2020年3月22日(日)
これぞ 教育社会学!
児美川 孝一郎『高校教育の新しいかたち』泉文堂2019年
今日の高校が抱える困難と課題の由来が、戦後のある時期以降、高校が<自律システム化>してしまったがゆえに、高校教育と<職業社会との疎隔>が生じ、その結果として、生徒が高校で学ぶことの意味と意義を実感できなくなった(同書171ページ)
児美川教授の同作品のなかで僕が注目した点をまとめてみました。
本書のねらいは、「日本の高校が抱え込んだ困難と課題が、もはや<臨界点>にまで近づきつつある姿を、戦後の高校制度の歴史的展開にも目配りをしつつ、ていねいに描き出すこと」です。そのための視点は<職業社会との疎隔>、 <階層的序列化>の2点です。
第一点目の視点の考察から得られた知見は下記です。
今後は、個人が自律的に自らのキャリア開発の主体となって、(企業とわたりあったり、転職や起業などを試みたりすることを含めて)職業世界を漕ぎ渡っていくことが主流になろう。そうした意味では、ここで述べてきた、高校教育が取り戻すべき産業界(労働市場)との接続は、より正確には「職業社会との接続」であると言うべきである。(37ページ)
第二点目の視点では、大阪府内の公立高校三校(普通科高校、専門高校、専門コースを設置する普通科高校)を取り上げて、それぞれの学校における教育困難の様相を提示しつつ、困難や課題への対処の方略、実践上の成果や限界を明らかにしています。更には、別に章立てをし、岩手県のK地域の高校生の進路選択行動を検討しています。取り上げられた地域は、2011年の東日本大震災において、津波による大きな被害を受けた被災地です。東日本大震災後の若者たちを中心とした「地元への愛着」や「絆」の意識、「地元定着」や「地元への貢献志向」の強まりは、高校生の高卒後の進路選択行動を震災前とくらべて大きく変えてはいないということ、「変わらない現実」を明らかにしています。
この地域の高校生たちの高卒後の進路選択行動を規定してきた、変わらない「構造」は、地域経済を含むK地域の「社会的現実」でもある。そして、結局のところ、高校教育の「体質」もまた、各学校が、<階層的序列化>のもとで自らに振り分けられた役割を忠実にこなすべく、生徒の進路支援を行うという意味で、震災以前と以後でまったく変わってはいない。(115~116ページ)
さらに、次の章ではある総合学科の高校を調査して、次の点も明らかにしています。
学校教育におけるキャリア教育において、「総合的な学習の時間」や特別活動を通じて実施される、キャリア教育に関する「取り立て指導」のみが教育的効果を発揮するのではなく、学校の教育課程全体が効果を持ち、生徒が履修科目を自主的に選択することや、通常の科目や授業に主体的に取り組むことそのものも、キャリア教育としての効果を持つということである。さらに、職業科目を学ぶことも、それが職業教育としての意義を持つだけではなく、キャリア教育としても重要な意味を発揮するということである。(142ページ)
同書の終わりの二つの章では、2018年3月に告示された新しい高等学校学習指導要領が検討され、その内容が孕む重大な問題点が明らかにされています。そして結論として、これまでにない、生徒の学びを重視した、斬新な高校のかたちが提示されています。
私としては、いつもながら児美川教授おっしゃる通りですというのが感想です。
そして、下記のことを思いました。力のある生徒が必ずしも、序列上位の進学校に進学するというわけではないという現実が僕の周りではあります。(「なんか、わたしの通いたい高校ではない感じ。」)同書でも議論されている「普通教育としての職業教育」と重なるかもしれませんが、そのような生徒が専門高校やあえて進路多様校に進学し、高校で先生方からていねいな指導を受け教科科目の内容の理解を深め、あるいは職業体験での専門家との対話のなかで自らの生活世界の諸問題を相対化する契機を得て、力を付けて自らの進路を実現している現実があります。(出口指導を重視し過ぎかもしれませんが。)このような生徒が行った学習行動の側から見た高校教育についての考察からも何か一般化できるものがあるような気がします。そのような生徒は確かに少数派かもしれませんが。植民地化されていない部分(笑)を有している生徒というか、つまりは、学(校)歴主義にのらないなかで努力を続ける生徒の存在です。このような生徒の学習行動にも、僕は注目していきたいです。
本書を読んで、「なんか違うんじゃないか」と制度としての学校に感じながら、生徒諸君と勉強し楽しく過ごした頃にあったモヤがすこし晴れました。
