2021年4月12日(月)
良き統治
ピエール・ロザンヴァロン 宇野重規 解説『良き統治 大統領制化する民主主義』 みすず書房 2020年
今年の1月までトランプ氏がアメリカ合衆国大統領であった。この事実は僕にとって大きな謎です。USAの有権者は何を考えて、彼にどのような政治を託したのだろうか、ということがよく理解できないでいます。異国の問題だから関係ないとよというスタンスもあるかもしれませんが、自国のさまざまな政治的混迷もあって、やっぱ、考えていかなければならない問題事項であると僕の意識の中で結構引っかかっています。そんな中で、同書を読みました。ピエール・ロザンヴァロン教授はポピュリズムが生み出される政治的土壌を、僕がいままで読んだ本の中でいちばんわかりやすく論じています。以下に、僕がポイントと感じた内容をまとめてみました。
・はたして独裁化するポピュリズム政治家の暴走に、有効な歯止めを打ち立てることはできないのだろうか。その上で、現代社会における人々のニーズに応える、新たな民主主義の展望はありえないのか。今日の世界において目につくのは、ポピュリズムと独裁的な指導者たちである。既製政治のゆきづまり、とくに政党政治の不振に対する不満の増大は、政治家を含むエリート層への批判を加速させている。ポピュリズム政治家の多くは、伝統的な政党組織を「中抜き」にして直接有権者に訴えかけることを特徴としている。硬直化した政党組織では汲み取れない人々の不満や不安に訴え、その支持をエネルギー源に自らの影響力を拡大していく。時として、彼ら彼女らは伝統的な人権尊重や権力分立の原則さえ軽視し、情報操作や隠蔽によって政治的公開性を踏みにじる。自らに批判的なメディアを激しく攻撃するなど、言論の自由を顧慮することもない。
・ロザンヴァロン教授はフランス革命まで遡りフランスの政治状況を検討しつつ、ワイマール共和国からナチスの独裁に至った歴史的事実なども射程に入れて、政治史、政治思想史の研究を通じて、民主主義と民主主義思想の軌跡を把握するという方法で、不確実な未来における民主主義の新たな姿を展望している。
・被治者のものとなる民主主義(dèmocratie d’appropriation)のために重視しなければならない要素は、
理解可能性、統治責任、応答性の三つである。
・理解可能性は、社会とそれを動かすメカニズムを実質的に理解する企てへと向かわせる。そして、それは、市民が公共機関の活動を自分たち自身で把握する可能性のことでもある。これにより、個々人が真のシティズンシップと呼びうるような状態に置かれるだろう。真のシティズンシップとは、実際の社会関係や再配分のメカニズム、さらには平等社会の実現が直面する諸問題について理解を深めることである。その目的は、単なる情報の利用可能性を超えて、社会を解釈することにあるのだ。この可能性を高めるためには、学校、メディアが重要な役割を担う。とりわけ、メディアは、単なる、量的水準ではインターネットが失わせてしまった実践的かつ民主的な中枢性を取り戻すことになる。情報が溢れる世界にあって、彼らに情報の序列化や解説の仕事に貢献してもらうことは極めて重要である。
・統治責任は、権力の保持が選挙から直接帰結するとしても、権力の行使の方は、認証とチェック(これらは継続的なものである)についての別種のメカニズムと関連付けることを認める方法の一つである。それゆえ統治責任は、被治者と統治者の関係を構築する主要な要素である。それは、統治者をコントロールの諸形式に服せしめることによって被治者に権力を再び付与する。統治責任を負うということは、実際、このような制限を実質的なものとする手続きに統治者が従うということである。別の仕方で、統治責任を理解すると、「企図的な意志」、「再帰的な意志」を区別することを含意する。企図的な意志とは、エネルギーと想像力として、抵抗を打ち破り、逆境に打ち勝ち、持続的であろうという決意として理解できる。歴史上、それを体現した典型的な人物は、例えば、「意志の食人鬼」と呼ばれたナポレオンである。再帰的な意志は、社会を貫く紛争、不平等、不和、偏見を露わにするために考察する。それらを万人に見えるものとし、それらを公的な議論の対象とするためである。この場合、統治者の履行約束は、より公正かつ自由で、より平和化された社会を打ち立てるために、社会が自分自身に対して行う共同作業に関わるものとなる。再帰的な意志の力は、社会に対して、己の実際の構造が己をどのように身動きできなくさせているかを知覚させ、そのことによって社会改革を実現させる(語源的な意味での「改革」)、という能力と結びついている。それゆえ再帰的な意志の行使は、明晰に状況を判断する作業とも関わる。
・応答性
今日、地球上のどこであっても、市民は、自ら選んだ者たちに自分の声が届いているとか、代表されていると徐々に感じなくなっている。市民が投票の際に表明した意見は、議会の内奥に消えていき、統治者たちは〔市民の意見に〕聞く耳を持たないようにみえる。他方、いまや、ごく普通の市民の意志は、ソーシャル・ネットワーク上でバラバラに表明されるだけである。その意志表明は、圧力集団の利益に巧妙に操作されているか、あるいは不明瞭な抗議表明に退行している。このように、統治者の感受性の欠如と、衰弱した市民の意志表明が同時に結びついている。
これから、社会が権力を己のものにするということは、統治者を自動的に[社会の]後見下におくという、委任の観念から帰結すると想定されてきた様式(周知のように、それは決してうまくいかなかったのであるが)とは別の様式において実現される。まずは、{政策の}正当化を強制されることと、{政策に関する}情報を循環させることによってこそ、権力は今や社会に歩み寄ることができる。そして同時に、市民は、物事をよりよく理解し、今の争点を認識し、自分たちの体験に言語表現と意味を与えるための手段を与えられたとき、自分がより強いと感じる。なぜなら[権力との]距離感や[権力を]不当に奪われたという感情は、無知に由来するからである。逆に、その機能がより分かりやすく、より正確に説明を行う権力は、傲慢さを失う。権力は透明になればなるほど、構造的にますます傲慢でなくなる。だから、市民が情報や知識の循環に関与していると感じるとき、実際、彼らは、統治者と新しい関係を築いているのである。市民は、権力を「奪取」したり、権力に「命令」することによってではなく、権力を再定義し、それを別様に機能させるよう促すことによって、権力を己のものとするのである。こうして相互作用の民主主義においては、社会的な権力の新しい政治的な配置-「エンパワーメント{capacitation}」-が実現される。
