。
やはり、この店は私の好みにドンピシャなのである。
土産というよりも自分の店のディスプレイ用として、今回も大量に買い込んでしまった。
しめて7000ルピー。
「ふふふっ。あなたは、ホントいいお客さんね」
笑うスニ。
店内で彼女としばらく話し込むこと、小一時間あまり。
最後に二人でゆっくり話ができて満足した。
彼女の夫が料理人だというので、次回訪問時に会わせてもらうことになった。
コーチンを再訪問する目的ができた。
これでインド滞在も心残りはない、宿に戻って荷物をまとめよう。
そう思った帰り間際に、私は大切な事を思い出した。
「そう言えば、シャンからお土産のチョコを受け取ったんだよね?」
「・・・うん」
彼女が喜んで礼を言ってくると思いきや、反応がおかしい。
表情が曇っている。
「2つよ」
「そうか、2袋だけか」
シャンの奴、約束を破ったな。まったく、あの野郎。
「ノー。違う。違うのよ」
彼女は首を振っている。
「TWO PIECES」
彼女が語気を強めて言った。
えっ、私の聞き間違いか?
「2切れって、どういうことだ?!」
「言葉の通りよ。ふ・た・き・れ」
「信じられない。本当なのか?」
「本当よ。シャンはチョコを全部自分で食べて、いくらか友人達にあげたんだと思うわ」
私の頭の中が混乱していく。
「彼は・・・私に、チョコはスニに渡しておくって、確かに言ったぞ」
「私には、チョコは自分が貰ったって言っていた。お前にも分けてやるって。それで2切れ」
「なんてこった・・・」
シャンは、私に嘘をついたのか?
「でも彼は君の家族だろう。私は、彼を信用したんだ」
つい、言い訳をしてしまった。
「ここはインド。日本とは違うのよ」
彼女は、また首を振った。
「インドでは、家族も信用できないの?」
反論してしまったが、私にはわかっていた。
彼女の言うことが、100%正しい。
何故なら、ここはインド。
日本の常識が通用しない国なのだ。
つまり、私は油断していたのだ。
「ついでに言うと、私は兄が大嫌いなのよ」
「そうなのか」
「昨日、私が兄と口論していたのを見ていたでしょう?」
「ああ」
「前日に彼は店を無断欠勤したのよ。そのせいで、私は一日中店番だった。だから怒っていたのよ」
「それは彼が絶対に悪いね」
シャンに対するイメージが、どんどんネガティブに変わっていく。
「そもそも、あなたは私の友人であって、シャンは関係ないでしょう。
あなたは彼と遊んでばかり。全く気に入らないわ」
これは八つ当たり、という気がしないでもない。
そもそも彼女とは、会えるかどうか、わからない状況だったのだから。
深刻な顔をした私を見て、言い過ぎた、といった表情をする彼女。
「とにかく。今度お土産を持ってきたときは、必ず私に直接渡してね」
「…ハイ。わかりました。ゴメンね、スニ」
「直接よ。忘れないでね」
彼女が笑顔で言ってくれたので、少し救われた気分になった。
「なるべく早くコーチンに戻ってきてね」
「うん、わかったよ。それじゃあ、またね」
「またね」
私はスニのブティックを後にした。
私の心に、モヤモヤした感情が渦巻いている。
シャンは嘘をついて、私を裏切った。
彼に対して大きな失望を感じた。
お土産の中身を彼に見せたのが、決定的にまずかったような気がする。
でも、それがあったせいで彼の妹の病院に見舞いに行くことになり、面白い経験ができた。
その他にも彼のお陰で得がたい経験が色々出来たのは事実なのだ。
だから彼を否定したくない気持ちも残っている。
そして彼を家族だからといって盲目的に信じてしまった自分自身の責任も感じる。
なによりも残念だったのは、スニにお土産のチョコを渡せなかったことだ。
結婚のお祝いだったのに。
喜んで受け取ってもらえると思ったのに。
彼女には本当に悪いことをした。
この件に関してシャンに詰問しても、後味は悪くなるだけで状況は何も変わらない。
どっちにしろ、チョコはもう戻ってこないのだ。
英語のアンビバレントambivalent。
一人の人間に対して抱く、愛情と憎しみが同居する感情。
まさに、シャンに対する私の気持ちだった。
この感情はスリランカに行ったあとも続き、私が日本に戻ったあとも消えることがなかった。
インド編 おわり
スリランカ編へ つづく
私はスニの勤務するブティックに向かった。
買い物を終えた後で荷物をまとめ、空港行きの直行バスに乗る予定だった。
ブティックで、しばらく物色する。
Tシャツ。
マグカップ。
布製バッグ。
コースター。
キッチュでカラフルな雑貨類は、エスニック色を残しつつ洗練されている。
やはり、この店は私の好みにドンピシャなのである。
土産というよりも自分の店のディスプレイ用として、今回も大量に買い込んでしまった。
しめて7000ルピー。
「ふふふっ。あなたは、ホントいいお客さんね」
笑うスニ。
店内で彼女としばらく話し込むこと、小一時間あまり。
最後に二人でゆっくり話ができて満足した。
彼女の夫が料理人だというので、次回訪問時に会わせてもらうことになった。
コーチンを再訪問する目的ができた。
これでインド滞在も心残りはない、宿に戻って荷物をまとめよう。
そう思った帰り間際に、私は大切な事を思い出した。
「そう言えば、シャンからお土産のチョコを受け取ったんだよね?」
「・・・うん」
彼女が喜んで礼を言ってくると思いきや、反応がおかしい。
表情が曇っている。
「2つよ」
「そうか、2袋だけか」
シャンの奴、約束を破ったな。まったく、あの野郎。
「ノー。違う。違うのよ」
彼女は首を振っている。
「TWO PIECES」
彼女が語気を強めて言った。
えっ、私の聞き間違いか?
