2015年7月16日(木)
2015夏
国の政治のしくみの根本を定める法が憲法です。憲法は、政府の権力を制限して国民の人権を保障するという立憲主義の思想にもとづいて、政治権力の乱用を防いで、国民の自由や権利を守ります。立憲主義の考えは、政治が人の支配によってではなく、法によって行われることを要求する法の支配の思想とほぼ同じものです。
憲法は、国の基礎となる法であるとともに、最高法規であって、憲法に反する法律や命令は効力を持ちません。
日本国憲法第9条
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
上記、中学公民教科書『新しい社会 公民』東京書籍株式会社より
憲法は、国の基礎となる法であるとともに、最高法規であって、憲法に反する法律や命令は効力を持ちません。
日本国憲法第9条
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
上記、中学公民教科書『新しい社会 公民』東京書籍株式会社より
2015年6月29日(月)
難しかったです。でも、すごくためになりました。
中村雄二郎 『臨床の知とは何か』 岩波新書 1994年
近代科学の三つの原則<普遍性>と<論理性>と<客観性>をもとにした科学の知と技術文明は人類に多大な成果を与えてきた。しかしながら、今ここにきて現場や現実から従来の科学を中心とした知識では解決困難な問題が突き付けられていると多くの人々が感じているのではないだろうか。
このような問題意識から中村雄二郎はC.G.ユング、ニーチェ、I.イリイチ、C.レヴィ=ストロース、Th.クーンなどの仕事を検討し、<固有性><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の三つを中心にすえて<臨床の知>を、近代科学の方法に対する別の選択肢のモデルとして提示している。それは<フィールドワークの知>あるいは<演劇的知>とも言えるとしている。
現代の新しい知が<厳密科学・精密科学>の面をもつだけでなく、それにもまして、具体的な場面・事物の多義性・相互行為に対応する知恵に充ちた技芸であること。そのような技芸を身に付けることによって、自己を括弧に入れて責任を回避する客観主義や普遍主義の落とし穴に陥らないようすることが必要であるとしている。
私は下記の指摘に注目しました。
・われわれ一人ひとりの経験が真にその名に値するものになるには、われわれが何かの出来事に出会って、<能動的に>、<身体をそなえた主体として>、<他者からの働きかけを受けとめながら>、振舞うことだということになるだろう。この三つの条件こそ、経験がわれわれ一人ひとりの生の全体性と結びついた真の経験になるための不可欠な要因である。(同書63ページ)
注目した理由は日々の教育実践が、塾生諸君にとって新しい知識を獲得するための真の経験になるために示唆に富むと感じたからです。ただマニュアルにそって教育知識内容を話したところで伝わりませんし、塾生の能力開発にはなりえません。知識内容を塾生諸君全員に伝えようと強い意志が、まずは大切です。そして、黒板を使って説明したり、塾生のノートをみたり、あるいはポイントを話しかけたりすること。そして勉強内容の難しさを共感し、理解を応援しながら意識のみならず「体を動かしながら」授業空間を塾生と共有していくことが、さらに重要であると考えます。「よくわかんない」「もう一度説明して」などの塾生からのわたしへの働きかけは更には教え手側の気づきにもつながり私自身の成長を促すのだろうと思います。
塾生諸君ももしかしたら、勉強である程度は苦しんでみることも必要かもしれません。でも、どうしてもわからなければ、ちゃんと自発的に質問することも、また大切なことです。
近代科学の三つの原則<普遍性>と<論理性>と<客観性>をもとにした科学の知と技術文明は人類に多大な成果を与えてきた。しかしながら、今ここにきて現場や現実から従来の科学を中心とした知識では解決困難な問題が突き付けられていると多くの人々が感じているのではないだろうか。
このような問題意識から中村雄二郎はC.G.ユング、ニーチェ、I.イリイチ、C.レヴィ=ストロース、Th.クーンなどの仕事を検討し、<固有性><事物の多義性><身体性をそなえた行為>の三つを中心にすえて<臨床の知>を、近代科学の方法に対する別の選択肢のモデルとして提示している。それは<フィールドワークの知>あるいは<演劇的知>とも言えるとしている。