・民主主義が機能する条件をめぐる議論を、より強固な共同性を生み出す条件の理解へと架橋しながら、民主主義そのものをめぐる仕事として把握することが重要である。
最後まで、読んでくださいましてありがとうございます。「で、結局、お前何がわかったのよ」という問いが胸の中に起こっています。その問いには、「民主主義はいろいろ問題を含んでいるが、だけど、全然意見の異なる人々とも議論しながらも、それらの問題を解決して進んでいくしかない。民主主義において間違った判断もなされる場合もあるかもしれないが、政治においての、思想、行動、制度としての土台は、これしかないということがわかった。」と僕は答えます。ブルデューもすごいけど、ロザンヴァロン教授もすごい。(同等比較級的)このことを、今の僕は感じております。
今年の1月までトランプ氏がアメリカ合衆国大統領であった。この事実は僕にとって大きな謎です。USAの有権者は何を考えて、彼にどのような政治を託したのだろうか、ということがよく理解できないでいます。異国の問題だから関係ないとよというスタンスもあるかもしれませんが、自国のさまざまな政治的混迷もあって、やっぱ、考えていかなければならない問題事項であると僕の意識の中で結構引っかかっています。そんな中で、同書を読みました。ピエール・ロザンヴァロン教授はポピュリズムが生み出される政治的土壌を、僕がいままで読んだ本の中でいちばんわかりやすく論じています。以下に、僕がポイントと感じた内容をまとめてみました。
・はたして独裁化するポピュリズム政治家の暴走に、有効な歯止めを打ち立てることはできないのだろうか。その上で、現代社会における人々のニーズに応える、新たな民主主義の展望はありえないのか。今日の世界において目につくのは、ポピュリズムと独裁的な指導者たちである。既製政治のゆきづまり、とくに政党政治の不振に対する不満の増大は、政治家を含むエリート層への批判を加速させている。ポピュリズム政治家の多くは、伝統的な政党組織を「中抜き」にして直接有権者に訴えかけることを特徴としている。硬直化した政党組織では汲み取れない人々の不満や不安に訴え、その支持をエネルギー源に自らの影響力を拡大していく。時として、彼ら彼女らは伝統的な人権尊重や権力分立の原則さえ軽視し、情報操作や隠蔽によって政治的公開性を踏みにじる。自らに批判的なメディアを激しく攻撃するなど、言論の自由を顧慮することもない。
・ロザンヴァロン教授はフランス革命まで遡りフランスの政治状況を検討しつつ、ワイマール共和国からナチスの独裁に至った歴史的事実なども射程に入れて、政治史、政治思想史の研究を通じて、民主主義と民主主義思想の軌跡を把握するという方法で、不確実な未来における民主主義の新たな姿を展望している。
・被治者のものとなる民主主義(dèmocratie d’appropriation)のために重視しなければならない要素は、
理解可能性、統治責任、応答性の三つである。
・理解可能性は、社会とそれを動かすメカニズムを実質的に理解する企てへと向かわせる。そして、それは、市民が公共機関の活動を自分たち自身で把握する可能性のことでもある。これにより、個々人が真のシティズンシップと呼びうるような状態に置かれるだろう。真のシティズンシップとは、実際の社会関係や再配分のメカニズム、さらには平等社会の実現が直面する諸問題について理解を深めることである。その目的は、単なる情報の利用可能性を超えて、社会を解釈することにあるのだ。この可能性を高めるためには、学校、メディアが重要な役割を担う。とりわけ、メディアは、単なる、量的水準ではインターネットが失わせてしまった実践的かつ民主的な中枢性を取り戻すことになる。情報が溢れる世界にあって、彼らに情報の序列化や解説の仕事に貢献してもらうことは極めて重要である。
・統治責任は、権力の保持が選挙から直接帰結するとしても、権力の行使の方は、認証とチェック(これらは継続的なものである)についての別種のメカニズムと関連付けることを認める方法の一つである。それゆえ統治責任は、被治者と統治者の関係を構築する主要な要素である。それは、統治者をコントロールの諸形式に服せしめることによって被治者に権力を再び付与する。統治責任を負うということは、実際、このような制限を実質的なものとする手続きに統治者が従うということである。別の仕方で、統治責任を理解すると、「企図的な意志」、「再帰的な意志」を区別することを含意する。企図的な意志とは、エネルギーと想像力として、抵抗を打ち破り、逆境に打ち勝ち、持続的であろうという決意として理解できる。歴史上、それを体現した典型的な人物は、例えば、「意志の食人鬼」と呼ばれたナポレオンである。再帰的な意志は、社会を貫く紛争、不平等、不和、偏見を露わにするために考察する。それらを万人に見えるものとし、それらを公的な議論の対象とするためである。この場合、統治者の履行約束は、より公正かつ自由で、より平和化された社会を打ち立てるために、社会が自分自身に対して行う共同作業に関わるものとなる。再帰的な意志の力は、社会に対して、己の実際の構造が己をどのように身動きできなくさせているかを知覚させ、そのことによって社会改革を実現させる(語源的な意味での「改革」)、という能力と結びついている。それゆえ再帰的な意志の行使は、明晰に状況を判断する作業とも関わる。
・応答性