今日の高校が抱える困難と課題の由来が、戦後のある時期以降、高校が<自律システム化>してしまったがゆえに、高校教育と<職業社会との疎隔>が生じ、その結果として、生徒が高校で学ぶことの意味と意義を実感できなくなった(同書171ページ)
児美川教授の同作品のなかで僕が注目した点をまとめてみました。
本書のねらいは、「日本の高校が抱え込んだ困難と課題が、もはや<臨界点>にまで近づきつつある姿を、戦後の高校制度の歴史的展開にも目配りをしつつ、ていねいに描き出すこと」です。そのための視点は<職業社会との疎隔>、 <階層的序列化>の2点です。
第一点目の視点の考察から得られた知見は下記です。
今後は、個人が自律的に自らのキャリア開発の主体となって、(企業とわたりあったり、転職や起業などを試みたりすることを含めて)職業世界を漕ぎ渡っていくことが主流になろう。そうした意味では、ここで述べてきた、高校教育が取り戻すべき産業界(労働市場)との接続は、より正確には「職業社会との接続」であると言うべきである。(37ページ)
第二点目の視点では、大阪府内の公立高校三校(普通科高校、専門高校、専門コースを設置する普通科高校)を取り上げて、それぞれの学校における教育困難の様相を提示しつつ、困難や課題への対処の方略、実践上の成果や限界を明らかにしています。更には、別に章立てをし、岩手県のK地域の高校生の進路選択行動を検討しています。取り上げられた地域は、2011年の東日本大震災において、津波による大きな被害を受けた被災地です。東日本大震災後の若者たちを中心とした「地元への愛着」や「絆」の意識、「地元定着」や「地元への貢献志向」の強まりは、高校生の高卒後の進路選択行動を震災前とくらべて大きく変えてはいないということ、「変わらない現実」を明らかにしています。
この地域の高校生たちの高卒後の進路選択行動を規定してきた、変わらない「構造」は、地域経済を含むK地域の「社会的現実」でもある。そして、結局のところ、高校教育の「体質」もまた、各学校が、<階層的序列化>のもとで自らに振り分けられた役割を忠実にこなすべく、生徒の進路支援を行うという意味で、震災以前と以後でまったく変わってはいない。(115~116ページ)
さらに、次の章ではある総合学科の高校を調査して、次の点も明らかにしています。
学校教育におけるキャリア教育において、「総合的な学習の時間」や特別活動を通じて実施される、キャリア教育に関する「取り立て指導」のみが教育的効果を発揮するのではなく、学校の教育課程全体が効果を持ち、生徒が履修科目を自主的に選択することや、通常の科目や授業に主体的に取り組むことそのものも、キャリア教育としての効果を持つということである。さらに、職業科目を学ぶことも、それが職業教育としての意義を持つだけではなく、キャリア教育としても重要な意味を発揮するということである。(142ページ)
同書の終わりの二つの章では、2018年3月に告示された新しい高等学校学習指導要領が検討され、その内容が孕む重大な問題点が明らかにされています。そして結論として、これまでにない、生徒の学びを重視した、斬新な高校のかたちが提示されています。
私としては、いつもながら児美川教授おっしゃる通りですというのが感想です。
そして、下記のことを思いました。力のある生徒が必ずしも、序列上位の進学校に進学するというわけではないという現実が僕の周りではあります。(「なんか、わたしの通いたい高校ではない感じ。」)同書でも議論されている「普通教育としての職業教育」と重なるかもしれませんが、そのような生徒が専門高校やあえて進路多様校に進学し、高校で先生方からていねいな指導を受け教科科目の内容の理解を深め、あるいは職業体験での専門家との対話のなかで自らの生活世界の諸問題を相対化する契機を得て、力を付けて自らの進路を実現している現実があります。(出口指導を重視し過ぎかもしれませんが。)このような生徒が行った学習行動の側から見た高校教育についての考察からも何か一般化できるものがあるような気がします。そのような生徒は確かに少数派かもしれませんが。植民地化されていない部分(笑)を有している生徒というか、つまりは、学(校)歴主義にのらないなかで努力を続ける生徒の存在です。このような生徒の学習行動にも、僕は注目していきたいです。
本書を読んで、「なんか違うんじゃないか」と制度としての学校に感じながら、生徒諸君と勉強し楽しく過ごした頃にあったモヤがすこし晴れました。
2020年3月20日(金)
さすが経済学!