「2切れって、どういうことだ?!」
「言葉の通りよ。ふ・た・き・れ」
「信じられない。本当なのか?」
「本当よ。シャンはチョコを全部自分で食べて、いくらか友人達にあげたんだと思うわ」
私の頭の中が混乱していく。
「彼は・・・私に、チョコはスニに渡しておくって、確かに言ったぞ」
「私には、チョコは自分が貰ったって言っていた。お前にも分けてやるって。それで2切れ」
「なんてこった・・・」
シャンは、私に嘘をついたのか?
「でも彼は君の家族だろう。私は、彼を信用したんだ」
つい、言い訳をしてしまった。
「ここはインド。日本とは違うのよ」
彼女は、また首を振った。
「インドでは、家族も信用できないの?」
反論してしまったが、私にはわかっていた。
彼女の言うことが、100%正しい。
何故なら、ここはインド。
日本の常識が通用しない国なのだ。
つまり、私は油断していたのだ。
「ついでに言うと、私は兄が大嫌いなのよ」
「そうなのか」
「昨日、私が兄と口論していたのを見ていたでしょう?」
「ああ」
「前日に彼は店を無断欠勤したのよ。そのせいで、私は一日中店番だった。だから怒っていたのよ」
「それは彼が絶対に悪いね」
シャンに対するイメージが、どんどんネガティブに変わっていく。
「そもそも、あなたは私の友人であって、シャンは関係ないでしょう。
あなたは彼と遊んでばかり。全く気に入らないわ」
これは八つ当たり、という気がしないでもない。
そもそも彼女とは、会えるかどうか、わからない状況だったのだから。
深刻な顔をした私を見て、言い過ぎた、といった表情をする彼女。
「とにかく。今度お土産を持ってきたときは、必ず私に直接渡してね」
「…ハイ。わかりました。ゴメンね、スニ」
「直接よ。忘れないでね」
彼女が笑顔で言ってくれたので、少し救われた気分になった。
「なるべく早くコーチンに戻ってきてね」
「うん、わかったよ。それじゃあ、またね」
「またね」
私はスニのブティックを後にした。
私の心に、モヤモヤした感情が渦巻いている。
シャンは嘘をついて、私を裏切った。
彼に対して大きな失望を感じた。
お土産の中身を彼に見せたのが、決定的にまずかったような気がする。
でも、それがあったせいで彼の妹の病院に見舞いに行くことになり、面白い経験ができた。
その他にも彼のお陰で得がたい経験が色々出来たのは事実なのだ。
だから彼を否定したくない気持ちも残っている。
そして彼を家族だからといって盲目的に信じてしまった自分自身の責任も感じる。
なによりも残念だったのは、スニにお土産のチョコを渡せなかったことだ。
結婚のお祝いだったのに。
喜んで受け取ってもらえると思ったのに。
彼女には本当に悪いことをした。
この件に関してシャンに詰問しても、後味は悪くなるだけで状況は何も変わらない。
どっちにしろ、チョコはもう戻ってこないのだ。
英語のアンビバレントambivalent。
一人の人間に対して抱く、愛情と憎しみが同居する感情。
まさに、シャンに対する私の気持ちだった。
この感情はスリランカに行ったあとも続き、私が日本に戻ったあとも消えることがなかった。
インド編 おわり
スリランカ編へ つづく
2016年4月6日(水)
2015年 インド旅行記⑪

私は2週間ぶりにフォートコーチンに戻り、マルコスのいる安宿に直行した。
チェックインを終え、宿のロビーでスタッフと談笑していると、見覚えのある男が中に入ってきた。
「シャン!元気だった?」
「まぁね。ところで、この前の約束を覚えているか?」
「ん?なんだっけ」
「俺の実家で、飯を食べる話さ」
以前シャンとした会話。
彼が携帯で料理の画像を見せながら、「俺の母親の手料理は絶品だ」と自慢する。
それを見た私が、「これは美味しそうだ、一度食べてみたいね」と答えた。
どうという事はない、忘れていい世間話である。
しかし、彼はその時のやり取りをしっかり覚えていたのだ。
「ああ、思い出した」
「じゃあ、明日の昼食は俺の家で」
「了解。楽しみだ。・・・あれ?店はどうするの」
「スニが戻ってきているから、大丈夫だ」
「おおぉー、そうなのか!明日、彼女は店にいるんだね」
「そうだ。じゃあ、明日の昼に店で待ち合わせしよう」
翌日の昼時。
私はシャン達が働くブティックに出向いた。
店にはシャンとスニがいたのだが、どうも様子がおかしい。
二人は激しい口論の真っ最中なのだ。
「スニ!」
私の呼びかけに気づいた彼女は目を大きく見開き、私の顔を凝視する。
そして笑顔を取り戻した。
「戻ってきたのね」
スニには積もり積もった話が色々あるのだが、シャンが私をせかす。
「母親が料理を作って家で待っているから、早く行こう」
私は彼女の勤務シフトを確認した。
「明日は店にいるの?」
返事はイエス。
「明日買い物をここでするから、その時に話をしよう」
そう彼女に言って店から出た。
シャンのオートバイの後部座席にまたがり、出発する。
フォートコーチンからフェリーに乗り、彼の実家があるヴァイピーン島に渡る。
オートバイは巨大コンビナートが並ぶ工業地帯を走り抜けていく。
ノーヘルで乗るオートバイは、爽快そのものだ。
途中の沿道では地元の若者が集まってチェスに興じているのを見かけた。
若者の一人が私と目が合い、手を振ってきた。
観光目的では絶対見ることが出来ないし、自分の意思ではないから見ることができた景色が、眼前に広がっている。
自分は何故ここにいるんだろう?