今日、地球上のどこであっても、市民は、自ら選んだ者たちに自分の声が届いているとか、代表されていると徐々に感じなくなっている。市民が投票の際に表明した意見は、議会の内奥に消えていき、統治者たちは〔市民の意見に〕聞く耳を持たないようにみえる。他方、いまや、ごく普通の市民の意志は、ソーシャル・ネットワーク上でバラバラに表明されるだけである。その意志表明は、圧力集団の利益に巧妙に操作されているか、あるいは不明瞭な抗議表明に退行している。このように、統治者の感受性の欠如と、衰弱した市民の意志表明が同時に結びついている。
これから、社会が権力を己のものにするということは、統治者を自動的に[社会の]後見下におくという、委任の観念から帰結すると想定されてきた様式(周知のように、それは決してうまくいかなかったのであるが)とは別の様式において実現される。まずは、{政策の}正当化を強制されることと、{政策に関する}情報を循環させることによってこそ、権力は今や社会に歩み寄ることができる。そして同時に、市民は、物事をよりよく理解し、今の争点を認識し、自分たちの体験に言語表現と意味を与えるための手段を与えられたとき、自分がより強いと感じる。なぜなら[権力との]距離感や[権力を]不当に奪われたという感情は、無知に由来するからである。逆に、その機能がより分かりやすく、より正確に説明を行う権力は、傲慢さを失う。権力は透明になればなるほど、構造的にますます傲慢でなくなる。だから、市民が情報や知識の循環に関与していると感じるとき、実際、彼らは、統治者と新しい関係を築いているのである。市民は、権力を「奪取」したり、権力に「命令」することによってではなく、権力を再定義し、それを別様に機能させるよう促すことによって、権力を己のものとするのである。こうして相互作用の民主主義においては、社会的な権力の新しい政治的な配置-「エンパワーメント{capacitation}」-が実現される。
・民主主義が機能する条件をめぐる議論を、より強固な共同性を生み出す条件の理解へと架橋しながら、民主主義そのものをめぐる仕事として把握することが重要である。
最後まで、読んでくださいましてありがとうございます。「で、結局、お前何がわかったのよ」という問いが胸の中に起こっています。その問いには、「民主主義はいろいろ問題を含んでいるが、だけど、全然意見の異なる人々とも議論しながらも、それらの問題を解決して進んでいくしかない。民主主義において間違った判断もなされる場合もあるかもしれないが、政治においての、思想、行動、制度としての土台は、これしかないということがわかった。」と僕は答えます。ブルデューもすごいけど、ロザンヴァロン教授もすごい。(同等比較級的)このことを、今の僕は感じております。
2020年5月24日(日)
いかがお過ごしでしょうか?
Herbert.A. Simon 『WHAT WE KNOW ABOUT THE CREATIVE PROCESS』
このところ、御多分に漏れず家にいる時間が多くなっています。気が置けないメンバーと、生ビールでもがんがん飲んで、むしゃくしゃした気持ちを何とかしたいですが、こればかりはどうもなりません。一日でも早く、そのようなことが可能な日常がもどってくれることこそが、今の僕の切なる願いです。
そこで、以前よりずうーと気になっていた論文を読むことにしました。この論文を知ることとなったきっかけは、影山喜一先生の『ゲーム社会』中央経済社1989年のなかで取り上げられていたからです。今はいい時代です。ネットで簡単に論文をダウンロードできます。高校卒業程度の英語力とすこしばかりの根気、そして、経営学や科学に対する興味があれば何とか読み終えることができます。あと、いい英和辞典がどうしても必要です。阿部一先生の『アドバンス フェバリツト』東京書籍がおすすめです。はっきり言って、この論文に書かれている内容を、僕も十分に理解したとはいえません。暮らしの問題を少しでも解決するための心的態度をgrade up したい方は、ぜひ紐解いてじゃなくダウンロードしてみてはどうでしょうか。
経営学を勉強された方ならば、一度は必ずSimon教授のお名前は聞くことになる大先生です。『経営行動』が著書として有名です。1978年にノーベル経済学賞を受賞されております。Simon教授は本論文において、創造性という問題を天才の属性としてではなく、社会科学の対象として議論しています。歴史に残る大発見もわれわれ一般人が日々日常で行う小さい発見も基本的には同じであるという前提で議論が行われております。以下が、僕が注目したポイントです。
・ その行動が創造的であると判断されるためには、斬新性があり、interestingでかつ社会的価値を有しているときである。
・ 斬新性とは文字通り世界で新しく、その発見者に対して新しいということを意味する。
・ パスツール(1822~95年 フランスの細菌学者)は以下の言葉をのこしている。
「チャンスは準備されている心におくられる。」
・ 専門家として働くには、その創造性に対して事前に要求される知識や努力として、10年間の歳月と5万チャンクの知識がひとつの目安となる。
・ 経営者が必要とされる5万チャンクの知識の内容としては、第一には、組織内での人間の行動についての知識、組織がいかに機能するかについての知識。第二には、組織の仕事の内容についての知識(それはその産業についての広く特別なもの、あるいは会社や工場についての個別的であるかも知れない内容)などがあげられる。
・ 経営者は一人では完全に把握することができない内容をその仕事に含むために、以下の三つの戦略を発展させる。第一には、部下たちとの多様なコミニケーション・チャンネルを用いた情報交換が促進されるように仕向ける。そのことによって、単一の専門性に囚われるということを回避できる。第二には、専門家の結論や忠告の基礎となる隠された仮定をその専門家たちが明らかにする気になるようにとことん議論する能力を高める。第三には、共同経営者と部下が下位目標にたいしてもつ執着を弱めつつ、組織の最終目標に彼らが一体化することを強化する。