現代の新しい知が<厳密科学・精密科学>の面をもつだけでなく、それにもまして、具体的な場面・事物の多義性・相互行為に対応する知恵に充ちた技芸であること。そのような技芸を身に付けることによって、自己を括弧に入れて責任を回避する客観主義や普遍主義の落とし穴に陥らないようすることが必要であるとしている。
私は下記の指摘に注目しました。
・われわれ一人ひとりの経験が真にその名に値するものになるには、われわれが何かの出来事に出会って、<能動的に>、<身体をそなえた主体として>、<他者からの働きかけを受けとめながら>、振舞うことだということになるだろう。この三つの条件こそ、経験がわれわれ一人ひとりの生の全体性と結びついた真の経験になるための不可欠な要因である。(同書63ページ)
注目した理由は日々の教育実践が、塾生諸君にとって新しい知識を獲得するための真の経験になるために示唆に富むと感じたからです。ただマニュアルにそって教育知識内容を話したところで伝わりませんし、塾生の能力開発にはなりえません。知識内容を塾生諸君全員に伝えようと強い意志が、まずは大切です。そして、黒板を使って説明したり、塾生のノートをみたり、あるいはポイントを話しかけたりすること。そして勉強内容の難しさを共感し、理解を応援しながら意識のみならず「体を動かしながら」授業空間を塾生と共有していくことが、さらに重要であると考えます。「よくわかんない」「もう一度説明して」などの塾生からのわたしへの働きかけは更には教え手側の気づきにもつながり私自身の成長を促すのだろうと思います。
塾生諸君ももしかしたら、勉強である程度は苦しんでみることも必要かもしれません。でも、どうしてもわからなければ、ちゃんと自発的に質問することも、また大切なことです。
2015年6月19日(金)
国語教科書を解剖すると・・・・・・。
石原千秋 『国語教科書の中の「日本」』筑摩書房 2009年
同書は、光村図書、東京書籍、教育出版各社の小学国語教科書、及び光村図書、東京書籍、教育出版、三省堂各社の中学国語教科書を分析対象としています。そして、国語教科書にはどのような傾向をもった作品が収録されているのかを、長年の教科書編集に携わってこられた貴重な体験も交えながら明らかにしています。著者は<日本>という枠組みを軸に国語教科書をテクストとして読むことで、「教室で言葉にならない何かをおしえていないか」という問題提起をしたいとしています。
・学校空間で「道徳」や「常識」を教えるなとまでは言わないが、国語教育の影に隠れて「見えない」形で行うのは止めてほしい。国語教育にはもっと別の仕事があるはずである。(同書より)
・「道徳教育」が悪いとは言わない。問題はその「道徳教育」の中身であり、何のための「道徳教育」かということだ。(同書より)
・自由に読むことは、説得力の度合いに差はあっても、他人とは違った読みの根拠が示せること。根拠の強度はその時代のパラダイムに影響されやすい。だから、多くのパラダイムを身につけてほしい。その一方、無茶苦茶に読むとは根拠を示せないか、示してもまったく説得力を持たないこと。国語教育に必要なのは自由に読むことであって、無茶苦茶に読むことではない。(同書より)
・「平和教材」も社会的なレベルで考えるべき問題を、家族とか一人一人の努力の問題や個人に内面の問題に還元してしまう傾向がある。それが、「道徳教育」なのだ。国語教育であれば、物語と社会構造がパラレルな関係にあるところまで教えるべきではないだろうか。(同書より)
石原さんは日本の中学入試や大学入試の国語の設問にも問題性を指摘しています。今後は入試国語のイデオロギー性も解明していくことが期待されると思いました。
同書は、光村図書、東京書籍、教育出版各社の小学国語教科書、及び光村図書、東京書籍、教育出版、三省堂各社の中学国語教科書を分析対象としています。そして、国語教科書にはどのような傾向をもった作品が収録されているのかを、長年の教科書編集に携わってこられた貴重な体験も交えながら明らかにしています。著者は<日本>という枠組みを軸に国語教科書をテクストとして読むことで、「教室で言葉にならない何かをおしえていないか」という問題提起をしたいとしています。
・学校空間で「道徳」や「常識」を教えるなとまでは言わないが、国語教育の影に隠れて「見えない」形で行うのは止めてほしい。国語教育にはもっと別の仕事があるはずである。(同書より)
・「道徳教育」が悪いとは言わない。問題はその「道徳教育」の中身であり、何のための「道徳教育」かということだ。(同書より)
・自由に読むことは、説得力の度合いに差はあっても、他人とは違った読みの根拠が示せること。根拠の強度はその時代のパラダイムに影響されやすい。だから、多くのパラダイムを身につけてほしい。その一方、無茶苦茶に読むとは根拠を示せないか、示してもまったく説得力を持たないこと。国語教育に必要なのは自由に読むことであって、無茶苦茶に読むことではない。(同書より)