ジョセフ・E・スティグリッツ『プログレッシブ キャピタリズム』東洋経済新報社2020年
アメリカ人はむしろ、他人に身を捧げる人を称賛する。自分の子には、自分のことしか考えない利己的な人間ではなく、他人を気づかう優しい人間になってほしいと願う。つまり私たちは、経済学者が言う「ホモ・エコノミクス」(絶えず自己満足を追い求める利己的な人間)とはまるで違う、もっと複雑な存在なのである。だが、こうした称賛すべき傾向を認め、それを模範として政策に組み込む努力を怠っていると、卑しい傾向(強欲、他人の幸福への無関心)がそのすき間を埋めてしまう。するとアメリカという船は、針路を変え、暗黒の海域へと滑り込んでいく。そこでは、弱者が置き去りにされ、ルールを守らない者が得をし、規制者が規制されるべき人々に取り込まれ、監視人が脅され、すでに富裕な人々が搾取により経済的利益を独占し、「真実」や「事実」、「自由」、「共感」、「権利」といった概念が、政治的に都合のいい場合にだけ使われる言葉と化す。(318ページ)
経済学を、僕は若い時勉強しました。当時、力不足からか十分に理解はできませんでした。しかしながら、当時から各国で大きな社会的影響力を及ぼしてきつつあった供給サイドの経済学には強い強い違和感を感じてきました。「何のための学問なのだろう?」と素朴な疑問を持ちました。自然環境を重視しながら持続的経済成長を実現するためや貧困の撲滅といった人類に普遍的な課題に取り組むための知見を構築することこそを目的とする社会科学である経済学というのが私なりの理解は間違っているのだろうかとか考えたりもしました。この度、本書を読んでroughな経済学についての僕の理解も赤点ではないかもしれないと(笑)思うことができました。帯広・十勝のやる気のある若い方々が経済学研究を志してほしいと強く望みます。
アメリカ人はむしろ、他人に身を捧げる人を称賛する。自分の子には、自分のことしか考えない利己的な人間ではなく、他人を気づかう優しい人間になってほしいと願う。つまり私たちは、経済学者が言う「ホモ・エコノミクス」(絶えず自己満足を追い求める利己的な人間)とはまるで違う、もっと複雑な存在なのである。だが、こうした称賛すべき傾向を認め、それを模範として政策に組み込む努力を怠っていると、卑しい傾向(強欲、他人の幸福への無関心)がそのすき間を埋めてしまう。するとアメリカという船は、針路を変え、暗黒の海域へと滑り込んでいく。そこでは、弱者が置き去りにされ、ルールを守らない者が得をし、規制者が規制されるべき人々に取り込まれ、監視人が脅され、すでに富裕な人々が搾取により経済的利益を独占し、「真実」や「事実」、「自由」、「共感」、「権利」といった概念が、政治的に都合のいい場合にだけ使われる言葉と化す。(318ページ)
経済学を、僕は若い時勉強しました。当時、力不足からか十分に理解はできませんでした。しかしながら、当時から各国で大きな社会的影響力を及ぼしてきつつあった供給サイドの経済学には強い強い違和感を感じてきました。「何のための学問なのだろう?」と素朴な疑問を持ちました。自然環境を重視しながら持続的経済成長を実現するためや貧困の撲滅といった人類に普遍的な課題に取り組むための知見を構築することこそを目的とする社会科学である経済学というのが私なりの理解は間違っているのだろうかとか考えたりもしました。この度、本書を読んでroughな経済学についての僕の理解も赤点ではないかもしれないと(笑)思うことができました。帯広・十勝のやる気のある若い方々が経済学研究を志してほしいと強く望みます。
2020年3月6日(金)
春はcommencementの季節
2019年12月8日(日)
今年の1冊
佐々木 実『資本主義と闘った男』講談社2019年
宇沢弘文(1928年7月生まれ)東大名誉教授(以下、宇沢教授)が経済学を研究した軌跡。宇沢教授は、Communist、 社会主義者ではありません。学生の時の学部は理学部数学科でした。Kenneth Joseph Arrowに均衡価格の局所的な安定についての論文の批判を手紙に書いて、Arrowからスタンフォード大学に来ないかという旨の返事を1955年に得て、1956年に宇沢教授のリサーチ・アソシエイトとして経済学研究がスタートしました。その後は、新古典派の経済学を批判的に検討し、世界の著名な経済学者たちとともに経済学の発展に大きく寄与してきたことが、本書で述べられています。ジョージ・アカロフ、ジョセフ・スティグリッツ(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』 徳間書店の著者)は、宇沢教授のお弟子さんとのことです。ちなみに、お二人はともに2001年にノーベル経済学賞を受賞しています。宇沢教授は、86歳で2014年9月になくなっております。