・ いつも創造的な科学者が有している特徴は少なくとも以下の三点である。偶然に対して敏感であること、そしてそれらをつかみとる心的態度。次に、研究目標や研究すべき問題に対しての定義、選択に対しての配慮や思慮深さ。更にはリスクをしっかりと計算し恐れない心的態度。
・ 創造的な機会はほとんど、失敗するかもしれない機会とスッキリとは分離されてはいない。
・ 創造的な過程とは問題解決の過程である。そして、その行動は天分の才能ではない。効果的な問題解決は知識を土台としている。更には、その知識は、熟練者が直感的に迅速に状況を把握することを可能とする。その直感も、神秘的なものではなく、知識に裏付けされた経験と訓練の賜物である。
じゃあ、お前の創造性はどうなのよと言われたら、何も言うことができないのが今の私です。ただ、これからの方向性としては、いずれの分野でも、先人たちの作り上げた道を横道にそれないでただ進んでいってもダメ!であるということは確かなような気がしています。とりあえずは、先人達の生み出したものでも優れたもの、そして、諸外国の卓越したものを探して、それらを、身近な人たちと批判的に検討して新しいものを生み出していくしかないというような気が、ここ3ヶ月で特に僕の中で強くなってます。そのための土台になるのではないかと考えまして、Simon教授の論文を読みました。
創造性を若い人々が養えるような教育はどうあればよいのか、新しい問題が自分自身の中で沸き起こっています。皆さんは、どのような手がかりをお考えでしようか?
このところ、御多分に漏れず家にいる時間が多くなっています。気が置けないメンバーと、生ビールでもがんがん飲んで、むしゃくしゃした気持ちを何とかしたいですが、こればかりはどうもなりません。一日でも早く、そのようなことが可能な日常がもどってくれることこそが、今の僕の切なる願いです。
そこで、以前よりずうーと気になっていた論文を読むことにしました。この論文を知ることとなったきっかけは、影山喜一先生の『ゲーム社会』中央経済社1989年のなかで取り上げられていたからです。今はいい時代です。ネットで簡単に論文をダウンロードできます。高校卒業程度の英語力とすこしばかりの根気、そして、経営学や科学に対する興味があれば何とか読み終えることができます。あと、いい英和辞典がどうしても必要です。阿部一先生の『アドバンス フェバリツト』東京書籍がおすすめです。はっきり言って、この論文に書かれている内容を、僕も十分に理解したとはいえません。暮らしの問題を少しでも解決するための心的態度をgrade up したい方は、ぜひ紐解いてじゃなくダウンロードしてみてはどうでしょうか。
経営学を勉強された方ならば、一度は必ずSimon教授のお名前は聞くことになる大先生です。『経営行動』が著書として有名です。1978年にノーベル経済学賞を受賞されております。Simon教授は本論文において、創造性という問題を天才の属性としてではなく、社会科学の対象として議論しています。歴史に残る大発見もわれわれ一般人が日々日常で行う小さい発見も基本的には同じであるという前提で議論が行われております。以下が、僕が注目したポイントです。
・ その行動が創造的であると判断されるためには、斬新性があり、interestingでかつ社会的価値を有しているときである。
・ 斬新性とは文字通り世界で新しく、その発見者に対して新しいということを意味する。
・ パスツール(1822~95年 フランスの細菌学者)は以下の言葉をのこしている。
「チャンスは準備されている心におくられる。」
・ 専門家として働くには、その創造性に対して事前に要求される知識や努力として、10年間の歳月と5万チャンクの知識がひとつの目安となる。
・ 経営者が必要とされる5万チャンクの知識の内容としては、第一には、組織内での人間の行動についての知識、組織がいかに機能するかについての知識。第二には、組織の仕事の内容についての知識(それはその産業についての広く特別なもの、あるいは会社や工場についての個別的であるかも知れない内容)などがあげられる。
・ 経営者は一人では完全に把握することができない内容をその仕事に含むために、以下の三つの戦略を発展させる。第一には、部下たちとの多様なコミニケーション・チャンネルを用いた情報交換が促進されるように仕向ける。そのことによって、単一の専門性に囚われるということを回避できる。第二には、専門家の結論や忠告の基礎となる隠された仮定をその専門家たちが明らかにする気になるようにとことん議論する能力を高める。第三には、共同経営者と部下が下位目標にたいしてもつ執着を弱めつつ、組織の最終目標に彼らが一体化することを強化する。
・ いつも創造的な科学者が有している特徴は少なくとも以下の三点である。偶然に対して敏感であること、そしてそれらをつかみとる心的態度。次に、研究目標や研究すべき問題に対しての定義、選択に対しての配慮や思慮深さ。更にはリスクをしっかりと計算し恐れない心的態度。
・ 創造的な機会はほとんど、失敗するかもしれない機会とスッキリとは分離されてはいない。
・ 創造的な過程とは問題解決の過程である。そして、その行動は天分の才能ではない。効果的な問題解決は知識を土台としている。更には、その知識は、熟練者が直感的に迅速に状況を把握することを可能とする。その直感も、神秘的なものではなく、知識に裏付けされた経験と訓練の賜物である。
じゃあ、お前の創造性はどうなのよと言われたら、何も言うことができないのが今の私です。ただ、これからの方向性としては、いずれの分野でも、先人たちの作り上げた道を横道にそれないでただ進んでいってもダメ!であるということは確かなような気がしています。とりあえずは、先人達の生み出したものでも優れたもの、そして、諸外国の卓越したものを探して、それらを、身近な人たちと批判的に検討して新しいものを生み出していくしかないというような気が、ここ3ヶ月で特に僕の中で強くなってます。そのための土台になるのではないかと考えまして、Simon教授の論文を読みました。
創造性を若い人々が養えるような教育はどうあればよいのか、新しい問題が自分自身の中で沸き起こっています。皆さんは、どのような手がかりをお考えでしようか?