・「平和教材」も社会的なレベルで考えるべき問題を、家族とか一人一人の努力の問題や個人に内面の問題に還元してしまう傾向がある。それが、「道徳教育」なのだ。国語教育であれば、物語と社会構造がパラレルな関係にあるところまで教えるべきではないだろうか。(同書より)
石原さんは日本の中学入試や大学入試の国語の設問にも問題性を指摘しています。今後は入試国語のイデオロギー性も解明していくことが期待されると思いました。
2015年6月17日(水)
「遊び」について「真面目」に議論しています。
J.ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』中央公論社 昭和46年
<真面目>と同様に<遊戯>は人間にとってすごく大切なものであるということ。また、それは社会そのものにとっても文化の中に組み込まれた重要な要素であることをギリシャ・ローマの時代にさかのぼって検討している本です。今の世相を相対化するうえで重要な知見になると思いました。J.ホイジンガはオランダが生んだ歴史学の巨人の一人です。
「真の文化は何らかの遊戯内容を持たずには、存続していくことはできない。」(同書より)
「文化はある種の自制と克己を前提とするものである。それは、自分ひとりの目的、意志を究極最高のものと見なしたりすることのない能力である。」(同書より)
schoolて自由な時間(スコレー)、閑暇を意味するギリシャ語が由来らしいです。
<真面目>と同様に<遊戯>は人間にとってすごく大切なものであるということ。また、それは社会そのものにとっても文化の中に組み込まれた重要な要素であることをギリシャ・ローマの時代にさかのぼって検討している本です。今の世相を相対化するうえで重要な知見になると思いました。J.ホイジンガはオランダが生んだ歴史学の巨人の一人です。
「真の文化は何らかの遊戯内容を持たずには、存続していくことはできない。」(同書より)
「文化はある種の自制と克己を前提とするものである。それは、自分ひとりの目的、意志を究極最高のものと見なしたりすることのない能力である。」(同書より)
schoolて自由な時間(スコレー)、閑暇を意味するギリシャ語が由来らしいです。
2015年6月8日(月)
山アラシのジレンマ
これは、大学4年の就活中に何気なく新宿の書店で買った本のタイトルです。冒頭にこうあります。(L.ベラック『山アラシのジレンマ』ダイヤモンド社)
ある冬の日、寒さにこごえた山アラシのカップルがお互いを暖め合っていた。
ところが彼らは、自分たちの棘でお互いを刺してしまうことに気がついた。そこで彼らは、離れてみたが、今度は寒くなってしまった。何度もこんな試みを繰り返した後に、ようやく山アラシたちは、お互いをそれほど傷つけ合わないですみ、しかもある程度暖め合えるような距離を見つけ出した。(同書より)
同書の副題は「人間的疎外をどう生きるか」とあります。現代社会の中で暮らす多くの人が、山アラシのジレンマについて思い当たるのではないでしょうか。
著者のベラック博士は山アラシのジレンマを解決し、新しい距離のとり方を求めるには、①回り道から生じる欲求不満に耐え、②ものごとを多角的に評価し、判断する能力、特定の信念のシステムに固執せず多様な役割を使いこなす柔軟なパーソナリティ、しかも自分の同一性を保ち自己を成長させていく強靭な自我を身に付けることが求めらるとしています。
私自身には博士のご指摘はかなりハードルが高いような気がします。みなさんはどう思いますか。
ある冬の日、寒さにこごえた山アラシのカップルがお互いを暖め合っていた。
ところが彼らは、自分たちの棘でお互いを刺してしまうことに気がついた。そこで彼らは、離れてみたが、今度は寒くなってしまった。何度もこんな試みを繰り返した後に、ようやく山アラシたちは、お互いをそれほど傷つけ合わないですみ、しかもある程度暖め合えるような距離を見つけ出した。(同書より)
同書の副題は「人間的疎外をどう生きるか」とあります。現代社会の中で暮らす多くの人が、山アラシのジレンマについて思い当たるのではないでしょうか。
著者のベラック博士は山アラシのジレンマを解決し、新しい距離のとり方を求めるには、①回り道から生じる欲求不満に耐え、②ものごとを多角的に評価し、判断する能力、特定の信念のシステムに固執せず多様な役割を使いこなす柔軟なパーソナリティ、しかも自分の同一性を保ち自己を成長させていく強靭な自我を身に付けることが求めらるとしています。
私自身には博士のご指摘はかなりハードルが高いような気がします。みなさんはどう思いますか。