ここは一体どこなんだろう?
オートバイに乗りながら、そんな思いが交錯していく。
旅をしていて、一番ワクワクする瞬間だ。
オートバイはやがて、地元色の強い民家の密集したエリアに入った。
シャンは細い路地を器用な運転で通り抜け、出発から30分ほどで彼の実家に到着した。
玄関から入るとすぐにリビングになっており、シャンの母親と叔母に会い、挨拶をする。
叔母の家も近所らしい。
シャンに勧められ、リビングの椅子に腰をおろし周囲を見渡す。
祭壇にはキリスト像があり、そばに壮年男性の顔写真が飾られていた。
何も本人は言っていなかったが、シャンの父親と思われた。
リビングに隣接するキッチンに視線を向けると、ある人物が私の視界に入った。
髪は坊主頭、性別不明、年齢は十代と思われる人が、床に座り込んでいた。
天井を見上げている。
やがて動き出すが、自立歩行もままならないようだった。
移動するときは体を横たえ、手足をばたばたさせ、まるで泳ぐように床をはって動いていた。
言葉も話せないようだった。
「妹は病気なんだよ」
シャンが厳しい表情で言った。
「さあ、食事にしよう。母さんが御馳走を用意している」
シャンの母親と叔母が料理を運んできた。
魚のフライ料理。
魚カレー。
チャパティ。
ライス。
油控えめで塩加減もちょうどよい。
大切なお客をもてなすときは魚料理。
これがケララ地方の流儀だ。
「うーん。美味しいよ、シャン!」
あらためてインドの家庭料理は美味しい、と実感する。
「そうだろう?どんどん食べてくれよ」
自慢気な表情のシャン。
食事をたいらげた二人は、紅茶を飲んでしばし談笑。
「ああ満腹だ。少し昼寝をしたいから、あとで起こしてもらえないか」
そう言うなり彼は床に横になり、たちまちイビキをかいて眠り始めた。
私も満腹で眠気を感じていたが、昼寝をすることが許されなかった。
叔母が連れてきた甥っ子二人(おそらく小学校低学年くらい)が、私と遊ぼうと誘ってくるのだ。
おそらく彼らにとって私は、人生で始めて間近に接する外国人なのだろう。
興味津々の表情を浮かべ、目をキラキラさせて接してくるので、これは断れない。
最初はLEGOのような玩具で一緒に遊んで、飽きたようなので外に出てサッカーをした。
「ねえ、これ見てよ。面白いから!」
オートリキシャーが運転をミスって、田んぼに落ちて横転している。
暴れた野良牛に、ど突かれて逃げまわる男。
それを見ながらゲラゲラ笑う甥っ子たち。
次々とお勧め動画を私に見せてくる。
玄関前の軒先で携帯の面白動画を私に見せ、甥っ子たちはキャッキャと喜んでいる。
30分ほど彼らに付き合っていたが、さすがに疲れてしまった。
私は家の中に戻ろうとして、玄関のドアを開けた。
「シャン。そろそろ戻ろう・・・」
シャンは大イビキをかいて、深く眠っていた。
彼の横にはいつの間にか坊主頭の妹が寄り添い、小さな寝息を立てていた。
妹の穏やかな表情は、とても幸せそうに見えた。
もう少し寝かしておくか・・・
そんなことを思っていたら、
台所から出てきたシャンの母親と目が合い、お互い微笑した。
つづく
チェックインを終え、宿のロビーでスタッフと談笑していると、見覚えのある男が中に入ってきた。
「シャン!元気だった?」
「まぁね。ところで、この前の約束を覚えているか?」
「ん?なんだっけ」
「俺の実家で、飯を食べる話さ」
以前シャンとした会話。
彼が携帯で料理の画像を見せながら、「俺の母親の手料理は絶品だ」と自慢する。
それを見た私が、「これは美味しそうだ、一度食べてみたいね」と答えた。
どうという事はない、忘れていい世間話である。
しかし、彼はその時のやり取りをしっかり覚えていたのだ。
「ああ、思い出した」
「じゃあ、明日の昼食は俺の家で」
「了解。楽しみだ。・・・あれ?店はどうするの」
「スニが戻ってきているから、大丈夫だ」
「おおぉー、そうなのか!明日、彼女は店にいるんだね」
「そうだ。じゃあ、明日の昼に店で待ち合わせしよう」
翌日の昼時。
私はシャン達が働くブティックに出向いた。
店にはシャンとスニがいたのだが、どうも様子がおかしい。
二人は激しい口論の真っ最中なのだ。
「スニ!」
私の呼びかけに気づいた彼女は目を大きく見開き、私の顔を凝視する。