2020年4月25日(土)
芸術の力
2020年4月23日(木)
本田由紀教授 おすすめの一冊です!
世の中は新型コロナウイルス感染拡大でひどいことになっています。一日も早い終息を念じています。
今回は、終息後の世の中のあり方を構想するために、本田教授の作品を読みポイントをまとめてみました。現在の日本の閉塞状況の原因の一つには、教育の中またその出口に歴史的、社会的に構築された構造が存在するということが本田教授の論考を読むことで手に取るように理解できました。また、教育の問題は働きの領域とつなげて検討していかなければならないということも今回改めて学ぶことができました。
本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書2020年
・近年の日本の経済的な停滞と社会的な遅れは、誰の目からも否定できない。その原因もまた数々指摘されているが、そのリストに、「どんな人」が望ましいかをめぐる、この国の独特な言葉とその用法という側面を付け加えておく必要があると考える。本書が具体的なターゲットとして据えるのは、「能力」および「資質」「態度」という三つの言葉である。
・垂直的序列(相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味しており、しかもより近年にいたってその「能力」基準の内容が複雑化している。)
垂直的序列の2つの軸
Ⅰ 日本的メリトクラシー(従来から存在する基準は主に知的で汎用的な学校的「能力」としての学力)
①生得的な要素と後天的に獲得された要素を区別しないこと、②個人に内在する性質を意味していること、③「○○能力」と限定せずに「能力」のみで用いられる場合、人間の全般的かつ総合的な性質を意味するため、一元的な高低を想起させること、という意味作用をもつ。「○○能力」と限定して用いられる場合であっても、「○○」に入れる言葉の抽象性が高ければ(たとえば「コミュニケーション」や「問題解決」など)、同様に全般的で総合的な高低という意味を伴う。それゆえ、こうした「能力」という言葉を含む「能力主義」も、生得・後天の両面をもつ個人内在的な性質に関する上下の差異化を意味するものとして用いられてきたが、そのこと自体が垂直的序列化を促進・正当化してきた。
Ⅱ ハイパー・メリトクラシー(新たに重要性を増してきている基準)
知的な「学力」以外の、「生きる力」や「人間力」といった主体性・意欲・個性等々の情動的・包括的な能力による垂直軸による評価や選抜。
・水平的画一化(特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。これは具体的には、顕在的・潜在的な「教化」の形をとる。)水平的画一化と不可分の言葉は、「態度」および「資質」である。今世紀に入って学校現場の全体を巻き込む形で制度化された「教化」を、「ハイパー教化」と本書の中では呼んでいる。
ハイパー教化
「道徳」も、<厳格化>・<感情化>する指導も、児童生徒に対して、特定の均質なふるまいと「心」のあり方を求めるものである。そこからはみ出すことは許されず、仮にはみ出せば攻撃や排除や否定の対象とされる。求められる方向に同調するか、さもなくばネガティブな扱いに甘んじよ、という装置と空気が、授業でも、授業以外の学校生活や行事でも、学校現場に蔓延している。このように学校の全域に及びつつある水平的画一化。
・これらの垂直的序列と水平的画一化の支配のもとで、過少になっているのが水平的多様化である。水平的多様化とは、一元的な上下(垂直的序列)とも均質性(水平的画一化)とも異なり、互いに質的に異なる様々な存在が、顕著な優劣なく並存している状態を意味している。その中核にある原理は、異質であることの価値を認め、排除を可能な限り抑制することにある。
・日本社会が直面している重大な課題は①少子高齢化と人口減少、②経済と技術の低迷、③格差と貧困、④社会保障の不備と財政赤字、⑤女性の社会進出の不振、⑥マイノリティ(外国につながりをもつ人々、生活保護受給者など困窮者、障害者、LGBTなど)への差別の強さ。
・これらの課題に対処するためには、属性や状況を問わずあらゆる人々が存在を尊重され、基礎的な生活を保障されるとともに、それぞれのアイデアや得意なことを存分に伸ばしたり発揮したりすることができ、適正な報酬を得て、社会全体の基盤整備と再配分や福祉のための公的財源に寄与するような社会状況を、従来の固定観念や差別的な意識を超えて作り出していくことが不可欠である。このような社会の在り方を実現していくために重要なのは、様々に異質な他者を尊重し、新しい発想や挑戦を受け入れ称賛するような柔軟性である。
ここからはブログ主宰者の感想です。大学で私が習った影山喜一先生は『企業社会と人間』(日本経済新聞社1976年)のなかで、大学から企業への学生の移行過程に生じる問題を指摘していました。長いけど引用します。
六~九月、職さがしに4年生が忙殺されるのを、教師は歯ぎしりしながらじっと耐える。だが内定後も、いくつかの企業は学生にたいして学校のスケジュールにくいこむ作業を強要する。それらの作業がどれほど企業にとって意味のあるものなのか、部外者の眼にはきわめてあやふやにうつる。あわれな学生は、せめて半年くらい勉強してみたいと感じつつ、内定を取りけされないかと四六時中びくついている。結局かれは、大学を捨てて企業をとる。はじめからそうなるしかないとしても、かれの心には癒しがたい傷がのこるだろう。ぼろぼろにすり切れた精神には、「無理がとおり道理がひっこむ」世界にこれからはいるという自嘲の念が色こくやきつく。ひょっとすると、それこそが最初から企業の狙いだったのかもしれない。