<1945年8月、日本軍の無条件降伏とともに始まったパックス・アメリカーナの根幹には、新自由主義の政治経済的思想が存在する。新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。水や大気、教育とか医療、また公共的交通機関といった分野については、新しい市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく。社会的共通資本を根本から否定するものである。市場原理主義は、この新自由主義を極限にまで推し進めて、儲けるためには、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を[改革]して、儲ける機会を拡げる。そして、パックス・アメリカーナを守るためには武力の行使も辞さない。水素爆弾を使うことすら考えてもいい。ベトナム戦争、イラク侵略に際してとられた考え方である。
小泉政権の5年半ほどの間に、この市場原理主義が「改革」の名の下に全面的に導入されて、日本は社会のほとんどすべての分野で格差が拡大し、殺伐とした、陰惨な国になってしまった。この危機的状況の下で、2009年9月、歴史的な政権交代が実現した。しかし、国民の圧倒的な支持を得て発足した民主党政権は、大多数の国民の期待を無残に裏切って、パックス・アメリカーナの走狗となって、卑屈なまでに米国の利益のために奉仕している。普天間基地に始まり、今回のTPP加入問題にいたる一連の政策決定が示す通りである。>(同書611~612page)
僕的には、大学時代より宇沢教授のお名前は知っていました。大学3年時に宇沢教授の教え子の方のマクロ経済学の授業をうけましたが、微分・積分の方程式、数列などが山盛りでさっぱりわかりませんでした。その一方で、同書で何度も出てきています『自動車の社会的費用』(岩波新書)は卒論を書くときに読みました。
同書を読んで思ったことは、高校時の大学選択時に文系だから数学はやらない、特に、経済学は文系だから数学はいいとかいう進路指導は絶対やめなければならないということです。英語は重要です。だけど、それと同等以上に、大学で社会科学の勉強をしっかりとおこなうには高校程度の数学には習熟している必要があるということを強調したいです。[高校時代数学の勉強が残念ながらおろそかになった人は、もちろん大学入学後補習しながらでもO.K.です(笑)]
あと、経済において、中央集権より市場がいいのははっきりしています。でも、marketは所詮marketでしかないということをよく認識しなくてはならない。External diseconomiesをちゃんと見据えて、民の暮らしに立脚した社会をつくっていく。その時には、social common capitalがkey wordになりそうだということ。
宇沢弘文(1928年7月生まれ)東大名誉教授(以下、宇沢教授)が経済学を研究した軌跡。宇沢教授は、Communist、 社会主義者ではありません。学生の時の学部は理学部数学科でした。Kenneth Joseph Arrowに均衡価格の局所的な安定についての論文の批判を手紙に書いて、Arrowからスタンフォード大学に来ないかという旨の返事を1955年に得て、1956年に宇沢教授のリサーチ・アソシエイトとして経済学研究がスタートしました。その後は、新古典派の経済学を批判的に検討し、世界の著名な経済学者たちとともに経済学の発展に大きく寄与してきたことが、本書で述べられています。ジョージ・アカロフ、ジョセフ・スティグリッツ(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』 徳間書店の著者)は、宇沢教授のお弟子さんとのことです。ちなみに、お二人はともに2001年にノーベル経済学賞を受賞しています。宇沢教授は、86歳で2014年9月になくなっております。