そして笑顔を取り戻した。
「戻ってきたのね」
スニには積もり積もった話が色々あるのだが、シャンが私をせかす。
「母親が料理を作って家で待っているから、早く行こう」
私は彼女の勤務シフトを確認した。
「明日は店にいるの?」
返事はイエス。
「明日買い物をここでするから、その時に話をしよう」
そう彼女に言って店から出た。
シャンのオートバイの後部座席にまたがり、出発する。
フォートコーチンからフェリーに乗り、彼の実家があるヴァイピーン島に渡る。
オートバイは巨大コンビナートが並ぶ工業地帯を走り抜けていく。
ノーヘルで乗るオートバイは、爽快そのものだ。
途中の沿道では地元の若者が集まってチェスに興じているのを見かけた。
若者の一人が私と目が合い、手を振ってきた。
観光目的では絶対見ることが出来ないし、自分の意思ではないから見ることができた景色が、眼前に広がっている。
自分は何故ここにいるんだろう?
ここは一体どこなんだろう?
オートバイに乗りながら、そんな思いが交錯していく。
旅をしていて、一番ワクワクする瞬間だ。
オートバイはやがて、地元色の強い民家の密集したエリアに入った。
シャンは細い路地を器用な運転で通り抜け、出発から30分ほどで彼の実家に到着した。
玄関から入るとすぐにリビングになっており、シャンの母親と叔母に会い、挨拶をする。
叔母の家も近所らしい。
シャンに勧められ、リビングの椅子に腰をおろし周囲を見渡す。
祭壇にはキリスト像があり、そばに壮年男性の顔写真が飾られていた。
何も本人は言っていなかったが、シャンの父親と思われた。
リビングに隣接するキッチンに視線を向けると、ある人物が私の視界に入った。
髪は坊主頭、性別不明、年齢は十代と思われる人が、床に座り込んでいた。
天井を見上げている。
やがて動き出すが、自立歩行もままならないようだった。
移動するときは体を横たえ、手足をばたばたさせ、まるで泳ぐように床をはって動いていた。
言葉も話せないようだった。
「妹は病気なんだよ」
シャンが厳しい表情で言った。
「さあ、食事にしよう。母さんが御馳走を用意している」
シャンの母親と叔母が料理を運んできた。
魚のフライ料理。
魚カレー。
チャパティ。
ライス。
油控えめで塩加減もちょうどよい。
大切なお客をもてなすときは魚料理。
これがケララ地方の流儀だ。
「うーん。美味しいよ、シャン!」
あらためてインドの家庭料理は美味しい、と実感する。
「そうだろう?どんどん食べてくれよ」
自慢気な表情のシャン。
食事をたいらげた二人は、紅茶を飲んでしばし談笑。
「ああ満腹だ。少し昼寝をしたいから、あとで起こしてもらえないか」
そう言うなり彼は床に横になり、たちまちイビキをかいて眠り始めた。
私も満腹で眠気を感じていたが、昼寝をすることが許されなかった。
叔母が連れてきた甥っ子二人(おそらく小学校低学年くらい)が、私と遊ぼうと誘ってくるのだ。
おそらく彼らにとって私は、人生で始めて間近に接する外国人なのだろう。
興味津々の表情を浮かべ、目をキラキラさせて接してくるので、これは断れない。
最初はLEGOのような玩具で一緒に遊んで、飽きたようなので外に出てサッカーをした。
「ねえ、これ見てよ。面白いから!」
オートリキシャーが運転をミスって、田んぼに落ちて横転している。
暴れた野良牛に、ど突かれて逃げまわる男。
それを見ながらゲラゲラ笑う甥っ子たち。
次々とお勧め動画を私に見せてくる。
玄関前の軒先で携帯の面白動画を私に見せ、甥っ子たちはキャッキャと喜んでいる。
30分ほど彼らに付き合っていたが、さすがに疲れてしまった。
私は家の中に戻ろうとして、玄関のドアを開けた。
「シャン。そろそろ戻ろう・・・」
シャンは大イビキをかいて、深く眠っていた。
彼の横にはいつの間にか坊主頭の妹が寄り添い、小さな寝息を立てていた。
妹の穏やかな表情は、とても幸せそうに見えた。
もう少し寝かしておくか・・・
そんなことを思っていたら、
台所から出てきたシャンの母親と目が合い、お互い微笑した。
つづく
2016年4月4日(月)
2015年 インド旅行記⑩

マネーベルトの中に、パスポートが入っていない。
私は大急ぎで宿に戻った。
バックパックから荷物の中身を全て取り出し、ベッドの上に広げた。