現在、学校生活を送っている方々の中で、「もうやってられないよ」と感じておられる先生や生徒諸君が少なからずおられるということは、結構前から私は知っています。1970年代当時よりさらに長期化した、現在の大学生諸君の職さがし期間の状況はよくなっているのでしょうか。メディアで報道されている黒のスーツで就活している若い人々は何を思って感じながらオフィス街を駆け回っているのでしょうか?結局、日本社会はこれまで特に若い人々を教育するためにお金をとりわけ公的に十分に注いでこなかった点も然ることながら、一人ひとりが1回きりの自分の人生を歩んでいくための力をひとりひとりにはぐくんでいくための教育という視点がないがしろにされてきたと言えるかもしれません。もしかしたら、その傾向が最近さらに強まってきているんではないのかという気がすごくしています。それは影山先生の先の引用と本田教授の作品を読んで僕は実感しています。ただ、本田教授が実施した調査の中で「特別の教科 道徳」について問題を感じている教員が6割もおられたということ。また、企業のなかでもようやく、新しい取り組みが少しずつ始まっているように感じられる点もなども本田教授は指摘されております。現在の学校の中でしんどいながらもがんばっておられる先生方。このような先生方が活躍できるには、学校がどうあればよいのか。日本の企業で今後人々はどう働いていけばよいのか。ひとりひとりの若者が自らの人生を前向きに生きていくための力を育むための学校教育はどうあればよいのか。これらの問題を考えるために、本田教授の『教育は何を評価してきたのか』は最適のテキストです。
今回は、終息後の世の中のあり方を構想するために、本田教授の作品を読みポイントをまとめてみました。現在の日本の閉塞状況の原因の一つには、教育の中またその出口に歴史的、社会的に構築された構造が存在するということが本田教授の論考を読むことで手に取るように理解できました。また、教育の問題は働きの領域とつなげて検討していかなければならないということも今回改めて学ぶことができました。
本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書2020年
・近年の日本の経済的な停滞と社会的な遅れは、誰の目からも否定できない。その原因もまた数々指摘されているが、そのリストに、「どんな人」が望ましいかをめぐる、この国の独特な言葉とその用法という側面を付け加えておく必要があると考える。本書が具体的なターゲットとして据えるのは、「能力」および「資質」「態度」という三つの言葉である。
・垂直的序列(相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味しており、しかもより近年にいたってその「能力」基準の内容が複雑化している。)
垂直的序列の2つの軸
Ⅰ 日本的メリトクラシー(従来から存在する基準は主に知的で汎用的な学校的「能力」としての学力)
①生得的な要素と後天的に獲得された要素を区別しないこと、②個人に内在する性質を意味していること、③「○○能力」と限定せずに「能力」のみで用いられる場合、人間の全般的かつ総合的な性質を意味するため、一元的な高低を想起させること、という意味作用をもつ。「○○能力」と限定して用いられる場合であっても、「○○」に入れる言葉の抽象性が高ければ(たとえば「コミュニケーション」や「問題解決」など)、同様に全般的で総合的な高低という意味を伴う。それゆえ、こうした「能力」という言葉を含む「能力主義」も、生得・後天の両面をもつ個人内在的な性質に関する上下の差異化を意味するものとして用いられてきたが、そのこと自体が垂直的序列化を促進・正当化してきた。
Ⅱ ハイパー・メリトクラシー(新たに重要性を増してきている基準)
知的な「学力」以外の、「生きる力」や「人間力」といった主体性・意欲・個性等々の情動的・包括的な能力による垂直軸による評価や選抜。
・水平的画一化(特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。これは具体的には、顕在的・潜在的な「教化」の形をとる。)水平的画一化と不可分の言葉は、「態度」および「資質」である。今世紀に入って学校現場の全体を巻き込む形で制度化された「教化」を、「ハイパー教化」と本書の中では呼んでいる。
ハイパー教化
「道徳」も、<厳格化>・<感情化>する指導も、児童生徒に対して、特定の均質なふるまいと「心」のあり方を求めるものである。そこからはみ出すことは許されず、仮にはみ出せば攻撃や排除や否定の対象とされる。求められる方向に同調するか、さもなくばネガティブな扱いに甘んじよ、という装置と空気が、授業でも、授業以外の学校生活や行事でも、学校現場に蔓延している。このように学校の全域に及びつつある水平的画一化。
・これらの垂直的序列と水平的画一化の支配のもとで、過少になっているのが水平的多様化である。水平的多様化とは、一元的な上下(垂直的序列)とも均質性(水平的画一化)とも異なり、互いに質的に異なる様々な存在が、顕著な優劣なく並存している状態を意味している。その中核にある原理は、異質であることの価値を認め、排除を可能な限り抑制することにある。
・日本社会が直面している重大な課題は①少子高齢化と人口減少、②経済と技術の低迷、③格差と貧困、④社会保障の不備と財政赤字、⑤女性の社会進出の不振、⑥マイノリティ(外国につながりをもつ人々、生活保護受給者など困窮者、障害者、LGBTなど)への差別の強さ。
・これらの課題に対処するためには、属性や状況を問わずあらゆる人々が存在を尊重され、基礎的な生活を保障されるとともに、それぞれのアイデアや得意なことを存分に伸ばしたり発揮したりすることができ、適正な報酬を得て、社会全体の基盤整備と再配分や福祉のための公的財源に寄与するような社会状況を、従来の固定観念や差別的な意識を超えて作り出していくことが不可欠である。このような社会の在り方を実現していくために重要なのは、様々に異質な他者を尊重し、新しい発想や挑戦を受け入れ称賛するような柔軟性である。
