2016年4月14日(木)
学校論の名著
勝田守一 中内敏夫『日本の学校』岩波新書 1964年
「地域の人々の労働や、「経済成長」のもとで急変する生活の深い根に結びつきながら、すべての子どもたちの素直に抱く疑問を発展させ、民族や人類が蓄積した文化と現代科学の世界にかれらを導いていく学校が、日本人の求め続けてきた学校ではなかろうか。そのためには、教師の自由で創造的な研究と教育の活動が保障されなければならない。それには、父母とともに、教師たちが、学校行事や学校生活の規律・学校環境などにからみついている形式主義を除いて、事務の負担を軽くし、子どもの創造性を引き出す授業を豊かにする努力を必要とする。地域の社会の人々と父母と教師とが、真の国民の形成をめざして、「民間公共体」としての学校をつくり出すことに成功すれば、国民は学校を、自分たちのものと感じられるであろう。」267ページより
戦後の日本の教育学をリードしてきた二人の碩学の学校論。歴史、社会という観点からわが国の学校教育の課題をあぶりだしている。50年も前に出版されているが、現代のわが国の学校教育を考えるうえでもきわめて有効な知見を提示している。特に、日本の学校が地域主義と結びつくことで発生する「でかせぎ」型地域主義という指摘は卓見である。つまりはこうである。地域主義の教育原理としての、アメリカのcommunity-schoolを地域の産業技術に教材を求め、学校を地域の開発や社会問題の解決の過程にとりこもうとする反中央集権的な動きであるとしている。その一方で、日本の学校の地域主義は、地域から多数の人材を育成し、送り出し、それを通して地域を重からしめるという意味では地域主義だけれども、その重くなるのは地域で育成された人材が中央とつながり、中央で名をなすという過程を通じてである、という意味では中央集権的であるとし、その違いを明らかにしている。子どもたちを育成する学校は、地域には背をむけて、ひたすら政・官界、学界、財界の上層をめざす中央集権的志向に貫かれていなければならない。それが真に地域を重んじるゆえんであるという、いわば村を出つつ、村を育てる「でかせぎ」型が、日本の学校の地域主義であるとしている。
この春も多くの若者たちが帯広を離れて行きました。学校の成績がよい子どもたちほど、都会志向は強そうです。また、そのような生徒を抱えている学校ほど人気がありそうです。こういう私も、高校を卒業し都会の大学に入るために当たり前のように帯広を出て行きましたから偉そうなことは言えません。ただ、帯広を出て行って、他の地域で新しい知識や技術を身に付けた人々が再び帯広に戻って暮らしていくしかけや他の地域の若者たちを帯広に引き寄せるしくみをつくる必要性を今さらながら強く感じます。これらの事がらを考えるヒントはやはり、学校で先生方が地域の産業界の人々と関わりながらなにを教えるのかということや帯広・十勝でなきゃ研究できないことはないのかということなどを追究すること、つまりは教育や学術研究の新たなテーマの探求にいきつくのではないかと考えるのは僕だけでしょうか?