貴重品を入れているポーチの中には、パスポートはなかった。
トラベラーズチェックや現金はなくなっていないので、盗難とは考えにくかった。
ベッドの下や洗面所など、思いあたる所を全て探したが見つからない。
もし紛失ということになれば、再発行の手続きが必要だが日数は相当かかると思われた。
チェンナイに日本領事館があるので、そこで手続きをすることになるのだろう。
私は5日後にスリランカに行き、現地でホームステイする予定となっていた。
最悪の場合、これはキャンセルになる。
手配しなければいけないことが山のようにある。
今後を想像して、私は憂鬱な気分になってきた。
管理人が戻ってきたら事情を説明し、宿を早々に出ようと思っていた。
落ち着かない気分で数時間過ごした。
夕方に管理人が戻ってきたので、事情を説明した。
「私のパスポートが見当たらないので探しています」
彼は笑い出した。
「パスポート?何言っているの。チェックインのとき、少し私が預かるって言ったでしょう」
「じゃあ、あなたが持っているの?」
彼は管理人部屋に行って、私のパスポートを持ってきた。
「いやあー、よかった、よかった」
「そうだな。わははは」
私の早とちりであった。
「何かあったのかい?」
自分の部屋に戻ろうとすると、隣部屋の白人カップルから声をかけられた。
各部屋(コテージ)の玄関前にはテーブルとイスが置いてあり、二人はそこでくつろいでいた。
私とマネージャーのやり取りが聞こえたので、気になって声をかけてきたのだ。
事の顛末を二人に話したところ、大笑いされた。
「それは大変だったね。よかったら一緒に飲まないか?」
男性はグラスを私に差し出し、ビールを注いだ。
ビールはゴアで飲んで以来、2週間ぶりだった。
気が緩んだのか酔いが進む。
お互いの自己紹介をする。
彼らはイスラエルからの旅行者で、コヴァラムに1週間滞在しているという。
男性は30代前半くらいの年齢で、山羊の様な長いあごひげをした2m近くの大男。
本国ではユースチームで、バスケットボールのコーチをしているらしい。
有名な選手だったのかもしれない。
彼によるとバスケットは、イスラエルではメジャーなスポーツなのだという。
女性は20代後半くらい、小柄で鼻にピアスをしていたのが印象的だった。
二人と話していて、日本のことをよく知っている、と感じた。
日本語の挨拶をしてくるのにも驚かされた。
東日本大震災や原発事故も話題になった。
それにくらべ、私はどうなのか。
ヘブライ語なんて全くわからない。
死海のことを覚えていたので、その話をしたくらいだろうか。
自分はイスラエルのことを何も知らないな、と痛感した。
少し恥ずかしい気分だった。
テーブルの上のスケッチブックに目が留まる。
インド人男性のイラストが、独特のタッチで描かれていた。
「これは、あなたが描いたのですか?」
私が尋ねたところ、彼女がイエス、と言う。
スケッチブックを見せてもらうことにした。
パラパラめくっていく。
インドの街並み。
チャイを売る男。
犬。
サリーを着たインド女性。
絵具で彩色しているページもあった。
スケッチの隅に、日付と場所が英語で書かれていた。
彼女が楽しんで旅をしているのが伝わるイラストだった。
しばらく眺めたあと、私は彼女に質問した。
「あなたはアーティストなのですか?」
彼女は笑って答えた。
「ありがとう。でもノーよ」
私はその後買出しに出かけ、ビールを大量購入し、三人でちょっとした宴会となった。
彼女が夕食で、イスラエルの家庭料理をふるまってくれた。
豆と野菜を香辛料で炒めたトマトベースの料理で、パンをつけて食べる。
優しく素朴な味わいが印象に残った。
私が「美味しい、美味しい」と言いながらバクバク食べているのを、彼女は嬉しそうな表情で見ていた。
深夜まで続いた宴会は、酒と料理がなくなり、自然にお開きとなった。
翌朝、私はバスでトリヴァンドラムに戻り、コーチン行きのバスに乗った。
インドで滞在できる日数も残りわずかとなっていた。
やれることは、ほぼ出来たという満足感があった。
私の気持ちは既に、次の旅行先スリランカに向かっている。
しかし、やり残したことが一つだけあり、それだけがひっかかっていた。
スニ。
今度こそ、彼女に会えるのだろうか?