ここからはブログ主宰者の感想です。大学で私が習った影山喜一先生は『企業社会と人間』(日本経済新聞社1976年)のなかで、大学から企業への学生の移行過程に生じる問題を指摘していました。長いけど引用します。
六~九月、職さがしに4年生が忙殺されるのを、教師は歯ぎしりしながらじっと耐える。だが内定後も、いくつかの企業は学生にたいして学校のスケジュールにくいこむ作業を強要する。それらの作業がどれほど企業にとって意味のあるものなのか、部外者の眼にはきわめてあやふやにうつる。あわれな学生は、せめて半年くらい勉強してみたいと感じつつ、内定を取りけされないかと四六時中びくついている。結局かれは、大学を捨てて企業をとる。はじめからそうなるしかないとしても、かれの心には癒しがたい傷がのこるだろう。ぼろぼろにすり切れた精神には、「無理がとおり道理がひっこむ」世界にこれからはいるという自嘲の念が色こくやきつく。ひょっとすると、それこそが最初から企業の狙いだったのかもしれない。
現在、学校生活を送っている方々の中で、「もうやってられないよ」と感じておられる先生や生徒諸君が少なからずおられるということは、結構前から私は知っています。1970年代当時よりさらに長期化した、現在の大学生諸君の職さがし期間の状況はよくなっているのでしょうか。メディアで報道されている黒のスーツで就活している若い人々は何を思って感じながらオフィス街を駆け回っているのでしょうか?結局、日本社会はこれまで特に若い人々を教育するためにお金をとりわけ公的に十分に注いでこなかった点も然ることながら、一人ひとりが1回きりの自分の人生を歩んでいくための力をひとりひとりにはぐくんでいくための教育という視点がないがしろにされてきたと言えるかもしれません。もしかしたら、その傾向が最近さらに強まってきているんではないのかという気がすごくしています。それは影山先生の先の引用と本田教授の作品を読んで僕は実感しています。ただ、本田教授が実施した調査の中で「特別の教科 道徳」について問題を感じている教員が6割もおられたということ。また、企業のなかでもようやく、新しい取り組みが少しずつ始まっているように感じられる点もなども本田教授は指摘されております。現在の学校の中でしんどいながらもがんばっておられる先生方。このような先生方が活躍できるには、学校がどうあればよいのか。日本の企業で今後人々はどう働いていけばよいのか。ひとりひとりの若者が自らの人生を前向きに生きていくための力を育むための学校教育はどうあればよいのか。これらの問題を考えるために、本田教授の『教育は何を評価してきたのか』は最適のテキストです。
2020年3月22日(日)
これぞ 教育社会学!
児美川 孝一郎『高校教育の新しいかたち』泉文堂2019年
今日の高校が抱える困難と課題の由来が、戦後のある時期以降、高校が<自律システム化>してしまったがゆえに、高校教育と<職業社会との疎隔>が生じ、その結果として、生徒が高校で学ぶことの意味と意義を実感できなくなった(同書171ページ)
児美川教授の同作品のなかで僕が注目した点をまとめてみました。
本書のねらいは、「日本の高校が抱え込んだ困難と課題が、もはや<臨界点>にまで近づきつつある姿を、戦後の高校制度の歴史的展開にも目配りをしつつ、ていねいに描き出すこと」です。そのための視点は<職業社会との疎隔>、 <階層的序列化>の2点です。
第一点目の視点の考察から得られた知見は下記です。
今後は、個人が自律的に自らのキャリア開発の主体となって、(企業とわたりあったり、転職や起業などを試みたりすることを含めて)職業世界を漕ぎ渡っていくことが主流になろう。そうした意味では、ここで述べてきた、高校教育が取り戻すべき産業界(労働市場)との接続は、より正確には「職業社会との接続」であると言うべきである。(37ページ)
第二点目の視点では、大阪府内の公立高校三校(普通科高校、専門高校、専門コースを設置する普通科高校)を取り上げて、それぞれの学校における教育困難の様相を提示しつつ、困難や課題への対処の方略、実践上の成果や限界を明らかにしています。更には、別に章立てをし、岩手県のK地域の高校生の進路選択行動を検討しています。取り上げられた地域は、2011年の東日本大震災において、津波による大きな被害を受けた被災地です。東日本大震災後の若者たちを中心とした「地元への愛着」や「絆」の意識、「地元定着」や「地元への貢献志向」の強まりは、高校生の高卒後の進路選択行動を震災前とくらべて大きく変えてはいないということ、「変わらない現実」を明らかにしています。
この地域の高校生たちの高卒後の進路選択行動を規定してきた、変わらない「構造」は、地域経済を含むK地域の「社会的現実」でもある。そして、結局のところ、高校教育の「体質」もまた、各学校が、<階層的序列化>のもとで自らに振り分けられた役割を忠実にこなすべく、生徒の進路支援を行うという意味で、震災以前と以後でまったく変わってはいない。(115~116ページ)
さらに、次の章ではある総合学科の高校を調査して、次の点も明らかにしています。
学校教育におけるキャリア教育において、「総合的な学習の時間」や特別活動を通じて実施される、キャリア教育に関する「取り立て指導」のみが教育的効果を発揮するのではなく、学校の教育課程全体が効果を持ち、生徒が履修科目を自主的に選択することや、通常の科目や授業に主体的に取り組むことそのものも、キャリア教育としての効果を持つということである。さらに、職業科目を学ぶことも、それが職業教育としての意義を持つだけではなく、キャリア教育としても重要な意味を発揮するということである。(142ページ)
同書の終わりの二つの章では、2018年3月に告示された新しい高等学校学習指導要領が検討され、その内容が孕む重大な問題点が明らかにされています。そして結論として、これまでにない、生徒の学びを重視した、斬新な高校のかたちが提示されています。