「地域の人々の労働や、「経済成長」のもとで急変する生活の深い根に結びつきながら、すべての子どもたちの素直に抱く疑問を発展させ、民族や人類が蓄積した文化と現代科学の世界にかれらを導いていく学校が、日本人の求め続けてきた学校ではなかろうか。そのためには、教師の自由で創造的な研究と教育の活動が保障されなければならない。それには、父母とともに、教師たちが、学校行事や学校生活の規律・学校環境などにからみついている形式主義を除いて、事務の負担を軽くし、子どもの創造性を引き出す授業を豊かにする努力を必要とする。地域の社会の人々と父母と教師とが、真の国民の形成をめざして、「民間公共体」としての学校をつくり出すことに成功すれば、国民は学校を、自分たちのものと感じられるであろう。」267ページより
戦後の日本の教育学をリードしてきた二人の碩学の学校論。歴史、社会という観点からわが国の学校教育の課題をあぶりだしている。50年も前に出版されているが、現代のわが国の学校教育を考えるうえでもきわめて有効な知見を提示している。特に、日本の学校が地域主義と結びつくことで発生する「でかせぎ」型地域主義という指摘は卓見である。つまりはこうである。地域主義の教育原理としての、アメリカのcommunity-schoolを地域の産業技術に教材を求め、学校を地域の開発や社会問題の解決の過程にとりこもうとする反中央集権的な動きであるとしている。その一方で、日本の学校の地域主義は、地域から多数の人材を育成し、送り出し、それを通して地域を重からしめるという意味では地域主義だけれども、その重くなるのは地域で育成された人材が中央とつながり、中央で名をなすという過程を通じてである、という意味では中央集権的であるとし、その違いを明らかにしている。子どもたちを育成する学校は、地域には背をむけて、ひたすら政・官界、学界、財界の上層をめざす中央集権的志向に貫かれていなければならない。それが真に地域を重んじるゆえんであるという、いわば村を出つつ、村を育てる「でかせぎ」型が、日本の学校の地域主義であるとしている。
この春も多くの若者たちが帯広を離れて行きました。学校の成績がよい子どもたちほど、都会志向は強そうです。また、そのような生徒を抱えている学校ほど人気がありそうです。こういう私も、高校を卒業し都会の大学に入るために当たり前のように帯広を出て行きましたから偉そうなことは言えません。ただ、帯広を出て行って、他の地域で新しい知識や技術を身に付けた人々が再び帯広に戻って暮らしていくしかけや他の地域の若者たちを帯広に引き寄せるしくみをつくる必要性を今さらながら強く感じます。これらの事がらを考えるヒントはやはり、学校で先生方が地域の産業界の人々と関わりながらなにを教えるのかということや帯広・十勝でなきゃ研究できないことはないのかということなどを追究すること、つまりは教育や学術研究の新たなテーマの探求にいきつくのではないかと考えるのは僕だけでしょうか?
2016年3月17日(木)
今の沖縄を知るための1冊
櫻澤 誠『沖縄現代史』中公新書 2015年
沖縄が辿った戦後約70年の通史。下記のような構成です。
まえがき
第1章 「沖縄戦」後の米国占領 1945~52
第2章 「島ぐるみ」の抵抗 1952~58
第3章 沖縄型高度経済成長1958~65
第4章 本土復帰へ1965~72
第5章 復帰/返還直後-革新県政の苦悩1972~78
第6章 保守による長期政権-変わる県民意識1978~90
第7章 反基地感情の高揚-「島ぐるみ」の復活1990~98
第8章 「オール沖縄」へ-基地・経済認識の転換1998~2015
あとがき
いまだに大きい保革対立のなかで、2010年4月25日に開催された「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」の頃から「島ぐるみ」に代わり、「オール沖縄」の呼称が一般的になってきました。このことをどのように理解したらいいのかという問題を考えるための最適な作品であると思います。
その手掛かりとして「構造的差別」という言葉が沖縄社会で頻繁に用いられるようになったことがあげられるのではないかと同書を読んで学びました。沖縄現代史研究者の新崎盛暉さんによれば、「構造的沖縄差別とは、対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組みである」としています。
翁長雄志知事を含め、沖縄保守政治家は、沖縄県が日本の一員、一地域であることを前提とし、日米同盟の重要性を認め、必要な基地については同意する立場をとっています。その上で、合理性のない不必要な基地の整理縮小を求めてもいます。
沖縄の人々の「沖縄人」そして「日本人」としてのアイデンティティを理解するためにも櫻澤 誠氏の「沖縄現代史が辿った道のりを、可能な限り偏見をもたず、直視することが重要なのである。」という主張に賛同しました。
沖縄が辿った戦後約70年の通史。下記のような構成です。
まえがき
第1章 「沖縄戦」後の米国占領 1945~52
第2章 「島ぐるみ」の抵抗 1952~58
第3章 沖縄型高度経済成長1958~65
第4章 本土復帰へ1965~72
第5章 復帰/返還直後-革新県政の苦悩1972~78