つづく
私は大急ぎで宿に戻った。
バックパックから荷物の中身を全て取り出し、ベッドの上に広げた。
貴重品を入れているポーチの中には、パスポートはなかった。
トラベラーズチェックや現金はなくなっていないので、盗難とは考えにくかった。
ベッドの下や洗面所など、思いあたる所を全て探したが見つからない。
もし紛失ということになれば、再発行の手続きが必要だが日数は相当かかると思われた。
チェンナイに日本領事館があるので、そこで手続きをすることになるのだろう。
私は5日後にスリランカに行き、現地でホームステイする予定となっていた。
最悪の場合、これはキャンセルになる。
手配しなければいけないことが山のようにある。
今後を想像して、私は憂鬱な気分になってきた。
管理人が戻ってきたら事情を説明し、宿を早々に出ようと思っていた。
落ち着かない気分で数時間過ごした。
夕方に管理人が戻ってきたので、事情を説明した。
「私のパスポートが見当たらないので探しています」
彼は笑い出した。
「パスポート?何言っているの。チェックインのとき、少し私が預かるって言ったでしょう」
「じゃあ、あなたが持っているの?」
彼は管理人部屋に行って、私のパスポートを持ってきた。
「いやあー、よかった、よかった」
「そうだな。わははは」
私の早とちりであった。
「何かあったのかい?」
自分の部屋に戻ろうとすると、隣部屋の白人カップルから声をかけられた。
各部屋(コテージ)の玄関前にはテーブルとイスが置いてあり、二人はそこでくつろいでいた。
私とマネージャーのやり取りが聞こえたので、気になって声をかけてきたのだ。
事の顛末を二人に話したところ、大笑いされた。
「それは大変だったね。よかったら一緒に飲まないか?」
男性はグラスを私に差し出し、ビールを注いだ。
ビールはゴアで飲んで以来、2週間ぶりだった。
気が緩んだのか酔いが進む。
お互いの自己紹介をする。
彼らはイスラエルからの旅行者で、コヴァラムに1週間滞在しているという。
男性は30代前半くらいの年齢で、山羊の様な長いあごひげをした2m近くの大男。
本国ではユースチームで、バスケットボールのコーチをしているらしい。
有名な選手だったのかもしれない。
彼によるとバスケットは、イスラエルではメジャーなスポーツなのだという。
女性は20代後半くらい、小柄で鼻にピアスをしていたのが印象的だった。
二人と話していて、日本のことをよく知っている、と感じた。
日本語の挨拶をしてくるのにも驚かされた。
東日本大震災や原発事故も話題になった。
それにくらべ、私はどうなのか。
ヘブライ語なんて全くわからない。
死海のことを覚えていたので、その話をしたくらいだろうか。
自分はイスラエルのことを何も知らないな、と痛感した。
少し恥ずかしい気分だった。
テーブルの上のスケッチブックに目が留まる。
インド人男性のイラストが、独特のタッチで描かれていた。
「これは、あなたが描いたのですか?」
私が尋ねたところ、彼女がイエス、と言う。
スケッチブックを見せてもらうことにした。
パラパラめくっていく。
インドの街並み。
チャイを売る男。
犬。
サリーを着たインド女性。
絵具で彩色しているページもあった。
スケッチの隅に、日付と場所が英語で書かれていた。
彼女が楽しんで旅をしているのが伝わるイラストだった。
しばらく眺めたあと、私は彼女に質問した。
「あなたはアーティストなのですか?」
彼女は笑って答えた。
「ありがとう。でもノーよ」
私はその後買出しに出かけ、ビールを大量購入し、三人でちょっとした宴会となった。
彼女が夕食で、イスラエルの家庭料理をふるまってくれた。
豆と野菜を香辛料で炒めたトマトベースの料理で、パンをつけて食べる。
優しく素朴な味わいが印象に残った。
私が「美味しい、美味しい」と言いながらバクバク食べているのを、彼女は嬉しそうな表情で見ていた。
深夜まで続いた宴会は、酒と料理がなくなり、自然にお開きとなった。
翌朝、私はバスでトリヴァンドラムに戻り、コーチン行きのバスに乗った。
インドで滞在できる日数も残りわずかとなっていた。
やれることは、ほぼ出来たという満足感があった。
私の気持ちは既に、次の旅行先スリランカに向かっている。
しかし、やり残したことが一つだけあり、それだけがひっかかっていた。
スニ。
今度こそ、彼女に会えるのだろうか?