私としては、いつもながら児美川教授おっしゃる通りですというのが感想です。
そして、下記のことを思いました。力のある生徒が必ずしも、序列上位の進学校に進学するというわけではないという現実が僕の周りではあります。(「なんか、わたしの通いたい高校ではない感じ。」)同書でも議論されている「普通教育としての職業教育」と重なるかもしれませんが、そのような生徒が専門高校やあえて進路多様校に進学し、高校で先生方からていねいな指導を受け教科科目の内容の理解を深め、あるいは職業体験での専門家との対話のなかで自らの生活世界の諸問題を相対化する契機を得て、力を付けて自らの進路を実現している現実があります。(出口指導を重視し過ぎかもしれませんが。)このような生徒が行った学習行動の側から見た高校教育についての考察からも何か一般化できるものがあるような気がします。そのような生徒は確かに少数派かもしれませんが。植民地化されていない部分(笑)を有している生徒というか、つまりは、学(校)歴主義にのらないなかで努力を続ける生徒の存在です。このような生徒の学習行動にも、僕は注目していきたいです。
本書を読んで、「なんか違うんじゃないか」と制度としての学校に感じながら、生徒諸君と勉強し楽しく過ごした頃にあったモヤがすこし晴れました。
今日の高校が抱える困難と課題の由来が、戦後のある時期以降、高校が<自律システム化>してしまったがゆえに、高校教育と<職業社会との疎隔>が生じ、その結果として、生徒が高校で学ぶことの意味と意義を実感できなくなった(同書171ページ)
児美川教授の同作品のなかで僕が注目した点をまとめてみました。
本書のねらいは、「日本の高校が抱え込んだ困難と課題が、もはや<臨界点>にまで近づきつつある姿を、戦後の高校制度の歴史的展開にも目配りをしつつ、ていねいに描き出すこと」です。そのための視点は<職業社会との疎隔>、 <階層的序列化>の2点です。
第一点目の視点の考察から得られた知見は下記です。
今後は、個人が自律的に自らのキャリア開発の主体となって、(企業とわたりあったり、転職や起業などを試みたりすることを含めて)職業世界を漕ぎ渡っていくことが主流になろう。そうした意味では、ここで述べてきた、高校教育が取り戻すべき産業界(労働市場)との接続は、より正確には「職業社会との接続」であると言うべきである。(37ページ)
第二点目の視点では、大阪府内の公立高校三校(普通科高校、専門高校、専門コースを設置する普通科高校)を取り上げて、それぞれの学校における教育困難の様相を提示しつつ、困難や課題への対処の方略、実践上の成果や限界を明らかにしています。更には、別に章立てをし、岩手県のK地域の高校生の進路選択行動を検討しています。取り上げられた地域は、2011年の東日本大震災において、津波による大きな被害を受けた被災地です。東日本大震災後の若者たちを中心とした「地元への愛着」や「絆」の意識、「地元定着」や「地元への貢献志向」の強まりは、高校生の高卒後の進路選択行動を震災前とくらべて大きく変えてはいないということ、「変わらない現実」を明らかにしています。
この地域の高校生たちの高卒後の進路選択行動を規定してきた、変わらない「構造」は、地域経済を含むK地域の「社会的現実」でもある。そして、結局のところ、高校教育の「体質」もまた、各学校が、<階層的序列化>のもとで自らに振り分けられた役割を忠実にこなすべく、生徒の進路支援を行うという意味で、震災以前と以後でまったく変わってはいない。(115~116ページ)
さらに、次の章ではある総合学科の高校を調査して、次の点も明らかにしています。
学校教育におけるキャリア教育において、「総合的な学習の時間」や特別活動を通じて実施される、キャリア教育に関する「取り立て指導」のみが教育的効果を発揮するのではなく、学校の教育課程全体が効果を持ち、生徒が履修科目を自主的に選択することや、通常の科目や授業に主体的に取り組むことそのものも、キャリア教育としての効果を持つということである。さらに、職業科目を学ぶことも、それが職業教育としての意義を持つだけではなく、キャリア教育としても重要な意味を発揮するということである。(142ページ)
同書の終わりの二つの章では、2018年3月に告示された新しい高等学校学習指導要領が検討され、その内容が孕む重大な問題点が明らかにされています。そして結論として、これまでにない、生徒の学びを重視した、斬新な高校のかたちが提示されています。
私としては、いつもながら児美川教授おっしゃる通りですというのが感想です。
そして、下記のことを思いました。力のある生徒が必ずしも、序列上位の進学校に進学するというわけではないという現実が僕の周りではあります。(「なんか、わたしの通いたい高校ではない感じ。」)同書でも議論されている「普通教育としての職業教育」と重なるかもしれませんが、そのような生徒が専門高校やあえて進路多様校に進学し、高校で先生方からていねいな指導を受け教科科目の内容の理解を深め、あるいは職業体験での専門家との対話のなかで自らの生活世界の諸問題を相対化する契機を得て、力を付けて自らの進路を実現している現実があります。(出口指導を重視し過ぎかもしれませんが。)このような生徒が行った学習行動の側から見た高校教育についての考察からも何か一般化できるものがあるような気がします。そのような生徒は確かに少数派かもしれませんが。植民地化されていない部分(笑)を有している生徒というか、つまりは、学(校)歴主義にのらないなかで努力を続ける生徒の存在です。このような生徒の学習行動にも、僕は注目していきたいです。
本書を読んで、「なんか違うんじゃないか」と制度としての学校に感じながら、生徒諸君と勉強し楽しく過ごした頃にあったモヤがすこし晴れました。