第6章 保守による長期政権-変わる県民意識1978~90
第7章 反基地感情の高揚-「島ぐるみ」の復活1990~98
第8章 「オール沖縄」へ-基地・経済認識の転換1998~2015
あとがき
いまだに大きい保革対立のなかで、2010年4月25日に開催された「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」の頃から「島ぐるみ」に代わり、「オール沖縄」の呼称が一般的になってきました。このことをどのように理解したらいいのかという問題を考えるための最適な作品であると思います。
その手掛かりとして「構造的差別」という言葉が沖縄社会で頻繁に用いられるようになったことがあげられるのではないかと同書を読んで学びました。沖縄現代史研究者の新崎盛暉さんによれば、「構造的沖縄差別とは、対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組みである」としています。
翁長雄志知事を含め、沖縄保守政治家は、沖縄県が日本の一員、一地域であることを前提とし、日米同盟の重要性を認め、必要な基地については同意する立場をとっています。その上で、合理性のない不必要な基地の整理縮小を求めてもいます。
沖縄の人々の「沖縄人」そして「日本人」としてのアイデンティティを理解するためにも櫻澤 誠氏の「沖縄現代史が辿った道のりを、可能な限り偏見をもたず、直視することが重要なのである。」という主張に賛同しました。
2016年2月3日(水)
速報Ⅱ
一昨日、浦河赤十字看護専門学校の一般入試の合格発表がありました。当塾の塾生が一人合格しました。ナースになることは、彼女の中学時代からの夢でした。高校では部活の副部長をやり、立派にその任務を果たしました。当該部は十勝代表として全道大会に出場しました。勉強もよく頑張り、学業評定はきわめて優秀でした。高校時代のご馳走をすべて満喫した3年間だったのではないでしょうか。
塾では特に英語をよく頑張りました。紙辞書を丹念に引き、文法の要点(単語の品詞など)に注意しながら、イディオムを覚えつつ、英文を検討し着実に力をつけていったことが今回の結果につながったのでしょう。
「患者さんに、医療従事者のなかで言葉通りの意味でいちばん近い存在であるナースとしてご活躍される日をイメージしながら益々勉強頑張ってください。」
塾では特に英語をよく頑張りました。紙辞書を丹念に引き、文法の要点(単語の品詞など)に注意しながら、イディオムを覚えつつ、英文を検討し着実に力をつけていったことが今回の結果につながったのでしょう。
「患者さんに、医療従事者のなかで言葉通りの意味でいちばん近い存在であるナースとしてご活躍される日をイメージしながら益々勉強頑張ってください。」
2016年1月2日(土)
新年を迎えまして、早々に目から鱗が落ちました
元森絵里子『語られない「子ども」の近代 年少者保護制度の歴史社会学』勁草書房2014年
子どもと何らかの理由で関わっておられる方々は、「目の前の子どもとはどういう存在なのだろうか」(同書より)と一度は疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。また、「尊重と統制、放任と系統、保護主義と責任主義、保護と自律、配慮と手続き」(同書より)といった関わり方の方法論をめぐって多重の振り子のように自らの内に葛藤を積み重ねてきているのではないでしょうか。ご同情申し上げます。実は、僕がそうです(笑い)。それらの原因のひとつは、子どもとはどういう存在かよくわからないのに、子どもという言葉を自明なものとして使っているからなのではないでしょうか。このアポリアを考えるために、上記の作品は最高です。とくに、子どもと職業的に関わっておられる方々にはお薦めです。きっと、読了後は子どもとの関係を構築する上で新しい地平線を開くきっかけを手に入れられるのではないでしょうか。しっかり読めば、終章まで到達可能な専門書です。
・「子ども」とは何か-。「子ども」と「大人」の境とは何か-。私たちは、しばしばこの疑問に取りつかれる。だが、そもそも「子ども」とは何かは、一義的に定義できるのだろうか。私たちは、「子ども」とは何かという問いに、確固たる答えを持ってきたのだろうか。(同書より)
・今後どのように年少者を語り、どのように処遇していくか考えるためにも、目の前の「子ども」に対する「まなざし」が歴史的かつ言説上構築されたものであり、現在もそれが制度に組み込まれていること、と同時にその外部が潜在していることを、自覚することから始めるしかない。結局、特定の意味論を前提に、「子どもの揺らぎ」という感傷的・衝撃的な物言いをするのではなく、私たちの言葉や実践が一枚岩ではないという事実を、一つひとつ見ていく必要があるのである。(同書より)
本書は下記の通り章立てされています。
はしがき
序 章「子ども」の近代を問い直す
第Ⅰ部 「子ども」の近代とはいかなるものか
第一章 教育の「児童」・司法の「少年」
-「子ども」の近代の成立とその内部の差異
第二章 「児童」の構築・放置される外部
-「子ども」の近代の成立をめぐる身体と言葉
第Ⅱ部 年少者へのまなざしの複層性
第三章 労働力から「児童」へ?