つづく
2016年4月2日(土)
週末限定カレーです

こんにちは、サンサーラです。
今週末の限定メニューの紹介をさせて頂きます。
①スリランカ海鮮プレート 1350円
エビカレー、白身魚のカレー、テルダーラ(イカのスパイス炒め)、アンブルティヤル(青魚のゴラカ煮)と、シーフードが満載の一皿です。
スリランカカレーファンの方は必食ですね(笑)
②エビのWカレー 1200円
スリランカと南インドのエビカレーが一皿に。
スパイスの違いを楽しんでください。
③ポーク・ビンダルー 980円
リピート率の非常に高いポークカレーです。
辛口好きの方に、強くオススメ。
取り置き、テイクアウトも出来ます。
④かすべ65 580円
常連さまには、すっかりお馴染みのメニュー。
かすべの唐揚げ・スパイス和えです。
コリコリの食感がヤミツキに。
いずれも数量限定メニューとなります。
是非お試しください。
今週末の限定メニューの紹介をさせて頂きます。
①スリランカ海鮮プレート 1350円
エビカレー、白身魚のカレー、テルダーラ(イカのスパイス炒め)、アンブルティヤル(青魚のゴラカ煮)と、シーフードが満載の一皿です。
スリランカカレーファンの方は必食ですね(笑)
②エビのWカレー 1200円
スリランカと南インドのエビカレーが一皿に。
スパイスの違いを楽しんでください。
③ポーク・ビンダルー 980円
リピート率の非常に高いポークカレーです。
辛口好きの方に、強くオススメ。
取り置き、テイクアウトも出来ます。
④かすべ65 580円
常連さまには、すっかりお馴染みのメニュー。
かすべの唐揚げ・スパイス和えです。
コリコリの食感がヤミツキに。
いずれも数量限定メニューとなります。
是非お試しください。
2016年3月31日(木)
2015年 インド旅行記⑨

ケララ州に戻った私は、コーチンに戻る前に、トリヴァンドラムに滞在することにした。
トリヴァンドラムはケララの州都ではあるものの、小ぢんまりした印象を受ける街だ。
バスの移動が続いて疲れが溜まっていたので、安宿はやめて中級のビジネスホテルに泊まることにした。
ホテルのフロントには、細面で神経質そうな雰囲気の男性マネージャーがいた。
料金前払いのシステムだと彼が言うので、私はインドにおける最高額の紙幣1000ルピーを出した。
「!!!」
マネージャーの顔色が変わり、他の細かい紙幣がないか聞いてきた。
どうやら、お釣りが足りないようだ。
「ノー。これしかないです」
私は首を振った。
しかし、これは演技である。
本当のことを言えば、私は細かい紙幣を持っていた。
とぼけて出さなかったのだ。
この1000ルピーは、とても使いにくい紙幣だ。
航空機や鉄道のチケット、そして宿代といった大きな買い物の支払いでしか使う機会がない。
日本の紙幣には存在しないが、使っていて5万円札や10万円札のような感覚があった。
インド国内における普段の買い物は、100・50・10ルピーの紙幣で用を足すのがほとんどである。
その中でも最も使い勝手がよかったのは10ルピー札だった。
食事、リキシャーの運賃、チャイ、ミネラルウォーターなどを買うとき、とても重宝するのだ。
だから1000や500ルピー札が自分の所に廻ってきたら、できるだけ早く手放そうとするし、逆に10ルピー札は常に自分の手元にストックしておくよう意識していたのだ。
「そうですか・・・わかりました。お釣りを用意するまで少し待っていてください」
マネージャーが、ロビーの隅で控えていた小柄の中年男性を呼び出した。
この男性は、ラフな身なりから雑役夫と思われた。
「すみませんが、至急両替に行ってもらえませんか」
ここで雑役夫が、まさかのリアクションをする。
「そんなの無理だよ。嫌がられるのに決まっている。俺は行きたくねぇな」
現地語での会話だったが、彼は明らかに両替に行くのを渋っているのが見ていてわかった。
「行ってください」
「嫌だね。他の奴に頼めないのか?」
しばらく両者は押し問答をしていたが、とうとうマネージャーの堪忍袋の尾が切れてしまった。
「あんた、俺の言うことが聞けないのか!」
インド人がマジ切れするのを見たのは久し振りだ。
「今すぐ両替に行け。今すぐだッ!!」
そんなにヒステリックに叫ばなくてもいいのに、と思うくらいの大声だった。
雑役夫は飄々として聞いている。
「わかった、わかった。行けばいいんでしょ」
柳に風と受け流している。
緊迫した状況のはずだが、漫才やコントのように見えてしまう。
傍から見ていると、面白くてしょうがない二人のやりとり。
私は不謹慎ながらもニヤニヤした表情をしながら、事の推移を見守っていた。
雑役夫は私と目が合うとニヤッと笑い、ウインクをして出て行った。
「今の見ていただろう?参ったぜ」と言っているように感じた。
15分ほどロビーで待っていると、雑役夫が戻ってきてマネージャーに両替を渡した。
私がマネージャーから受け取った釣銭は、ホッチキスで無造作に止められた10ルピーの札束だった。
あれば便利な10ルピーだが、なんとも極端である。
こんな過剰さが、たまらなくインド的だ。
ホテルでは一悶着あったが、その後は変わったことも起きず食事を終え、就寝。
翌日になって急に気が変わり、コヴァラムに寄る事にした。
トリヴァンドラムからバスに乗って小一時間で行ける、ビーチリゾート地だ。
ここも以前に長期滞在したことがある所だった。