<1945年8月、日本軍の無条件降伏とともに始まったパックス・アメリカーナの根幹には、新自由主義の政治経済的思想が存在する。新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。水や大気、教育とか医療、また公共的交通機関といった分野については、新しい市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく。社会的共通資本を根本から否定するものである。市場原理主義は、この新自由主義を極限にまで推し進めて、儲けるためには、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を[改革]して、儲ける機会を拡げる。そして、パックス・アメリカーナを守るためには武力の行使も辞さない。水素爆弾を使うことすら考えてもいい。ベトナム戦争、イラク侵略に際してとられた考え方である。
小泉政権の5年半ほどの間に、この市場原理主義が「改革」の名の下に全面的に導入されて、日本は社会のほとんどすべての分野で格差が拡大し、殺伐とした、陰惨な国になってしまった。この危機的状況の下で、2009年9月、歴史的な政権交代が実現した。しかし、国民の圧倒的な支持を得て発足した民主党政権は、大多数の国民の期待を無残に裏切って、パックス・アメリカーナの走狗となって、卑屈なまでに米国の利益のために奉仕している。普天間基地に始まり、今回のTPP加入問題にいたる一連の政策決定が示す通りである。>(同書611~612page)
僕的には、大学時代より宇沢教授のお名前は知っていました。大学3年時に宇沢教授の教え子の方のマクロ経済学の授業をうけましたが、微分・積分の方程式、数列などが山盛りでさっぱりわかりませんでした。その一方で、同書で何度も出てきています『自動車の社会的費用』(岩波新書)は卒論を書くときに読みました。
同書を読んで思ったことは、高校時の大学選択時に文系だから数学はやらない、特に、経済学は文系だから数学はいいとかいう進路指導は絶対やめなければならないということです。英語は重要です。だけど、それと同等以上に、大学で社会科学の勉強をしっかりとおこなうには高校程度の数学には習熟している必要があるということを強調したいです。[高校時代数学の勉強が残念ながらおろそかになった人は、もちろん大学入学後補習しながらでもO.K.です(笑)]
あと、経済において、中央集権より市場がいいのははっきりしています。でも、marketは所詮marketでしかないということをよく認識しなくてはならない。External diseconomiesをちゃんと見据えて、民の暮らしに立脚した社会をつくっていく。その時には、social common capitalがkey wordになりそうだということ。
2019年11月3日(日)
速報!
11月1日に令和2年度 帯広高等看護学院(以下、帯高看) 推薦・社会人/大卒等入学試験合格発表がありました。当塾生1名が推薦入試で合格しました。当日、お母様と一緒に合格の報告に来てくれました。その時、当塾生は人生の試練をひとつ乗り越えた達成感に満ちており、すごくよい表情をしておりました。合格おめでとうございます!!!僕もすごくうれしいです。
当塾生は専門高校に在籍しており、ここ何年も卒業生のなかに帯高看に進学された方がおられなかったために、それらのことが本人にとっての不安要因だったようです。しかしながら、高校三年間で専門科目を中心にしっかりと勉強し、部活動もインターハイ出場あと一歩まで頑張りました。中学時より看護師志望でまじめに頑張ってきたところを帯高看の先生方に評価されたのではないかと、僕は思っています。その一方で、入試科目の現代文は旺文社「現代文標準問題精講」をじっくりと辞書片手に取り組み、試験当日は余裕を持って学科試験に臨めたそうです。作戦、大成功です!(笑)。当塾生には、医療従事者の中で文字通り患者にもっとも近い専門職になって、新しい看護学・看護実践を開拓していってほしいと、大いに期待しております。
当塾生は専門高校に在籍しており、ここ何年も卒業生のなかに帯高看に進学された方がおられなかったために、それらのことが本人にとっての不安要因だったようです。しかしながら、高校三年間で専門科目を中心にしっかりと勉強し、部活動もインターハイ出場あと一歩まで頑張りました。中学時より看護師志望でまじめに頑張ってきたところを帯高看の先生方に評価されたのではないかと、僕は思っています。その一方で、入試科目の現代文は旺文社「現代文標準問題精講」をじっくりと辞書片手に取り組み、試験当日は余裕を持って学科試験に臨めたそうです。作戦、大成功です!(笑)。当塾生には、医療従事者の中で文字通り患者にもっとも近い専門職になって、新しい看護学・看護実践を開拓していってほしいと、大いに期待しております。