-工場法成立過程に見る「児童」の成立の裏側
第四章 フィクションとしての「未成年」
-未成年者飲酒禁止法制定過程に見るだらしない「子ども/大人」語り
第五章 自由意志なき性的な身体-公娼制問題に見る「子ども」論の欠如
終 章 語られない年少者像・語り続けられる「子ども」
あとがき
みなさま、どうぞ、今年も当ブログをよろしくお願いします。
子どもと何らかの理由で関わっておられる方々は、「目の前の子どもとはどういう存在なのだろうか」(同書より)と一度は疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。また、「尊重と統制、放任と系統、保護主義と責任主義、保護と自律、配慮と手続き」(同書より)といった関わり方の方法論をめぐって多重の振り子のように自らの内に葛藤を積み重ねてきているのではないでしょうか。ご同情申し上げます。実は、僕がそうです(笑い)。それらの原因のひとつは、子どもとはどういう存在かよくわからないのに、子どもという言葉を自明なものとして使っているからなのではないでしょうか。このアポリアを考えるために、上記の作品は最高です。とくに、子どもと職業的に関わっておられる方々にはお薦めです。きっと、読了後は子どもとの関係を構築する上で新しい地平線を開くきっかけを手に入れられるのではないでしょうか。しっかり読めば、終章まで到達可能な専門書です。
・「子ども」とは何か-。「子ども」と「大人」の境とは何か-。私たちは、しばしばこの疑問に取りつかれる。だが、そもそも「子ども」とは何かは、一義的に定義できるのだろうか。私たちは、「子ども」とは何かという問いに、確固たる答えを持ってきたのだろうか。(同書より)
・今後どのように年少者を語り、どのように処遇していくか考えるためにも、目の前の「子ども」に対する「まなざし」が歴史的かつ言説上構築されたものであり、現在もそれが制度に組み込まれていること、と同時にその外部が潜在していることを、自覚することから始めるしかない。結局、特定の意味論を前提に、「子どもの揺らぎ」という感傷的・衝撃的な物言いをするのではなく、私たちの言葉や実践が一枚岩ではないという事実を、一つひとつ見ていく必要があるのである。(同書より)
本書は下記の通り章立てされています。
はしがき
序 章「子ども」の近代を問い直す
第Ⅰ部 「子ども」の近代とはいかなるものか
第一章 教育の「児童」・司法の「少年」
-「子ども」の近代の成立とその内部の差異
第二章 「児童」の構築・放置される外部
-「子ども」の近代の成立をめぐる身体と言葉
第Ⅱ部 年少者へのまなざしの複層性
第三章 労働力から「児童」へ?
-工場法成立過程に見る「児童」の成立の裏側
第四章 フィクションとしての「未成年」
-未成年者飲酒禁止法制定過程に見るだらしない「子ども/大人」語り
第五章 自由意志なき性的な身体-公娼制問題に見る「子ども」論の欠如
終 章 語られない年少者像・語り続けられる「子ども」
あとがき
みなさま、どうぞ、今年も当ブログをよろしくお願いします。