2015年10月2日(金)
秋のおすすめの本です
児美川孝一郎『まず教育論から変えよう』 太郎次郎社エディタス 2015年
児美川教授は「教育になにが必要か」という問いに迫るために、「教育論にはなにが必要か」から迫っていくというアプローチを採用している。教育論とは、世の中の多くの人々が教育に関心をもち教育について表明している意見の内容である。これらの教育論の語りには下記の特徴があるとしている。
まず、①教育についての語りが、その人の個人的な体験や経験を根拠としていて、それが一般化できるものなのか否かについては、あまり配慮が払われていない。また、②意見の矛先が、「行為」の次元で冷静に議論されるべきことがらが、容易にその次元を越境して、「人物」評価へと向けられがちである。そのために、そうした行為をおこなった「人物」にたいする好悪のような感情論も、そこに付随することになってしまっている。つぎには、③ホンネとタテマエの使い分がある。そして、④仮定や前提抜きに「正しい」といえるロジックと、それが正しいといえるかどうかは条件や環境に依存してしまうロジックとが組み合わされていることが少なくない。そのことが、「教育語り」をねじれたものにしてしまう。さらには、⑤みずからの、あるいはみずからが属する集団や組織などの「理想」が持ち込まれている。その理想が持ち込まれると、とりわけ多義的な解釈を許容し、どういう状態が「完成」であるかを測ることが不可能であるようなものでは、議論をデッドロックの状態に押し上げてしまっていることがままある。これらの特徴をもつ過剰なまでのわが国の「教育語り」の横溢は、この国の教育を幸せにしているということはないと、教授は結論づけている。
序章 教育語り、この「神々の争い」
第1章 腫れ物としての道徳教育
第2章 ゆとり教育か、学力向上か?
第3章 タブーとしてのエリート教育
第4章 キャリア教育になにが期待できるか
第5章 だれのための大学改革なのか?
終章 子どもを「理想」の犠牲者にしないために
終章で、教授は、教育について論じる作法として以下の5点をあげている。①問題の歴史性への着目(問題の「歴史性」に注目すること。) ②立場性への注目(みずからの“偏り”や“自己正当化”の論理が混じり込んでしまっていないかどうかに、細心の注意を払うこと。) ③傍観者的立場を避ける(端的に、相手の主張にたいしては、その立場性や難点を指摘するが、みずからはなんの「対案」も出さないような議論の仕方はダメ。) ④教育システムの外部とのリンケージへの着目(例えば、教育システムは労働システム、雇用システムなどのあいだで相互依存的にリンクしている。このようなことへの視点が必要である。) ⑤当事者としての子どもへの視点(教育の当事者としての子どものがわの立場から、それぞれの教育論の中身を吟味するという視点が必要である。)特に、教授は⑤を強調し「中庸」をよしとし、「よりまし」を追求すべきである、としている。
本書は現代の日本社会における教育を考えていくための知見の重要なベンチマークの一つである。
わたしは、「第3章 タブーとしてのエリート教育」にいちばん興味を持ちました。教授は、英国社会におけるエリート教育を例に挙げ、このタイプのエリート教育を「閉鎖系のエリート教育」としています。これと対比し今後の日本社会に必要であるエリート教育のタイプを「開放系のエリート教育」として提示しています。この点に関して、エリートはそもそも教育で生み出していくことが可能であるのか?という疑問をわたしはもちました。2011年を境にわが国の若者たちのなかに、今の大人たちにたいして根源的な問いを提示して活動しているすごい方々が出てきていると、わたしは感じています。むしろこのような若者の教育体験をつぶさにみていくことからこそ、今後の日本社会のリーダーを育てるための教育の在り方を明らかにしていく必要もあるのではないかと思いました。
児美川教授は「教育になにが必要か」という問いに迫るために、「教育論にはなにが必要か」から迫っていくというアプローチを採用している。教育論とは、世の中の多くの人々が教育に関心をもち教育について表明している意見の内容である。これらの教育論の語りには下記の特徴があるとしている。
まず、①教育についての語りが、その人の個人的な体験や経験を根拠としていて、それが一般化できるものなのか否かについては、あまり配慮が払われていない。また、②意見の矛先が、「行為」の次元で冷静に議論されるべきことがらが、容易にその次元を越境して、「人物」評価へと向けられがちである。そのために、そうした行為をおこなった「人物」にたいする好悪のような感情論も、そこに付随することになってしまっている。つぎには、③ホンネとタテマエの使い分がある。そして、④仮定や前提抜きに「正しい」といえるロジックと、それが正しいといえるかどうかは条件や環境に依存してしまうロジックとが組み合わされていることが少なくない。そのことが、「教育語り」をねじれたものにしてしまう。さらには、⑤みずからの、あるいはみずからが属する集団や組織などの「理想」が持ち込まれている。その理想が持ち込まれると、とりわけ多義的な解釈を許容し、どういう状態が「完成」であるかを測ることが不可能であるようなものでは、議論をデッドロックの状態に押し上げてしまっていることがままある。これらの特徴をもつ過剰なまでのわが国の「教育語り」の横溢は、この国の教育を幸せにしているということはないと、教授は結論づけている。
序章 教育語り、この「神々の争い」
第1章 腫れ物としての道徳教育
第2章 ゆとり教育か、学力向上か?
第3章 タブーとしてのエリート教育
第4章 キャリア教育になにが期待できるか
第5章 だれのための大学改革なのか?
終章 子どもを「理想」の犠牲者にしないために
終章で、教授は、教育について論じる作法として以下の5点をあげている。①問題の歴史性への着目(問題の「歴史性」に注目すること。) ②立場性への注目(みずからの“偏り”や“自己正当化”の論理が混じり込んでしまっていないかどうかに、細心の注意を払うこと。) ③傍観者的立場を避ける(端的に、相手の主張にたいしては、その立場性や難点を指摘するが、みずからはなんの「対案」も出さないような議論の仕方はダメ。) ④教育システムの外部とのリンケージへの着目(例えば、教育システムは労働システム、雇用システムなどのあいだで相互依存的にリンクしている。このようなことへの視点が必要である。) ⑤当事者としての子どもへの視点(教育の当事者としての子どものがわの立場から、それぞれの教育論の中身を吟味するという視点が必要である。)特に、教授は⑤を強調し「中庸」をよしとし、「よりまし」を追求すべきである、としている。
本書は現代の日本社会における教育を考えていくための知見の重要なベンチマークの一つである。
わたしは、「第3章 タブーとしてのエリート教育」にいちばん興味を持ちました。教授は、英国社会におけるエリート教育を例に挙げ、このタイプのエリート教育を「閉鎖系のエリート教育」としています。これと対比し今後の日本社会に必要であるエリート教育のタイプを「開放系のエリート教育」として提示しています。この点に関して、エリートはそもそも教育で生み出していくことが可能であるのか?という疑問をわたしはもちました。2011年を境にわが国の若者たちのなかに、今の大人たちにたいして根源的な問いを提示して活動しているすごい方々が出てきていると、わたしは感じています。むしろこのような若者の教育体験をつぶさにみていくことからこそ、今後の日本社会のリーダーを育てるための教育の在り方を明らかにしていく必要もあるのではないかと思いました。
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