コヴァラムに着いて宿探しをするのだが、ピンと来る部屋がなかなか見つからない。
ウロウロしていると、客引きの男が寄って来て「いい宿があるから、俺について来い」と言う。
面倒くさくなっていた私は、男に言われるままついて行くことにした。
表通りから中に入り、細い小路を抜けると中庭のような広場があり、コテージが6個並んでいた。
とても静かな環境で、長期滞在に向きそうな宿だった。
別棟に調理場があり、キッチンや冷蔵庫を自由に使えるので自炊もできる。
私は一発でここが気に入り、泊まることを決めた。
客引きと思っていた男は、宿の管理人だった。
宿に荷物を置いた私は、海辺を散策することにした。
砂浜を歩いている最中に、違和感を感じた。
ズボンの中に入れているマネーベルト、貴重品を入れる腹巻。
いつもより軽い。
胸騒ぎがした。
手を入れてみても、あるはずのものがない。
命の次に大切な、パスポートがない。
つづく
トリヴァンドラムはケララの州都ではあるものの、小ぢんまりした印象を受ける街だ。
バスの移動が続いて疲れが溜まっていたので、安宿はやめて中級のビジネスホテルに泊まることにした。
ホテルのフロントには、細面で神経質そうな雰囲気の男性マネージャーがいた。
料金前払いのシステムだと彼が言うので、私はインドにおける最高額の紙幣1000ルピーを出した。
「!!!」
マネージャーの顔色が変わり、他の細かい紙幣がないか聞いてきた。
どうやら、お釣りが足りないようだ。
「ノー。これしかないです」
私は首を振った。
しかし、これは演技である。
本当のことを言えば、私は細かい紙幣を持っていた。
とぼけて出さなかったのだ。
この1000ルピーは、とても使いにくい紙幣だ。
航空機や鉄道のチケット、そして宿代といった大きな買い物の支払いでしか使う機会がない。
日本の紙幣には存在しないが、使っていて5万円札や10万円札のような感覚があった。
インド国内における普段の買い物は、100・50・10ルピーの紙幣で用を足すのがほとんどである。
その中でも最も使い勝手がよかったのは10ルピー札だった。
食事、リキシャーの運賃、チャイ、ミネラルウォーターなどを買うとき、とても重宝するのだ。
だから1000や500ルピー札が自分の所に廻ってきたら、できるだけ早く手放そうとするし、逆に10ルピー札は常に自分の手元にストックしておくよう意識していたのだ。
「そうですか・・・わかりました。お釣りを用意するまで少し待っていてください」
マネージャーが、ロビーの隅で控えていた小柄の中年男性を呼び出した。
この男性は、ラフな身なりから雑役夫と思われた。
「すみませんが、至急両替に行ってもらえませんか」
ここで雑役夫が、まさかのリアクションをする。
「そんなの無理だよ。嫌がられるのに決まっている。俺は行きたくねぇな」
現地語での会話だったが、彼は明らかに両替に行くのを渋っているのが見ていてわかった。
「行ってください」
「嫌だね。他の奴に頼めないのか?」
しばらく両者は押し問答をしていたが、とうとうマネージャーの堪忍袋の尾が切れてしまった。
「あんた、俺の言うことが聞けないのか!」
インド人がマジ切れするのを見たのは久し振りだ。
「今すぐ両替に行け。今すぐだッ!!」
そんなにヒステリックに叫ばなくてもいいのに、と思うくらいの大声だった。
雑役夫は飄々として聞いている。
「わかった、わかった。行けばいいんでしょ」
柳に風と受け流している。
緊迫した状況のはずだが、漫才やコントのように見えてしまう。
傍から見ていると、面白くてしょうがない二人のやりとり。
私は不謹慎ながらもニヤニヤした表情をしながら、事の推移を見守っていた。
雑役夫は私と目が合うとニヤッと笑い、ウインクをして出て行った。
「今の見ていただろう?参ったぜ」と言っているように感じた。
15分ほどロビーで待っていると、雑役夫が戻ってきてマネージャーに両替を渡した。
私がマネージャーから受け取った釣銭は、ホッチキスで無造作に止められた10ルピーの札束だった。
あれば便利な10ルピーだが、なんとも極端である。
こんな過剰さが、たまらなくインド的だ。
ホテルでは一悶着あったが、その後は変わったことも起きず食事を終え、就寝。
翌日になって急に気が変わり、コヴァラムに寄る事にした。
トリヴァンドラムからバスに乗って小一時間で行ける、ビーチリゾート地だ。
ここも以前に長期滞在したことがある所だった。
コヴァラムに着いて宿探しをするのだが、ピンと来る部屋がなかなか見つからない。
ウロウロしていると、客引きの男が寄って来て「いい宿があるから、俺について来い」と言う。
面倒くさくなっていた私は、男に言われるままついて行くことにした。
表通りから中に入り、細い小路を抜けると中庭のような広場があり、コテージが6個並んでいた。
とても静かな環境で、長期滞在に向きそうな宿だった。
別棟に調理場があり、キッチンや冷蔵庫を自由に使えるので自炊もできる。
私は一発でここが気に入り、泊まることを決めた。
客引きと思っていた男は、宿の管理人だった。
宿に荷物を置いた私は、海辺を散策することにした。
砂浜を歩いている最中に、違和感を感じた。
ズボンの中に入れているマネーベルト、貴重品を入れる腹巻。
いつもより軽い。
胸騒ぎがした。
手を入れてみても、あるはずのものがない。
命の次に大切な、パスポートがない。
つづく